活動所得に関連した論稿集-目次とリンク
https://mzprometheus.wordpress.com/2020/03/12/pironshuu/
ラボール学園哲学講座

『資本論』の価値理論を参考に21世紀の活動価値論を構想
【1】マルクス『資本論』の労働価値説 から学ぶ時間論
【2】労働価値を活動価値に置き換えて分配する社会へ

労働価値を活動価値に置き換えて分配する社会へ      Toward a society in which labor value is replaced by activity value and distributed

【1】マルクス『資本論』の労働価値説 から学ぶ時間論

1、1時間分の労働とは

DAS KAPITAL速見隼次:上の予定表によると京都ラボール学園でやすいゆたかさんが、
⑦7/12 マルクス『資本論』の労働価値説 から学ぶ時間論(やすい)
⑧7/26 「労働」を「活動」に置き換えて富を分配する社会へ(やすい)
の講演をされるということで、その整理のために対談相手にお呼びがかかったのですが、私は一応経済学部出身ですが、それほど詳しくないので、お役に立つかどうか?

やすいゆたか:『資本論』ではまず商品論からはじまり、商品には二つの要素があるとします。一つはなにかの役に立つという使用価値ですね。いわゆる効用のことです。しかし効用では価格は決まりません。両者が交換されるのはそれが等量だとされる交換価値があるからだということです。

速見:その交換価値は投下された労働量に比例しているというわけですが、そのことは統計的に実証されているのですか?

哲学の貧困やすい:いいえ、労働時間といっても個々に密度が違いますから、簡単に統計的に処理できません。マルクスはプルードンが『貧困の哲学』で労働時間に応じた労働貨幣を発行するアイデアに対して、『哲学の貧困』(画像)で8時間働くと8時間紙幣がもらえるとすると根詰めて働いた人も、気を抜いてゆっくり作業した人も時計で8時間と計測されるとすれば、怠惰な方が得するので、社会は衰退してしまうと批判しています。

速見:社会全体の平均的な労働時間に換算されるのですね。つまり8時間働いても平均的な労働力が4時間分しか仕事ができていなければ、4時間働いたということですね。逆に4時間で8時間分働く人もいます。結局市場経済の場合は、交換されるのは投下された労働量が等しいからだという解釈が成り立ちます。それがスミスやリカードなどの古典派経済学の立場ですね。

2、抽象的人間労働のガレルテとしての価値

膠やすい:マルクスは『資本論』では価値を「抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)」と規定しています。つまり労働時間を生産物に凝固して膠着した労働の塊として捉えているわけです。画像は膠
Wie die Gebrauchswerte Rock und Leinwand Verbindungen zweckbestimmter, produktiver Tätigkeiten mit Tuch und Garn sind, die Werte Rock und Leinwand dagegen bloße gleichartige Arbeitsgallerten, so gelten auch die in diesen Werten enthaltenen Arbeiten nicht durch ihr produktives Verhalten zu Tuch und Garn, sondern nur als Verausgabungen menschlicher Arbeitskraft.
「使用価値としての上着やリンネルは、目的を規定された生産活動と布や糸との結合物であり、これに反して価値としての上着やリンネルは単なる同質の労働ガレルテ(Arbeitsgallerten)であるが、それと同じように、これらの価値に含まれている労働も、布や糸にたいするその生産的作用によってではなく、ただ人間の労働力の支出としてのみ認められるのである。」

速見:生産物を効用の面ではなく、労働凝固物として捉えたのが価値という理解ですか?

やすい:価値は労働のガレルテですから、労働によって作られた生産物が労働の塊だというのではないのです。それは使用価値の面ですね。労働は効用つまり使用価値を生み出す具体的有用労働としては生産物に成っているわけです。 

 3、価値は生産物の属性でなく、人間労働の関係

速見:同時にそれは商品に成っているのだから、生産物は価値物でもあるわけですね。労働の抽象的な面が生産物に凝固して価値に成っているということでしょう。

やすい:マルクスは価値の実体は抽象的人間労働であり、そのガレルテつまり労働の膠が固まって、生産物に付着しているのが価値だとしているのです。だから生産物が価値に見えるけれど、それは物と人間を混同するフェティシズム的な倒錯だというのです。

速見:ということは価値は抽象的人間労働という人間の活動自体の塊なので人間であって、物ではないから、生産物の属性と見なすのは倒錯だということですか?

