やすいゆたか著作集第七巻

「聖餐による復活」仮説下
―イエスは食べられて復活した―

(社会評論社刊『イエスは食べられて復活した』改題)

 Copyright (C) 2011 Yutaka Yasui. All rights reserved.

 本書のPDF化にあたって(2011年4月9日)

❏『イエスは食べられて復活したーバイブルの精神分析・新約篇』をPDF化して、広く世界にイエスの聖餐による復活仮説を知ってもらうことにした。

❏本書は著者自らが認めるように仰天仮説である。世界史上の最大の謎は、十字架で刑死した筈のイエスが三日目に復活して弟子たちの前に現われたという奇蹟である。キリスト教徒なら、神が復活させたと信仰しておればよいかもしれないが、非キリスト教徒にそれを強制するのは無理である。

❏そこでそれは作り話であろうということになる。そうすると弟子たちも復活を信じていなかったことになり、キリスト教徒たちは、イエスの弟子集団の嘘に騙されているインチキ教団だという認識になる。これでは宗教的対話はできないことになるのではないだろうか。

❏最近はキリスト教徒まで、福音書を信仰体験の記録とは読まず、イエスの実在まで疑って、神話として創作されたイエスを信仰すればよいというキリスト神話論に汚染されている。

❏福音書には粉飾がゼロというわけではないが、弟子たちの信仰体験が語り伝えられており、創作では書けない、実体験としか思えないこともあり、精神分析することによって、彼らの復活体験の真相に迫ることは可能なのである。

❏いわゆる聖書学者たちは、合理的解釈と称して、テクスト批判を行い、これらの記録が全く信用ならないものだとこき下ろすことによって、復活後の原始キリスト教団の原点を抹消してしまったのである。それでイエスは悪霊追放もしていなければ、山上の垂訓も述べていないし、十字架に賭けられて復活したわけでもない、キニク派的な賢人に過ぎないとまで断定する者が出てきた。なぜそういうことになるのか、それは福音書を先ずは素直に読んで、それを精神分析してみないからである。

❏ある聖書学の権威は福音書は精神分析の対象ではないと断じたが、イエスをただの世捨て人にして、どうして命懸けでキリスト教団を広げた初期キリスト教徒たちの情熱が説明できようか。フロイトは『旧約聖書』を精神分析して、モーセはエジプト人でヘブライ人に殺されたとまで言ったのではないのか。

❏おそらく精神分析すれば私と同じ結論になるのが怖いのだろう。それがキリスト教を冒瀆することになると恐れたからだろう。しかしイエスの肉を食べ、血を飲めという命令は、終わりの日に甦るための条件として、ガリラヤ時代のイエス自身が示したことであり、そして今日もキリスト教の儀礼の中心はイエスの聖餐である。

❏復活体験は、主の聖餐があったとして初めて精神分析上では説明可能になる。それによってキリスト教は、はじめて異教徒にとって、大いなる命のパンの思想として理解され、共鳴し得るものとなり、宗教的対話が成立するのである。決してそれは忌まわしい事ではなく、聖なる事件であり、奇蹟だったのだ。
注ー本書は『やすいゆたかの部屋』の「やすいゆたか書院」にPDF版として収録していたが、サーバーが変わって容量の関係で無理になり、こちらのブログに掲載することにした。
2018年3月18日

イエスは食べられて復活した
―バイブルの精神分析・新約篇

目次

本書のPDF化にあたって  ブロローグ「人喰い」と「イエスの復活」

第一章 ユダヤ教とキリスト教とは何か………15
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/18/jtf1/
第二章 イエスの降誕………………………………23
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/18/jtf2/
第三章 イエスの出家…………………………………34
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/19/jtf3/
第四章 ガリラヤでの伝道……………………………46
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/19/jtf4/
第五章 悪霊退散のパフォーマンス………………61
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/20/jtf5/
第六章 メシアをとるかトーラーをとるか……71
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/20/jtf6/
第七章 命のパンと教団大分裂
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/20/jtf7/
第八章 エルサレムへ
………………………………89
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/20/jtf8/
第九章 最後の晩餐………………………………………106
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/20/jtf9/
第十章 ゴルゴダへの道…………………………………114
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/21/jtf10/
第十一章 イエスの聖餐………………………………… 126
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/21/jtf11/
第十二章 イエスの復活………………………………… 133
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/21/jtf12/
エピローグ「命のパン」における循環と共生の思想
143
あとがき…………………………………………………………148
PDF版あとがき……………………………………………151
https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/21/jtfe/

