1、第27帖 篝火について
篝火に憎き心は焼き尽くし、このひとときの永遠をたたへよ
渡邊麻里亜:「第27帖 篝火」はとても短いので、「第28帖 野分」と一緒にやってしまおうということですね。
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やすいゆたか:原文と現代文のテキストを作りましたが、A4で24頁の内3頁だけが「第27帖 篝火」で残りは「第28帖 野分」です。
渡邊:「第27帖 篝火」のあらすじですが、光源氏36歳の話です。かつての頭中将、今は内大臣の左大臣家では、内大臣の姫君だという近江の君が、名乗り出て、引き取ったのですが、なにしろ庶民として育ったので、早口ですし、品のいい歌は詠めませんし、姫君として素養が全くできていないので、入内させたり、貴族と縁組ということもできません。
やすい:同じ左大臣家の落とし胤の姫の境遇でも、玉鬘と近江の君では「月とスッポン」で雲泥の差があるということで、玉鬘の引き立て役ですね。
渡邊:結局異腹姉の弘徽殿の女御のもとで行儀見習いで、女房になりました。それで便器の掃除でもしますよということで、かえって疎まれるわけですね。
やすい:そういう仕事は不浄なので貴族の娘はしません。端女にやらせるわけですね。そういうことをしたがると余計に蔑まれるわけで、恥さらしなのです。それでそういう恥晒しな娘がいて、姫として待遇できずに、使用人にしてしまったということで、左大臣家の面目が潰れたということですね。
渡邊:その話を光源氏は、自分が内大臣の娘である玉鬘を囲い込んでいることの正当化に使うわけですね。現代語訳でこう言っています。
「本当のことはどうあれ、人目に触れずに籠っていた女子を、いい加減な口実であっても、あんなに大げさに引き取って、人にも見せ、噂にされるとは、してはいけないことだ。はっきりしようとするあまり、詳しい内情も調べずに連れ出して、心にかなわなければ、こんな心ない扱いになったのだろう。何ごとも、やり方次第で、おだやかにすむのに」
だから、いったん光源氏の許で預かって、玉鬘の状態や、内大臣家に入っても大丈夫かどうかよく調べ、頃合いをみてからにするのが正解だったといいたいわけですね。
やすい:そう言われて玉鬘もある程度納得しています。
「げによくこそと、親と聞こえながらも、年ごろの御心を知りきこえず、馴れたてまつらましに、恥ぢがましきことやあらまし」と、対の姫君思し知るを、右近もいとよく聞こえ知らせけり。
「ほんとうによくこちらに引き取られてものだ、親と申し上げながらも、長年のお気持ちを存じ上げずに、お側に参っていたら、恥ずかしい思いをしただろうに」と、対の姫君はお分りになるが、右近もとてもよくお申し聞かせていた。
渡邊:それはうまく丸め込まれていますね。近江の君は、庶民の中で育ったので、急に左大臣家の姫君に成れなかったけれど、玉鬘は、女房に連れられて大宰府までいったけれど、ずっと姫君として立てられ、傅かれて来たわけで、貴族の姫君として育っていますから、そういう心配はないわけですね。
やすい:ええ、光源氏は自分の女にしたいから囲っているわけですね。ただ親代わりとして優しいし、下心を無理に押し付けないので、だんだん打ち解けてきたわけですね。
【憎き御心こそ添ひたれど、さりとて、御心のままに押したちてなどもてなしたまはず、いとど深き御心のみまさりたまへば、やうやうなつかしううちとけきこえたまふ。 】
渡邊:そうなると、次第に光源氏に惹かれていき、陥落するのは時間の問題ですね。
やすい:いや、やはり玉鬘にとったら、父内大臣との対面のために上京してきたわけですから、その問題が解決しない限り、打ち解けるのも限度があるでしょう。
渡邊:そうですね、その点光源氏は自分の恋のフラストレーションをなんとかしてくれという、好色に囚われて、思いやりが足りないわけですね。むしろそういう色情を捨てて、今、この時を共有しているという喜びを語った方が、玉鬘の胸には響いたかもしれませんね。
やすい:そうですね。夕顔の娘だからと言って、夕顔と同じものを求めてもうまくいきません。目的連関や社会連関から離れて、あるいは色情を含む欲望などは忘れて、夜空の星、野に咲く花、燃え上がる篝火に共に目を向けて、その輝きや美しさに見とれ時を共有することで、互いの心の垣根がなくなるという喜びがあるということですね。その時に時を忘れ、瞬間は永遠の意味をもつかもしれません。
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渡邊:七月初旬、玉鬘のもとを訪れた光源氏は、5,6日は夕月が西に早く沈みます。琴を枕にして彼女と添い寝をしています。本当は、二人は血縁がないので、顔を見せ合うこともできないのに、親子だということにしているので、できるわけですね。
やすい:ただお付きの女房たちの眼がありますから、いくら親子でも暗いところでいちゃついているように思われたら困るので、篝火を庭に焚いて明るくしているわけです。
