20世紀形而上学批判序説 廣松渉からハイデガーへ 目次とリンク
第4章 ハイデガーのギリシャ紀行
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②「存在を生成としてとらえ、生きた根源的自然の復権を企てる哲学もまた、その自然のうちにおのれ自身を位置づけなければならないことになるであろうが、そうした自然のうちに、果たして存在者全体が何であるかを告げるようないわば特権的な思索、つまり〈哲学〉の位置すべき場所はあるだろうか。とてもあろうとは思われない」木田元『ハイデガーの思想』
存在を〈作られてあるもの〉としてとらえようが、〈自ずから生成するモノ〉としてとらえようが、やはり、それを原理にしてしまえば生きた自然ではなく干からびた文字になる。こう言っては悪質だが、最後にすべてをひっくり返すつもりでいた。ハイデガーは「ピュシスと本質の概念について」という論文を1939年に書いている。アリストテレスの「自然学」二巻を題材にして1930年代のニーチェ講義をはじめシェリング講義、形而上学入門などで行き詰まった自らの「存在」の探究を、アリストテレスを再び読み返すことで打開しようとしたようだが成功していないと思う。後ほど、アリストテレスの「自然学」に即していろいろ述べてみたいと思うが、アリストテレスは、自然をピュシスの意味で使っている場合もあれば、Natur の意味で使っている場合もある。
アリストテレスの「自然学」、否「自然学」だけではなく一度アリストテレスの書物はすべて燃やされていてわずかにアラビア半島に渡ったものが長い年月をかけて地中海を半周し、スペインのバルセロナでアラビア語からラテン語に翻訳され、さらにラテン語からギリシャ語に翻訳されたといういわくをもっている。
ヨーロッパの中世哲学などイスラーム哲学の影響なしにはありえない。また中世ヨーロッパの哲学者はイスラーム哲学をラテン語に翻訳することだけが仕事であった。しかし、それは近代のドイツ観念論についてもいえる。インド思想の影響なしにはカントもフィヒテもシェリングもヘーゲルもありえなかっただろう。
哲学という言葉自体が西周の誤訳で、philosophyとはもともと知を愛するという意味であったらしい。
「この愛知という場合の愛についてソクラテスは『饗宴』の中ではっきりした規定を加えている。つまり、この『愛する』は、異性間ないし同性間のエロースと同じであり、愛する対象をなんとか我がものにしようという心の働きと同じである。したがって愛するものは愛している限り愛の対象をまだ自分のものにしていない。だから愛する対象を我がものにしようと愛するのである」木田元377
知を愛する場合も同じである。つまりまだ知を我がものにしていないからこそ、真理を我がものにしていない。だから、つまり己の無知を知っているからこそ、知を愛する、真理を探究出来るのである。自身で「体系」を完成させたなどと勘違いするとろくなもんではない。僕など定時制高校中退だし、まだまだ無知である。マルクスのようなひとでも「体系」は完成させなかった。マルクスですらそうなのだからアカデミズムが何を言うか?
ブッダにせよ、イエスにせよ、ソクラテスにせよ哲学や思想に携わったビッグネームはみんなアマチュアなのだ。
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それにしても僕も不思議な縁でマルクスと出会い、一時哲学真理を求めて悶々としていた事があった。そのころのことを思うと今は哲学的真理などないと踏まえた上で、知を楽しむという風に変わった。
そう変わった理由はゴーダマ・ブッダとの出会いが大きい。ゴーダマ・ブッダは哲学知、形而上学的真理の相対性を原始仏教の最初期の経典で述べている。もちろんブッダはなにも書かなかったので弟子がブッダの言葉を思い起こして書いたのだろう。インド思想の場合、哲学と宗教は分離していない。これはイスラーム思想でもそうだろうと思う。
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さて、前回で終わりにするつもりであったが、ピュシスをめぐるアリストテレスの葛藤としかし『ニコマコス倫理学』における自然、あるいはピュシスを他者、友として見る見方がある。最後にアリストテレスの「自然学」を扱い、もし哲学に可能性があるとするならば、あるいは対象化の論理を超えているものがあるとすればアリストテレスにある「他我論」ではないかという視点を打ち出して終わっていきたいと思う。
僕はアリストテレスについてはたぶんシャンカラより知らない。その点は汲み取っていただければ幸いである。ただ、哲学という学問より、知を愛するよりは、自分の愛するひとを大切にした方が人間としてしあわせだとは思う。哲学などでは基本食べられないし、食べられるようになるとろくなもんではない。
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③さて、哲学とは何か、アリストテレスの「形而上学」をふりかえってこの問題を考えてみたい。「形而上学」、極東の島国に住むわれわれの感覚では理解しにくい言葉であるが、「metaphysica メタフィジカ」は、もともとは「自然学の後の巻」という意味であったものが、古代末期にアリストテレス哲学がキリスト教神学の組織化に利用されるにおよんで、metaが(超えて)という意味もあるところから、「超自然学」という意味で受け取られるようになった。「形而上学」という邦訳語も自然を超えたそれ以上の学問という意味である。「形而上学」(超自然学)は第一哲学とも呼ばれている。