 プロローグ「人喰い」と「イエスの復活」

「人喰い」と言う者が「人喰い」

「竹田英尚著 『文明と野蛮のディスクール』」の画像検索結果「人喰い」など飢餓の時以外にはなかった。文化的慣習としては存在しなかったという画期的な学説が書かれてあると、竹田英尚著 『文明と野蛮のディスクール』(ミネルヴァ書店、2000年刊)に書いてありましたので、 W・ アレンズ著、折島正司訳『人喰いの神話ー人類学とカニバリズムー』(岩波書店、1982年刊)を最近(2000年、七月)読みました。

竹田もアレンズの立場に立って、「カニバリズム」を相手を野蛮視することで、不当に抑圧するためのレッテルと解釈し、「人喰い」は神話に過ぎないと考えています。

アレンズの言い分では、非西洋人が人喰いをしていることを指摘することによって、西洋人は非西洋人を野蛮で、非人間的で、価値が低いと決めつけていたのです。

それでそういう連中の形成した文明や文化は破壊し、植民地として支配して、半強制的にキリスト教に改宗させるべきであるという結論を導き出してきたそうです。

意図的か無意識か、いずれにせよ、非西洋人の人喰いの存在を連想させる情報は、西洋人が自分たちの強欲からくる略奪や圧政、大量虐殺を正当化するのに格好の情報であったわけです。

西洋人は、自分の目で見て確かめたわけでもないのに、非西洋人に人喰いの伝承や噂があれば、簡単に信用してしまいます。ところが西洋人に関しては、そんなことをするのは悪魔か鬼にされてしまいます。キリスト教徒が初期に子供を生贄にし、みんなで食べていたという人喰いの秘儀の情報がありますが、西洋人は、これを弾圧のためのデマゴギーであったと簡単に決めつけ、絶対にそんなことはなかったと確信しています。

歴史知とフェティシズム石塚正英著『歴史知とフェテイシズム』(理想社、2000年六月刊)によりますと、マルクスは1847年11月30日のロンドンのドイツ人労働者協会の演説で、そのことを記したダウマー著『キリスト教古代の秘密』を紹介し、この著作で「キリスト教は最後の一撃をくらった」と述べています。

しかし自分たちの子を喰い合わなければならなかった教団が、世界宗教にまで拡大できたはずがありません。わたしもこの種の噂は「人の子の肉を食べ、血を飲まなければ、永遠の命は得られない」という「ヨハネによる福音書」の「人の子」の意味の取り違えから生じた誤解であったと思います。

「人の子」というのは「メシア」つまり救世主=キリストのことであり、一般人の子供では決してありません。ユダヤ教・キリスト教の文化では、人喰いは絶対のタブーでしたし、パンとワインによる聖餐が当初よりありましたから、そのような教会の秘儀はありえません。

西洋人は自分たちは人喰いではないと確信していますが、自分たち以外の人間なら野蛮だから、人喰いもやりかねないと思っているそうです。でも人喰いがタブーでない社会などは、基本的にはあり得ません。そうでないと安心して寝てられませんからね。

それでも西洋人は、東洋人や中南米のインディオなら理性が劣るので、人喰いをしかねないと思っています。特にアフリカの首狩り族などが人喰いをしているのは、疑う余地はないと確信しています。それでアレンズは首狩り族にも取材していますが、人喰いの場面は目撃できませんでした。人を食べたと自認する人も皆無だったと言います。

逆にアフリカ人は西洋人は子供を食べる人喰いだと確信しているらしくて、アレンズ自身が子供を誘拐して食べるのではないかと、首狩り族の人々にずっと警戒されていたということです。

彼は人喰いで最も有名な南米のアステカ族とアフリカの首狩り族の取材を通して、「人喰い」が他部族に貼るレッテルであり、相手を人間以下と見なすためのイデオロギー的な神話だという感触を掴んだのです。