やすい:なぜ人間の活動である価値が生産物の属性とみなされるかと言うと、抽象的人間労働の塊が膠みたいに凝固して生産物に付着しているので、人間なのに生産物に見えているという理屈になっているのです。

速見:でも矛盾していますね。具体的有用労働は生産物に成っています。つまり人間活動も物に成るわけですね。それなのに抽象的人間労働の塊としての価値が物の属性でないというのは納得できませんね。

やすい:ええ、マルクスは価値関係を人間の労働関係として捉えるのです。労働価値説ですからね。全て価値は労働者の労働の塊だとしたら、利潤も労働に基づく剰余価値が全源泉であり、資本は結局搾取関係の物象化ということが言いたいわけです。

速見:別に価値関係を事物の関係として説明しても、抽象的人間労働の凝結という面もあるので、人間関係でもあるという説明でもいいのではないのですか。

やすい:私はそれでいいと思いますが、マルクスはそれでは駄目だと考えたのです。なぜならそうなると物が人間に包括され、人間関係を結んでいることになり、生産に於いても、機械は減価償却分だけ価値を対象化して生み出していることになります。価値は全て労働者の労働の塊であると言えなくなってしまうのです。

機械制大工業速見:労働価値説原理主義が昂じて、価値を生産物の属性と見るのはフェティシズム的倒錯だということにしてまったわけですね。それで価値は労働時間の塊だという形で時間がガレルテ化してしまっていますね。物の属性に価値を認めて、その減価償却分だけ価値を対象化していると認めると、機械などの不変資本を所有している資本家の搾取を正当化することになると考えたのでしょうか?

画像は機械制大工業
やすい:物と物の関係として現れているけれど実は人間の価値関係なのだとマルクスは捉えます。物が人間に包摂されているのだと捉えるのではなく、物と人との区別に固執して、物が社会的な属性をもつ現象を倒錯としてしまったのです。

❏抽象的人間労働の塊が価値とすることで、物に過去の労働が塊になってくっついているので、その物を獲得して支配し、消費することで、それを形成した人間労働を支配することができるということです。その代りに自分の過去の労働の生産物を支配させることになり、相互支配になっているのです。

       4、労働価値説が正しいという論証

速見:人間同士の労働の支配関係が物の価値関係であるかに現れるのが商品関係だということですね。人と人の関係が物と物の関係に置き換えられているのが物象化ですね。それを倒錯だとするために、ガレルテとしての価値が付着しているとした。
❏ところでそもそもリンネルと上着という異なる商品が交換されるとするとそこには同量の労働時間が投下されていると言える論拠は何ですか?

やすい:論理的に考えて、他人より何倍も労働時間がかかるのは敬遠されることになるので、そういう商品の生産に携わる労働者の数は減少します。そうすると供給が減るので価格が上昇しますから、結局同量の労働時間で生産されたものが交換されるように自動調節される傾向に市場はあるのです。

速見:ということは労働者は自由に仕事を移動できる事が前提ですね。

やすい:実際は自由に移動できないので、労働時間と価格が比例しないわけです。ですから他の条件は全て等しいと仮定して議論しているので、統計的に実証されていないことを根拠に間違いだということはできないのです。

速見:他の条件によって全く阻害されないとしたら、投下された労働時間が価格の基準として機能する筈だというのは言わば同義反復ですね。

やすい:だから労働価値説が誤っているという議論は、労働者を多く投入にして、長い時間働かせて作ったものが価値があり、機械などを使って短い時間で作ったものは価値がないと考える理論のように誤解して批判している人までいるのです。あるいは実際の交換にあたって、人は労働時間が等しいかどうかに関心がなく、別の商品や貨幣と交換した方が得だという主観的判断に基づいて交換していると言います。投下された労働時間は不変でも時々刻々と主観的な価値は変化しているというような批判ですね。そういう批判は『資本論』の云う法則性の意味を全く理解できていないわけです。