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光源氏:篝火にたちそふ恋の煙こそ世には絶えせぬ炎なりけれ
いつまでとかや。
玉鬘:行方なき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば
そして己の恋情を庭前に焚かせた篝火にたとえ、歌を詠みます。「ふすぶるならでも、苦しき下燃えなりけり」と苦しい胸の内を訴えますが、玉鬘の返歌は、篝火に煙は邪魔だから「空に消ちてよ」というわけです。そっけないですね。
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渡邊:それで夏の御殿には夕霧の間もあり、そこに内大臣の長男柏木(頭中将とも呼ぶ)とその弟弁少将が来ていて、笛の音が、筝と合奏していたのです。それで篝火のところに呼んで、光源氏も一緒に演奏します。
やすい:玉鬘は御簾の中で聴いています。それで柏木20歳位は玉鬘は21歳位を姉とは知らず求愛していました。まだ15歳ぐらいの夕霧は玉鬘を姉だと思い込んでいます。ところで父ということで光源氏は玉鬘の顔を見ているだけではなく、琴を枕に添い寝までしています。夕霧は一緒の夏の御殿に居ながら、玉鬘を見たことがないのです。そして長年一緒に暮らしている義母の紫の上も見たことがありません。
渡邊:この御簾文化が『源氏物語』の大きな要素になっていますね。玉鬘は、父を騙って、御簾に入られたのにも関わらず、体を許さなかったので、これは特筆すべきですね。姉と弟、義母と義子の関係でも御簾に入れないということです。
やすい:顔を見られたらいけないということなので、貴族の女は外出も屋形がついた牛車に載っていたと思います。大河ドラマ『光る君』はそういう御簾文化には無頓着過ぎます。
2、15歳野分で初めて義母紫上を見た夕霧
野分吹き妻戸開きて現われぬ樺桜花匂ひ散りたり
渡邊:それで『第28帖 野分』では、15歳の夕霧は野分で家が壊れそうな中で始めて義母紫の上、偽の姉玉鬘を見たのです。特に紫の上はあまりの美しかったので、夕霧は衝撃を受けました。胸の鼓動がとまらないというか。
やすい:ええ、ただ元服までは父に連れられて、相手の女性の御簾に入れてもらえたわけです。ですから光源氏が夕霧をつれて紫の上の御簾に入っていても不思議はなかったわけです。
渡邊:ええ、光源氏も若君と呼ばれていた元服前は、藤壺の御簾に入れてもらえ、母親代わりになってもらっていましたね。葵上が亡くなったから、紫上の御簾に入れてもらっていても当然ですね。
やすい:それは自分の体験から、光源氏と藤壺が御簾に入って顔を知っていると、恋焦がれることになりましたね。同様なことが起こったら悲劇なので、夕霧を紫の上に近づけなかったのです。
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渡邊:上の部分は次のように現代語訳さています。
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【大臣(光源氏)は、姫君のお側にいらっしゃった時に、中将の君(夕霧)が参上なさって、東の渡殿の小障子の上から、妻戸の開いている隙間を、何気なく覗き込みなさると、女房たちが大勢見えるので、立ち止まって、音を立てないで見る。
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御屏風も、風がひどく吹いたので、押したたんで隅に寄せてあるので、すっかり見通せる廂の御座所に座っていらっしゃる方、他の人と間違えようもない、気高く清らかで、ぱっと輝く感じがして、春の曙の霞の間から、美しい樺桜(現在の大山桜?)が咲き乱れているのを見る感じがする。どうにもならぬほど、拝見している自分の顔にもふりかかってくるように、魅力的な美しさが一面に広がって、二人といないご立派な方のお姿である。】
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やすい:【あぢきなく、見たてまつるわが顔にも移り来るやうに、愛敬はにほひ散りて、またなくめづらしき人の御さまなり。】
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その愛おしさは匂い散って、自分の顔を襲ってくるわけですから、完全にノックアウトされた気分ですね。これまでの人生になかった、突然ヴィーナスが目の前に現れたかのような衝撃です。
渡邊:夕霧は左大臣家の葵上が生母ですが、葵上が六条御息所に憑り殺されて、祖母の大宮に育てられます。母が父と離縁したため祖母の大宮に育てられた雲居の雁と幼い時はいつも一緒でした。元服まではいつも顔を見ていたわけです。だから自然に好きになり、雲居の雁の父の妨害はありましたが結婚することになります。