アステカ族では大量の人身御供(ひとみごくう)が行われ、首が何千と並べられ、その肉はお下がりでみんなで食べたとされています。でも首が並べられたのは事実でも、その肉を食べている現場を直接見た学者はいません。だからあくまで伝聞に過ぎないというのです。

その証拠に人喰いをしているはずのアステカ族が、スペイン人との戦闘で町を包囲され、飢餓に陥ったとき、だれも食べられずに大量の餓死者を出したそうです。

アレンズは、北京原人の頭蓋骨に穴が開いているのを人喰いの証拠と見ることにも懐疑的です。霊を抜くための穴開けかもしれないという解釈だって可能なのです。それを人喰いと解釈するのは、自分たちではなく、自分たち以外の文化圏の人間だからだそうです。

確かに西洋人が非西洋人に人喰いの汚名を着せたがるのは、非西洋人を人間以下と見なすことで、彼らを西洋人に隷属させたかったからかも知れませんね。このことを指摘したアレンズには、侵略やそれに伴う虐殺や強奪、その後の植民地支配を反省する西洋人としての良心が窺えて、感動すら覚えます。

「人喰い」というレッテル貼りの多くが、差別的偏見に基づくという指摘は、たしかに心して受け止めておくべきでしょう。でもそのことと人喰いの事実は区別すべきです。

カニバリズムと正面から取り組んだ著作に大西俊輝著『人肉食の精神史』(東洋出版、1998年刊)があります。大西は臓器移植に携わる医師としてカニバリズムの倫理上の問題を誠実に見極めようとしたものです。カニバリズムを扱う場合に是非読んでおくべき本です。

山口昌男は、『人喰いの神話』の解説「人を食った人類学」で、前王の心臓を粉末にして乾燥したものを食べる王による食人は最も聖なるものとして語られていて、決して他部族による否定的な表現によることだけではないと、アレンズを批判しています。(同書257~258頁)

中国でも歴史書には、反逆者の内臓を膾(なます)にして食べたことが載っています。最近では文化大革命では、走資派の肉を大勢で食べたということです。そのお陰で走資派の精神が文革派に乗り移って、かえって資本主義的発達を促進してしまったのでしょうか。(これはイロニーですよ、本気でとる読者もいるかもしれませんから念のため。)

日本では最近まで、父の葬儀で、その骨を子供たちが噛むという「骨噛み」の儀式が行われていたようです。この話は、五木寛之の『青春の門』にも出てきます。

骨噛みが人喰いの名残かどうか、議論の余地はあるでしょう。それにおそらくアレンズは、そういうのは全部伝聞であって、自分の目で見て確かめない限り信じるべきではないというでしよう。なぜなら、アレンズは「人喰い」を自分たちの文化に属さない者を非人間化するための「神話」という観点からしか見ないからです。

確かに共食いを認めますと、社会が存立できなくなるので、人喰いは、どの文化圏でも原理的にタブーです。でも、深刻な飢餓や特別の重要な、または神聖なる目的のためであれば、例外的に文化として秩序立ってカニバリズム(人肉を食べたり、人血を飲食する慣習)が実行されてきた可能性は否定できません。「人喰い」と言えば、アレンズは、忌まわしい悪魔的な行為でしかないという固定観念で捉えているので、その存在を指摘することは、相手に対する最大の蔑視、冒瀆だと思い込んでいるのです。

でも葬儀に当たって霊能を継承したり、対象との同一化をはかるためのカニバリズムは、すこしも忌まわしい行為ではないのです。また現代人は治療のためとあれば、直接他人の血を自分の血管内に注入しています。この輸血も吸血の一種と言えるかもしれません。それにたとえ慣習的に文化として行われてきたことでも、秘儀であればよそ者には見せないのが掟ですから、人類学者の目撃証言がないのは当然なのです。

アレンズが何故「人喰いは神話」だと言い張るのかを、精神分析で診断しますと、実は自我防衛機制の「投射」に当たるのです。「投射」とは同一視の一種で、自己の欠点を認めたくないので、それをあたかも他人の欠点であるかに無意識に言い張ってしまうことによって、その欠点を指摘している自分には属さないと無意識に思い込もうとすることです。