速見:同じ種類の商品で同品質のものは、市場では要した労働時間は同じだとされるので交換されるのだと捉えるわけですね、マルクスは。だから『資本論』のいう労働時間は社会的に必要な平均的労働時間ですね。そういえば、ソ連などの誤りを労働集約的なものが価値があると考えたために技術革新が遅れたとして、それは労働価値説の誤りだという人もいますね。教えてgooには「ソ連や昔の中国は、労働価値説で経済運営をしたために、コストを下げようと努力するどころか、無駄なコストをどんどんかけたので、経済が崩壊してしまいました」とあります。かなり幼稚な批判ですね。画像は停滞の時代の象徴ブレジネフ

やすい:全く『資本論』を読まないで批判しているのです。価値を形成する労働は実際には綿を栽培する労働であったり、石炭を掘る労働であったり、散髪をする労働であったりして、具体的な有用労働なのですが、商品生産の体制の中では、価値を生む労働として機能しますから、抽象的人間労働の面を持っているわけです。ところが共産主義というのは商品生産ではなくなっているわけですから、労働は価値を生むという性格はないのです。

❏ソ連や中国は、まだ共産主義ではなくて市場経済に基づく公有企業の生産体制でした。ノルマ遂行を優先して市場を使った需給調整がうまくできなかったので、無駄なコストをかけ過ぎたのです。別にそれは労働価値説の幼稚な解釈に基づいていたわけではありません。

5、社会的平均労働での労働時間に換算

速見:言い換えれば労働時間が多いほど価値が大きいとしますと、機械を使わない手工業の方が価値が大きいことになってしまうのではないかという疑問もでますね?

やすい:手作業だけで作る、道具を使って作る、動力つきの道具である機械を使って作るなどいろんな作り方がありますが、その結果一着のセーターが手作業で5時間、道具を使って1時間、動力つきの機械なら10分間でできたとします。もし労働時間が価値だというように労働価値説を理解していますと、1時間の価値を1としますと、手作業のセーターは5,道具で編んだセーターは1、動力機械編みセーターは6分の1の価値しか付加しないことになりますね。『資本論』では効用や品質が同じなら価値も同じですから、市場に出回っているセーターが平均1時間で作られたものなら、機械編みでできたものも効用・品質に遜色なければ原材料費プラス1の価値を持っているのです。

速見:効用や品質が同じなら、等価値だというのなら、労働価値説ではなくて効用価値説だという批判もありそうですね。

やすい:いや、効用や品質が同じなら、交換されないわけで、違った効用の商品が交換されるのです。リンネルと上着というように。その際に一杯の水と一本の鉛筆が交換されるとして、効用の大きさを比較して交換しているわけではないというのです。

速見:共通性というのがいずれも労働生産物であるという性質なのでしょう。それで最初の議論に戻って、等労働時間だから等価だとして交換される。つまり他の条件が同じだと仮定したら、投下された労働時間に比例する筈だという理屈ですね。他の条件が同じということは、道具や機械が同水準だったらということも含んでいますね。でも実際は、違うわけだから、マルクスの労働価値説では実際の経済を論じられないということですか?

やすい:もちろん道具や機械の開発改良、発明にはそれだけの時間がかかりますから、その間の時間も含めて考えますと、一個あたり10分間ではなくて20分間としましても、労働コストが3分の1の価格でも売っても赤字にはならないわけで、市場を席巻することになります。

速見:そうすると同業者も生産手段を改良せざるを得なくなり、平均が1個10分間で作れるように平準化するわけですね。とすると労働者の労働の内容は別に高度化も複雑化もしていないとしますと、1時間に1個が6個になったのは、その内5個は機械が作ったことになりますね。ということは労働価値説は破綻するのではないのですか?