やすい:ですから顔を見るというのは大きな要素なのです。もちろんお付きの女房などの顔は見ていたでしょうが、貴族同士では異性の顔は親子以外はなかなか見れないのです。ですから野分という非日常で突然見れたというのは15歳の青年にとっては人生最大の衝撃といっても過言ではありません。
渡邊:さすがに光源氏とは違って夕霧は生真面目なので、父の愛妻に言い寄ったりしませんが、心ひそかに思慕していて、紫の上の死に顔を類なく美しいと絶賛します。そのあたりの光源氏と夕霧の描き分けなどは見事ですね。
やすい:ええ、夕霧は優しくて生真面目な性格です。ですから女性関係も、先ず幼馴染で肉親のように育った雲居の雁ですね。それから夫柏木が女三の宮に懸想して顧みられなかった落葉の宮に同情し、柏木の死後結婚します。この二人に対しても誠実ですね。紫の上に対しては、野分と死に顔でしか見ていないけれど、他の二人にある意味ひけを取らないぐらい大きな意味があったかもしれません。
渡邊:人生の時間というのは、いろんな見方ができるでしょうが、恋は瞬間即永遠みたいなものですから、たしかに半世紀以上連れ添って金婚式を超えたというのは凄く重みがあるにしても、人生の終りに何もかも消えてしまうわけですから、その時には夕霧の場合、野分の日に見た紫上のイメージだけが浮かんで終わったかもしれませんね。
やすい:その解釈は読者がそれぞれの自分の人生を重ね合わせて感じることですね。
3、夕霧三条宮に大宮を見舞う
こころかけ恋しと慕う女よりもありつる面影心離れず
渡邊:夕霧は、六条院では夏の御殿に住んでいます。しかし左大臣家の母方の祖母大宮の住む三条宮で育てられたので、その日も三条宮にいたのですが、野分がひどくなったので、六条院に様子を見に戻って来たのです。
やすい:大宮は夕霧の母方の祖母ですが、光源氏にとっては叔母に当たると共に正妻葵上の生母ですから義母に当たります。光源氏は明石の君の冬の御殿から戻って来ます。
渡邊:夕霧の話では大宮は子供のように怯えておられるので、おいたわしいから失礼しますというと光源氏も、大宮への手紙を添えて三条へ行かせます。
やすい:野分のような非常時だけでなく、夕霧は几帳面で毎日六条院と三条宮に顔を出していたようですね。
渡邊:大宮によると、「ここらの齢にまだかく騒がしき野分こそあはざりつれ」だそうですね。大宮の年齢は桐壷帝の姉か妹かはっきりしませんが、桐壷帝は光源氏を生んだ時はまだ20歳ぐらいだったと言われています。ですからこの時光源氏36歳なので大宮は56歳ぐらいということです。
やすい:日本は災害の多い国で一生に一度は大災害とか激しい台風に見舞われるものです。私はこれまで最大の災害は満5歳の時のジェーン台風でしたね。光源氏はこの野分より前に須磨で大水害に遭っています。あれは大きな試練でしたね。
渡邊:それに比べれば、この野分は、野分の恐ろしさを描くよりもむしろ夕霧が、妻戸が開いて、紫上を見た衝撃を描きたかったということでしょう。だって三条宮で夜通し荒々しい風の音を聞きながら、紫上の面影が浮かんでいるのですから。
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やすい:このころは最愛の雲居の雁と離れて暮らしていましたから、こんな嵐の中では一番に雲居の雁のことを思う筈なのに、紫上の面影が焼き付いて離れないということです。
渡邊:「あるまじき思ひもこそ添え、いと恐ろしきことを」とありますが、父の妻と関係しようという大不孝ですね。それを光源氏は実行してしまっているわけです。
やすい:だから夕霧の場合は、母葵上の死の責任が光源氏にあり、紫上を光源氏から奪わないと、紫上を救えないと捉えるような潜在意識は形成されていませんね。だから、不倫への衝動にはなりません。理性で抑制できるわけです。
渡邊:ということは親子の比較で、光源氏と藤壺女御の不倫を論じているということですね。そして紫上のような「来し方、行く末有難くものしたまひける」つまり未来も含めて史上最高の女性を妻にしながら、花散里も思い人として肩を並べているのが、有難いということですね。「あないとほし」と言ってますが、これを比べられる花散里に同情して「お気の毒だ」と訳しているようですね。
やすい:その訳だと後に続く「大臣の御心ばへを、ありがたしと思ひ知りたまふ。」と合いますかね。美しさの優劣に囚われずその人の良さを認めることができる広い心があり、それはなかなかまねができないということでしょう。
渡邊:桐壷帝は桐壷更衣しか愛せなくて悲劇を招いたけれど、光源氏は一度自分が心を寄せた女性には、何時までも心を通わせようとするということですね。
やすい:とはいえ、みんな面倒はみるけれど、平等に愛するわけではありませんね。花散里や末摘花とは話し相手にはなるけれど、情事の相手とは思っていないようですね。
渡邊:でもやはりあんな紫上のような絶世の美女を妻にして見て明かし暮らせたら、寿命も延びるだろうと父光源氏を羨ましがっていますね。でも美人薄命と言いますから、早く死なれたら、夫も直ぐに枯れ果ててしまうかもしれませんね。