だからアレンズは「馬鹿と言う者が馬鹿」と思われるから、他人を馬鹿というなと言いたいのです。つまり他人を確固たる証拠もないのに、「人喰い」だと決めつけると、自分たちも「人喰い」だと決めつけられるぞ、だから人喰いと決めつけるのはよしにしようという姿勢です。つまりアレンズは、自分たちキリスト教徒も異教徒からみれば、人喰いだと断定されておかしくないようなことをしていることを自覚しているのです。

キリスト教では教会の中心儀式は、聖体拝受です。つまりイエスの肉を食べ、血を飲む儀式です。それは実際はパンを食べ、赤ワインを飲んでいるのですが、正式の教義では、パンはキリストの体である教会の中では、神父の呪いで本物のイエスの肉になり、赤ワインは本物のイエスの血になるということなのです。

これを象徴的に解するのは問違っていて、奇跡と受け止めるべきだというのです。ということは教会の正式の教義では、キリスト教徒はカニバリズムを行っていることになります。それで異教徒がイエスの聖餐についてのカトリックの正式の教義を知ったら、キリスト教徒に人喰いの嫌疑をかけるのも当然だとアレンズは心配しているのです。

アレンズの「人喰い」と言い合うのは止めようという呼びかけは、学者としては実に中途半端な臆病者の態度です。パンや赤ワインでの聖餐は、人身御供や動物の生贄に伴う聖餐の名残りだと考えられます。その起源を遡れば当然カニバリズムに行き着かざるを得ないのです。

アレンズは、科学的なポーズの下にエポケー(判断停止)に誘い込んでいるのです。特にイエスの聖餐の起源は、それについて考えれば考えるだけ、イエスの弟子たちがイエスの肉を食べ、血を飲んだという歴史的原行為、秘儀の存在への想像を抑えられなくなるはずです。それがイエスを冒瀆する大変忌まわしい行為のように思えて、それでアレンズは議論がそこまで行き着くことを恐れるあまり、カニバリズム全体の議論をエポケーさせようとしているのじゃないでしょうか。

でもアレンズの態度こそ、キリスト教への冒瀆なのです。なぜなら人肉を嗜好で食べたくて、猟奇殺人を繰り返す最も忌まわしい行為と、聖霊の引き継ぎという最も神聖な行為を混同して、十把一からげに論じているのですから。

パンをイエスの肉だと思って食べるのが少しも忌まわしい行為でないのなら、直接イエスの肉を食べる行為が忌まわしいはずがありません。だってイエス自身が、人の子の肉こそまことの食材だと語っているのですから。

2、イエスは食べられて復活した!?

「『フェティシズム論のブテッィク』」の画像検索結果「イエスは食べられて復活した」という仮説に到達したとき、我ながらこれは仰天仮説だと思いました。(註―石塚正英・やすいゆたか共著『フェティシズム論のブテッィク』論創社1998年参照、石塚との対話とその後の著述を通して「聖餐による復活」仮説は形成されていったのです。)だってユダヤ教やキリスト教では人の肉を食べたり、血を飲んだりすることは、カニバリズムと呼ばれ、最も忌まわしいタブーとして厳禁されているからです。その教祖のイエスが自分の肉を食べさせ、血を飲ませて、そのことによって弟子たちに自分の中に宿っていた聖霊を引き継がせようとしたというのです。

まずそんなことは絶対にするはずがないという固定観念があります。例えば人の死肉を食べると「人喰い」と人非人(にんぴにん)のごとく呼ばれ、血を飲むと「吸血鬼」と呼ばれますから、全く人間の限界を越えた行為として排斥されているわけです。それを自分の弟子に強要したというのですから、ちょっとふざけた暴論じゃないかという人もいます。

でも本書をじっくり読んでいただけば、決してキリスト教を冒瀆するような議論ではなく、イエスの「命のパン」の思想を現代に生かすべきことを提唱する、埋もれたイエスの「復活」を目指したものだと分かっていただけると思います。

たしかにカニバリズムは、厳禁しておきませんと安心して眠れません。フロイトの精神分析によりますと、カニバリズムの衝動は殺人衝動と共に、抑圧されて潜在意識の中に潜んでいる人間の根源的衝動なのですから、そんなことをすれば鬼か悪魔だぐらいに言っておく必要が有るのかもしれません。