やすい:確かに、その批評には説得力がありますね。私も基本的にはそのマルクスに対する批判には同調しているのです。ただマルクスは、資本家による労働者の労働の搾取構造を明らかにするために解明しているので、1時間で6個製品ができたら、その内労働者の労働では1個つくり、機械は5個作ったというようには説明しません。なぜなら労働者が働かないと、機械だけでは稼働しないので0個しかできません。つまりマルクスはあくまで労働者が6個全部作ったとみなすのです。そして機械が労働者の労働能力を6倍に強めたというように説明するわけです。機械は労働を強めるけれど、労働するのは労働者だけだという論理です。そうすれば労働価値説は破綻しませんね。

          6、機械制大工業でも労働力は生産主体か?

速見:つまり労働過程に於いて、労働主体は労働力商品である労働者であり、土地建物機械などの固定資本や原材料・燃料などの流動資本は生産手段であるという捉え方ですね。そういう図式にすれば、主体は労働力商品でしかなく、その他は労働および生産の手段でしかないのは同義反復になります。しかし、労働主体となっている労働力は機械に合わせて、機械が示すマニュアルに沿っていわば機械的に作業しなければなりません。むしろ実態としては機械が何をどう生産するかの主体であり、労働力は機械が主体になって生産するのを補助しているにすぎないのではないでしょうか?

やすい:そうなのです。人間社会における人間の労働過程である筈なのに、むしろ手段でしかない筈の機械の方が、あたかも生産を仕切っているように見え、先程の例でいくと6個の製品の内、5個は機械が作ったように見えるわけですね。これはとんでもない倒錯に陥っているとマルクスは、批判しているわけです。マルクスの『資本論』におけるフェティシズム(物神崇拝)批判は、商品・貨幣論だけではなく、全編を導く方法論になっていて、生産過程で機械が主体としての人間、人間が手段としての機械に成って現れるのも含んでいるわけです。

速見:しかし、機械が生産の主体のように見えるのは、商品・貨幣・資本として物神化しているからではないでしょう?

「ai時代」の画像検索結果やすい:生産の工程や結果が機械によって体現されているからですね。それは資本主義が止揚されて共産主義になっても起こります。実際AIの発展で生産の自動化が進みますと、生産過程自身から労働力が自動機械に代替されて駆逐されていくわけです。そしてまさに21世紀は、その際に労働力商品という規定を失った人々にどう所得を保障すべきかが問われます。だから機械の物神化は、資本制生産では機械が資本として価値を移転してあたかも価値を生む抽象的人間労働も行っているように見えるという形で説明されています。

速見:それでは例えば先程のセーターの例でいくと、どの場合も効用・品質は同じで、従って価値は等しいとします。分かりやすくするために価値と価格の区別とかはさて措いて、1時間に2千円の価値を労働は生むとします。原料の毛糸は1着分3千円とします。

❏手作業だと1着のセーターの価値は5時間かかるので原料費込で13000円です。手編みのものは希少なのでプレミアが付いて高く売れる場合もありますが、効用・品質が同じだと同価値ということだと、機械編みが出回ると対抗できないので、実際の価値はうんと少なくなりますね。編み機を使うと1時間で1着できるので、価値は3千円プラス2千円プラス編み機の減価償却費これは百円程度として計5100円ですね。ただし動力つき自動編み機製のセーターが出回れば、価値も引き下げられていきます。

❏動力つき自動編み機を使いますと1着は  6分の1時間でできます。その間に価値は約333円付加されるので原料費3000円、1着あたりの機械減価償却費と光熱費で50円とすると、3383円になります。

やすい:結果動力つき自動編み機で作ったセーターに市場は席巻されるので、たとえ5時間かけて手編みでセーターを作っても3383円よりもそれほど高くは売れませんし、価値も同量でしかないことになります。

            7,搾取理論の妥当性

速見:マルクスの最大の偉業は、剰余価値理論を確立して、資本家による不当な搾取の構造を解明したところにあるわけです。それは労働価値説を前提にした上で、一日の労働日を必要労働時間と剰余労働時間に分けて、最低限度の生活費分の価値を生み出す必要労働時間以上に剰余労働時間も働かなくてはならないということですね。そして賃金は必要労働時間に生み出された価値分に相当するとされます。そこでなかなか納得されないのは、最低限度の生活費はそれで生きていける最低限だとしますと、生活保護費や最低賃金法などに示されているような 額にになるはずですね。ところが実際の賃金は随分格差があって、とても最低限度の生活費とは言えない賃金も多いのではないでしょうか?

やすい:賃金が最低限度の生活費を超えていると、それを貯蓄したり、投資に回して財を形成し、労働者の境遇から脱出してしまいます。実際には貯蓄や投資で少々財産形成しても、家を建てたり、老後の生活費にしかならず、脱労働者化は困難です。ということは多少格差は大きくても概ね最低限度の生活費だということですね。厚生労働省の基準の最低限度の生活費にはもちろん収まりません。それに職業によって、その仕事を続けていくためにはある程度の文化水準を維持する必要があるので、職種によって違ってきますし、世代によっても違ってきます。

速見:マルクスは搾取構造を明らかにするという観点だったので、労働者は資本家に搾り取られて、どんどん窮乏化し、惨めになっていくように描いたけれど、そういう面と資本の蓄積・増殖によって生産力は発展して、製品の質も量も種類も増えていき、それを購買し、消費する主体としては二極分化で労働者階級しか考えられないのだから、労働者の所得を増やし、豊かにしていくという構造も資本主義にはあったわけですね。そういう矛盾するダイナミックな構造を描けずに一面的に必然的窮乏化論や滅亡論の印象を与えてしまったのは失敗ですね。

やすい:現代から総括すれば確かにそうですね。でも当時は循環的な恐慌も見られ始め、深刻な長時間労働や労働災害の多発など、矛盾が深刻化し、労働運動も本格化して、革命が近づいていると思えたので無理からぬことだったのです。

速見:労働者の労働が全ての富や価値を生み出すという立場ですから、それを全て労働者が所得し、消費してしまったら、他の階級は存在できなくなります。だから必要労働時間分を超えて剰余労働時間分も働いてもらって、剰余価値を生み出してもらわないと資本家は投資する意味もなくなります。ところがマルクスは剰余価値を資本家が取得するのは不当な搾取だというわけですね。それなら自分で生産設備や原材料を取り寄せて、自分で起業すればいいわけで、それを労働者はできないから、資本家がやっているわけで、その報酬として剰余価値を資本家が獲得できるのは正当ではないかとも言えますね。

やすい:そういう批判には、資本家が経営者として働いていて、労働できる環境を整え、販路を獲得するなどの活動と、資本家として剰余価値を搾取することを区別できていないという欠陥があるのです。経営労働に対してはそれに見合う賃金が与えられるというのは当然ですね。それは他人の労働からの搾取ではないわけです。マルクスが不当な搾取というのは、それ以上に労働者の労働からも取っているからです。

速見:そうは言っても、資本家は資本を提供し、地主は土地を提供しているのですから、株式に対しては配当を土地に対しては借地代を受け取るのは当然の権利ですね。

モダンタイムス.jpgやすい:ええ、法的には問題ないという意味ではね。しかし資本は剰余価値の搾取によって利潤が生じ、その一部が拡大再生産に回されて増殖したものですから、元々労働者の労働の疎外なのです。機械にしても原材料にしても燃料にしても労働者が採掘したり、運んだり、加工したり、生産したものでないものはないわけですから、全て労働の血と汗の結晶ですね。過去の労働が積み上げられて蓄積している姿が、現在の大規模な工場施設であり、会社機構でもあるのです。資本には過去の労働時間が機械などに物象化しているわけです。ただしマルクスは労働は人間活動であり、機械などの事物それ自体とは違うので、価値として付着しているとし、フェティシズム的倒錯で説明しているわけですが。ともかくそのことを忘れて、資本家たちは所有権、支配権を振りかざして、あたかも機械の働きは資本家の働きであるかのように捉えて、労働者の労働を搾取する正当性を主張しているわけです。

     8、価値形成の主体としての人間とは何か?