でもフランスの裁判所は、「女の肉は羊より旨い」と書いてあった中野美代子の『カニバリズム論』を読んで、オランダ娘を本当に食べてしまった佐川一政を精神病扱いして無罪にしてしまいましたが、タブー破りを精神病で無罪だというのはとんでもない間違いです。佐川本人が『霧の中』(話の特集、一九八三年刊)でその体験を書いています。

「『カニバリズムの秩序 』」の画像検索結果それにかつては、カニバリズムを社会の秩序の中にきちんと組み込んでいた時代があったのでつまりカニバリズムはれっきとした文化だったのです。ジャックアタリが『カニバリズムの秩序 』(みすず書房)という本で詳しく紹介しています。アフリカで「人喰い人種」などと差別的に呼ばれていた人々は、戦争で捕らえた敵の勇士を食べて、その勇敢さを引き継ぐという聖なる儀式をする人々 でした。

未開社会では戦争捕虜として敵の部族の子供を育てまして、飢謹の時に食べたり、自分の部族内でも飢護の時には自分の子供を食べたりしたのです。あるいは宗教儀式として選ばれた子が神格化され、神との合一という名目で皆に食べられます。競技で優勝した戦士が神として食べられるということもありました。また神に人身御供として選ばれた人が捧げられます。その際にお下がりで皆で食べることもありました。

本書のテーマと関連しますが、食べることによって死者を再生させるという信仰があったのです。子供が親に食べられますと、親の体に帰ったことになりますから、また生まれてきます。アイヌのイオマンテでは食べられた熊は、あの世に生まれます。また食べられた戦士たちの勇敢な魂は食べた戦士の魂の中に再生して生きつづけます。

また中国ではグルメ料理の極致として人肉料理が珍重されることが文明時代でも続いていたと言われます。そういう料理の本が残っているのです。

「Le Devisement du monde」の画像検索結果これはあまり知られていませんが、マルコ・ポーロの『東方見聞録』では、日本を黄金の島ジパングとして紹介していますが、そこではジバングの人々は人肉を好んで食べていたとされています。誘拐してきた人の家族に身代金を要求し、それが聞き入れられないと、一族で料理して食べてしまうというのです。

もちろん日本は弥生時代以降は飢饉の時以外は、人肉を食べたりはしていません。これは元の国で一部で残っていた風習を、日本の事のようにマルコに話したのでしょう。

ではどうしてイエスが弟子たちに自分の肉と血を食べさせたことが推測できるのかという本論に戻りましょう。それは何よりもキリスト教徒たち自身が、今日でもイエスの肉を食べ、血を飲んでいると称しているからです。それはキリスト教会の礼拝の中の中心的な儀式として日曜日ごとに行われています。いわゆる「主の聖餐」つまり主イエスキリストを食べる聖なる食事と呼ばれているものです。

なあんだ、ミサのことか、あれはパンをイエスの肉と呼び、赤ワインをイエスの血と呼んで、イエスとの合一を象徴する儀式じゃないか、そんなことは知ってるよ、と言われる方は多いと思います。

「『キリスト教とカニバリズム』」の画像検索結果しかし現在でもカトリック教会が固執している元来の教義では、単なる象徴的な儀式ではなく、本当にイエスの肉を食べ、血を飲む儀式なんです。(註―やすいゆたか著『キリスト教とカニバリズム』「第七章 聖餐式(エウカリスティア)の神学」141ー160 頁参照。)神父が祝福することでパンはパンの姿や味のままイエスの肉になり、赤ワインは赤ワインの姿や味のままでイエスの血となるとされているのです。

ですからこれは凄い秘儀であり、奇跡です。そんなことが教会ではしょっちゅう起こつているのです。ええ?宗教だから別にいいじゃないか、どんな風に考えたって、と気にも止めない人が多いですね。

もちろん信仰の自由ですが、それにしてもかなり無理のある教義ですね、どうしてパンをイエスの肉、赤ワインをイエスの血としなければならないのでしょう。おそらくイエスと合一したいという愛の極致を表現しているのです。愛の肉体的表現としては合一したいという感情がわき起こります。これは抱擁、スキンシップ、接吻、性交と深まって、究極が愛する相手を食べてしまいたいというカニバリズムに行き着くのです。