速見:過ぎ去った時間というのは、過ぎ去ってしまって今はないわけですが、過ぎ去ったからこそ今があるとすれば、今の中に過去の時間は生きているということで、それが今、ここにある資本なのですね。資本は固定資本としては機械ですが、機械自体は事物であって過去の労働の凝固としての価値の塊ではないとマルクスは捉えたので、資本も事物としての機械に価値ガレルテが付着していると捉えたのですね。

やすい:ええ、マルクス『資本論』は人間と事物を峻別した上で、事物に社会的規定を与えることを事物の人間化として、フェティシズム的倒錯だという形で批判しているのです。機械も資本だとするのは倒錯で、人間ではないのだから抽象的人間労働もしないし、価値も生み出さないということです。なのに過去の人間労働の化身みたいに見えるので、あたかも減価償却分だけ価値を生み出しているように見られている、それは倒錯なんだということですね。そうすることで、所有権を傘に着て、機械が価値を生むからと搾取を正当化する資本家を、フェティシズム的倒錯に陥っていると暴露しているわけです。

速見:しかし機械は原材料を製品に変える過程で、減価償却分だけの価値を自分の働きで製品に与えているのは確かではないのですか?なのに無理に労働者の労働が機械や原材料の価値を製品に移転させているとマルクスは説明していますが、労働者は自分の労働分の価値を生み出しているとは言えても、機械や原材料の価値をどうやって製品に移転させられるのか疑問ですね。

やすい:やはり労働主体と生産手段を峻別して、労働するのは労働者のみで、機械はその手段にすぎないので労働はしていないというのがマルクスの立場です。確かに機械の働きで製品ができるように見えますが、それはあくまで労働者が機械を使って生産しているので、機械は自分の価値を自分で製品に対象化しているのではなくて、機械を使って製品を作る過程で、労働者の具体的有用労働が、価値を機械から製品に移転させていると捉えるべきだというのです。

速見:先程も触れましたが、労働者が労働の主体で機械がその手段というのは、個人的な労働では言えても、機械を使った大規模な組織的生産過程では、むしろ労働者は機械の補助役になってしまっていて、労働者だけが労働して、機械は労働していないと割り切るのは納得できませんね。それに機械は労働者の代替になって労働者の職場を奪ってきましたし、今後AIの発達で雇用は現在の1割にまで30年間に減少するだろうと言われています。

tenkanやすい:ええ、そこが『資本論』の人間観の限界だというのが、私のマルクス批判です。1986年刊『人間観の転換―マルクス物神性論批判』(青弓社)では人間を身体とそこに宿る人格に限定するのではなく、社会的諸事物や組織体、場合によっては環境的自然まで包摂した人間観に転換すべきだと主張したのです。つまりこの場合は機械も包摂した人間主体というのを捉えないと経済は説明できないということです。

速見:労働主体と言っても、個人レベルで言える場合と、企業とか組合とか国家あるいは人類的規模で言わないといけない場合もあるわけですね。そうなるとそこに包摂されている個人も機械も、場合によっては人間環境や流通も消費も包摂して、ひっくるめた価値形成という視点が求められるかも知れないことになりますね。

やすい:ええ、マルクス『資本論』は、資本主義の核心として、資本家による労働者の搾取構造を解明したわけで、その限りで見事なのですが、その方法として労働者と機械を峻別して労働者の労働に価値形成を限定し、機械の働きを価値形成から排除しようとしたわけです。そのための人間と事物を峻別し、機械制大工業の時代に相応しい人間観に到達できなかったのです。