宗教と性愛は、肉体的表現では融合するところがあるのです。キリスト教では賢明にも、イエスの体をパンや赤ワインに置き換えて、性愛との融合を回避しているわけです。

それにしてもパンや赤ワインにイエスを置き換えるのは、キリスト教の根本的な教義と矛盾します。子なる神イエス・キリストは、パンとか赤ワインという事物の姿で現れてもいいのでしようか。イエスは天上に昇ったっきり、未だに再臨されていませんから、イエスの肉体を食べるわけにはいきませんし、パンや赤ワインなら安上がりでいいじゃないかということもありますね。でも安上がりや便利ということで何でも許されるなら、教義は成り立ちませんから、自己の宗教の正当性を主張できなくなります。これでは宗教としては幼稚なものになってしまいます。

たしかにパンがイエスの肉、赤ワインがイエスの血というのは幼稚な迷信とも見なせます。でもこれはキリスト教会の中心的儀式なのですから、それがいい加減というのも困りものです。

イエスがパンや赤ワインになって食べることができるのは大変ありがたくて、結構じゃないかという意見もあるようですが、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教などの唯一神論では、神を有限で相対的な物とみなすことを厳禁しています。木や土や金属で出来た偶像と見なしたり、石や大木や山や蛇や鹿や龍などの自然物や動植物と見なすことは神を限定し、貶めることとして、神への最大の冒瀆と見なしているわけです。そういう偶像崇拝やフェティシズム(物神崇拝)をしているという理由で沢山の部族が神の義のためにという名目で絶滅させられているのです。それなのに自分はパンをイエスの肉、赤ワインをイエスの血だというのは、とても許されることではないはずです。

露骨なフェティシズムを二千年間続けてきた理由を精神分析しますと、イエスの本物の肉を食べ、血を飲んだという元の行為、つまり原行為があったとまず仮定できます。それはカニバリズムタブーに抵触する問題行動だったのです。それでもカニバリズムタブーに抵触していても、神聖な正当な行為であったことを無意識に主張するために、その同じ行為を無意識に繰り返しているのです。

この〈反復〉も自我防衛機制の一種だと考えられます。(註―自我防衛機制で「反復」というのはフロイトの著作や娘のアンナ・フロイトの『自我と防衛』(外林大作訳、誠信書房、一九五八年刊)にも出ていない。イエスに対する聖餐はカニバリズムタブーの侵犯だという面があるので、それが神聖な行ためであったことを弁明しなければならない。しかしタブー破りをしたことはあくまで秘密にしなければならないので、その弁明は、無意識的な自我防衛機制として行われる。そしてパンと赤ワインの聖餐は、原行為が子なる神との神聖な合一の儀式であったこと示している。そしてそのことを「反復」することで主張しているのである。この反復は一種の無意識な理由付けであるから「合理化」に含まれるのではないだろうか。なお「合理化」を防衛機制に含めたのは、一九〇八年刊のノートン・ジョーンズ『日常生活における合理化』(異常心理学 第三巻)である。)イエスの肉や血は現に有りません。そこで例えフェティシズムに当たっていても、パンや赤ワインに置き換えてでも、イエスの聖餐を繰り返しているわけです。潜在意識の働きですので、たとえ根本教義に抵触しようとも簡単には止められないのです。

ではどうしてイエスに対するカニバリズム行為が行われたのでしょうか。もちろんこれはイエス自身が弟子たちにそうするように命令したからです。なぜならイエスの体内に宿っていたと思われていた聖霊を、イエスの死にあたって弟子たちの中に移転させる必要があったからです。

聖霊や悪霊というのは一種のつきものと考えられていました。体の中に入ったり、体から出ていったりするのです。ですから聖霊の力で悪霊を退散する奇跡のパフォーマンスが、イエス教団の専売特許みたいに行われて、一時は凄いイエスブームが起こったわけです。

でもいくらイエスが聖霊の力を示し、素晴らしい説教をしても、それだけでは限界がありました。人々はファリサイ派などの弾圧を恐れます。また霊力の衰えもあったのかもしれません。イエスブームは急速に退潮します。