速見:それでは『資本論』の労働価値説からどのような時間論が学べるのかということで、次回につなげたいのですが。先ず「タイム・イズ・マネー」という言葉は労働価値説に相応しい言葉のような印象を受けますね。

「Advice to a Young Tradesman」の画像検索結果やすい:その言葉の出典はベンジャミン・フランクリンの『Advice to a Young Tradesman(邦題:若き商人への手紙)』です。そこに“Remember that time is money”とあるのです。「時間はお金そのものであることを忘れるな」という意味ですね。これをマルクスの貨幣物神説でいうと“Remember that money is time”になります。貨幣はそれが支配しうる価格を表示した金属や紙ですが、その権威は国家や銀行が保証しているわけです。元々はその価値に相当する金属が貨幣だったわけですが、銀行や国家が信用を保障することで紙切れであってもその金額の品物を入手できるわけです。だから貨幣さえあればどんな種類の商品も獲得でき、そのことでその商品を作った労働時間を支配できるわけです。貨幣自身はどの商品でも買えるということは、具体的なあれこれの労働時間でなく、労働時間そのもの、あるいは時間そのものを支配できるということであり、その意味で「貨幣は時間」なのです。だから時間が金属片や紙切れになっているということですね。

速見:でも金属片や紙切れは時間ではないわけだから、貨幣は時間を物にした時間の神として貨幣物神なのですね。

やすい:一労働日を必要労働時間と剰余労働時間に二分するところに剰余価値説が成立するわけですが、これは全ての富を労働が生み出すという労働価値説ですから、労働者と資本家の分配論でもあるわけです。労働者は自分と家族の分を生産するだけではなく、資本家など全ての人々の分も生み出さなければならないということです。

速見:しかも自分と家族の分も含め労働時間は、自らの主体的な創造的な要素が少ないマニュアルで強制されたものにならざるを得ないわけで、労働時間は自己喪失の時間奪われた時間にならざるを得ないわけですね。もちろんそこで得た所得によって、家庭の時間、自分の時間で充実が得れればいいけれど、生活の最低限度しか賃金がないとするとどのように充たされた時間を獲得できるか難しいですね。

やすい:とはいえ、疎外が深刻であっても、労働は自己能力の発現であり、そこに自己自身の可能性を追求できる面もあるわけで、ビジネス生活が必ずしも灰色でしか無いわけではありません。そして労働時間は生産物やサービスとして消費されることによって、成果を示します。労働時間は富やサービスの消費の時間を生み出すわけです。逆に富やサービスを消費するからこそ、次の富やサービスの生産を生むとも言えます。過去の生産が未来の消費を生み、未来の消費が過去の生産を生み出すわけですね。

速見:価値の生産や消費は労働時間の生産や消費でもあるわけですね。ただ労働時間に還元し、価値に抽象化してしまうと、具体的有用労働が持っている無限の豊かさとか自己実現が、脱色されただ抽象的で虚しい時の流れになってしまいます。それで得た所得で商品を買い、消費するとこれもいくら使ったかという見得だけとなり、虚しい価値消費になり、結局時間の無駄遣いになってしまいます。

やすい:ですから価値の基準を労働時間に置くことで、しかも労働の概念を労働者の生産過程における労働時間に置くことで、それが価格変動の基準としての価値になるとして考えたわけですが、それでは現実の機械制大工業の元での価値形成を説明するのに無理があります。

速見:機械の減価償却分の価値形成や、労働の複雑度が代わっていないのに、機械に強められたことにする特別剰余価値論なども説得力が欠けますね。

やすい:そこで機械や企業なども包括した人間も主体として認める必要があるというのが、『人間観の転換』の主旨です。

速見:それがAIの発展によって、いよいよ身体的諸個人が生産・流通などの現場からほとんど駆逐されかねない時代になって、労働価値説を根本的に見直して、新しい分配理論を構築しなければならなくなったということですね。それは次回ということにしましょう。

やすい:ええ、次回までになんとかひねり出しましょう。