そこで教団運営の危機とイエスへの暗殺の危機もあり、起死回生を狙って聖都イェルサレムに上って、直接神殿で民衆に働きかけ、神殿権力に挑戦します。その時には失敗して、十字架刑にかけられるのは覚悟の上だったのです。

たとえ処刑されても、聖霊は弟子たちにイエスの肉や血を飲食させることで引き継げると確信していたのです。聖霊がカニバリズムで引き継げるとイエスが思い込んでいたことは、「ヨハネによる福音書」に「人の子の肉を食べ、血を飲まなければ、永遠の命を得られない」という趣旨のことが書かれているところから分かります。これはイエスの言葉を信仰によって血肉化すれば永遠の命を得られるということの比喩としても書かれていましたが、それはイエスが死に直面していないからです。イエスの死に当たっては、聖霊はつきものですから、カニバリズムによって弟子の中に引き継がれて、復活する必要があるのです。

でもイエスの遺体は墓に入っていて、復活されたとされる三日目は墓からでたところですから、食べられて弟子の中に復活する余裕はなかったと思われています。ところがイエスの遺体は顔を含む全身が布に巻かれて埋葬されていました。墓に入れる前にすり替えられた可能性があるのです。

この仮説通り食べられたとしますと、イエスの復活は弟子の体の中にイエスの聖霊が宿る形をとるはずです。ところが福音書では肉体的なイエスの復活になっていますので、全く見当違いではないかと反論されるでしょう。そこはイエスの予想も越えていたのですが、イエスを食べた弟子たちは神の子を食べたことから生じる全能幻想から、イエスと何かが少しでも共通していると、その人がイエスに見えるという倒錯を起こしたと推理できます。全くの別人をイエスに見間違えたのです。

それにイエスを食べた弟子たちは、自分たちの体内で聖霊が蘇ったという意識になります。するとイエスの人格に圧倒されることになって、一時的にイエスが憑依(ひょうい)し、人格を乗っ取るわけです。自分がイエスに成りきって行動してしまうわけですね。これは後で我に返っても思い出せません。いわゆる二重人格症状が引き起こされたのです。

「酒井和夫著『分析・多重人格のすべて』」の画像検索結果(註―酒井和夫著『分析・多重人格のすべて』リヨン社、一九九五年刊、六五頁によると交代性の多重人格の場合最も多いのが、元の人格Aが別の人格Bに交代する場合、AはBになっている自分を覚えていないし、その存在も知らないが、BはAのことをよく知っている。その他に少数例として互いに知っている場合と互いに知らない場合もある。)
それを見ている他のイエスを食べた弟子たちはやはり全能幻想から、正真正銘のイエスの復活と思い込みます。こういうメカニズムでイエスが肉体的にも復活したという体験が生じたのです。この体験が核になって、殉教もおそれない初期キリスト教団が形成されたというわけなのです。

これはあくまで精神分析的方法での解釈に過ぎません。イエスを食べたという物的な証拠は何もありません。しかしこの方法で一応のキリスト教の成立と聖餐の謎が説明できるわけです。もしこの解釈が誤りなら、それこそ神がイエスを本当に復活させたのかもしれません。

それにしても初期キリスト教の入会式などでのカニバリズムの秘儀を紹介したり、パンとワインの聖餐に宗教的カニバリズムの匂いを唄ぎつける論者たちも、イエスの肉を食べ血を飲んだという弟子たちのカニバリズムには、われわれが指摘するまでは、だれも言及していません。わたしはおそらくフロイトやウオーカー、ジャック・アタリなどは勘づいていたと思っています。でもキリスト教社会の中では、未だに「それをいっちゃあおしまい」みたいな雰囲気があるのではないでしょうか。

本書は『イエスは食べられて復活した』とする「聖餐による復活」仮説を展開しますが、あくまで「バイブルの精神分析ー新約篇」として福音書の叙述に沿って、そこに含まれている様々 な思想的背景をたどりながらじっくり解明していきます。くれぐれも好奇心からイエスが食べられたのが事実かどうかにだけとらわれないように願います。キリスト教というものを全面的に理解することを通して、世界史上の最大の謎に迫り、イエスの思想の現代的意義を汲み取るようにしてください。

https://mzprometheus.wordpress.com/2018/03/18/jtf1/

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