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私事で恐縮だが、アリストテレスの「形而上学」は二回ほど読んだ。最初読んだ時、これは後で誰かに編集された本ではないかと思った。本全体の一貫性がないのだ。数年後、山内得立さんの『ギリシャの哲学』を読んだ時、
「この書がアリストテレスによって一貫した原理のもとに一気に書かれたものではなく、様々な時代に書かれた多くの論文が集められて一書をなしたものであることは明らかであるが、さて、いずれの時代に何人によってこのような体裁、順序に纏められたかは不明である」
との記述を見てなるほどと納得がいった。
ハイデガー自身も形而上学を『論文集』と読んでいる。アリストテレス死後、アリストテレスのノートや断片が寄せ集められて今の形になったのだろうが、それがいつ、誰がということもわからないようである。その『形而上学』がプラトンの著作と並んでヨーロッパ哲学の原点になっているが、その肝心のテキストが一貫した原理で書かれたものではなく、いつ、誰が、どこで編集したかもはっきりしないのである。しかし、そんなあやふやな本を土台にせざるを得ないところにヨーロッパ哲学の宿痾を見る思いがする。
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アリストテレスの『形而上学』も根本的にはプラトンのイデア論を引き継いでいるように思われる。超自然的な世界はあるのだろうか?自然を超えた世界である。
ヘーゲルも論理学講義の中で論理学の対象は空間と時間を超えた論理であると述べている。(息子のカール・ヘーゲルの編集した『論理学講義』にこういう表現があったと思うが本がどこかにいって正解な引用ではない)
ヘーゲルの純粋存在なども、わかったようなわからない概念である。カントを読み返すことはほとんどないが、ヘーゲルは嫌いではない。が、ヘーゲルの純粋存在などもし説明しろと言われると正直わからない。ヘーゲルを楽しんで読んでいるので全くわかっていないわけではない、が、説明しろと言われる説明出来ない。
アリストテレスの形而上の世界もそういうものだと思う。ハイデガーが存在をピュシスだと言っても、やはり、わかったようなわからないような話しである。そんな時は素直にわからないと述べたほうがいい。言葉にならない世界ということだろうか?
ところで、アリストテレスの『形而上学』(第五巻第四章)に『自然学』を少し纏めた記述がある。
「それゆえに、自然によって生成しあるいは生成する自分は、それらのうちにそれからそれらが自ずから生成し存在するに至るべきそれ(質量)が内在していても、もしそれらがその形相または形式をもっていない限り、なお未だその自然をもっていないとわれわれは言う」自然学
④しかし、質料と形相で自然物をとらえている限り〈作られてあること〉という論理は超えていないのではないか?ハイデガーも存在をピュシスと捉え、それを〈自ずからなること〉ととらえたところまではよかったが、しかし、それが何かと言われるとやはりわからない。それが原理になるとイデア論をひっくり返しただけではないかと思われる。
ハイデガーの晩年のわかったかわからないのかわからない思わせぶりな口ぶりもやはり『存在と時間』が挫折したことを告げているようである。さて、アリストテレスの「自然学」第二巻をベースにハイデガーは1939年に「ピュシスについて」という論文を書いているがこの論文でハイデガーはピュシスについて語っているが、アリストテレスの「自然学」の第二巻を読むと生成という論理もあるが制作という論理もあり、両者が混在しているように思われる。
「フィシカは自然を研究する学問であるから、まず自然とは何であるかを問題にしなければならない筈であるが、アリストテレスはそれについて明確な定義を与えていない」山内得立『ギリシャの哲学ⅴ』
「存在するものには、自然によるものとその他さまざまな原因によるものとがある。自然によるものとしては、動物やその諸部分、植物、そして土、空気、水といった単純物体などがあるが、これらすべてのものには、自然によって作り上げられたのではないものに較べて、明らかな差異が見られる」自然学
「これに対して、寝椅子や上衣や、他にもこれに類いしたものがあればそれもだが、それらはそれぞれ当の呼称が当てられる限りでは、すなわち技術の所産である限りでは、いかなる変化の動静も本来的に備わったものとしては有していない」
「自然とはいま言われたもののようなもののことであり、そのような始原(原理)をもっている限りのものは、すべてが実体である」自然学
以上は主に自然の質料的側面について語られているが、次に自然の形相、形式について語られるーこの点でアリストテレスは〈作られてあること〉という原理に即して自然をとらえていることは明らかであり、ハイデガーのように〈自ずからからなること〉だけを強引に読みこむことは難しい。
またアリストテレスの著作が古代末期キリスト教成立以降に編集されたものであるならどこまでがアリストテレスの思想でどこからが編集者の思想なのかわからない。
アリストテレスの著作がキリスト教の神学の裏づけに使われて「形而上学」として超自然的な学問にされたことは先に述べた。「自然学」も後で編集されたものかどうかはわからないが、少なくともハイデガーが読みこむような存在概念(ピュシス)だけで成り立っていないことは確かだ。
ソクラテス以前の哲学者は断片しか残っておらず、ハイデガーは何かをつかんだのかも知れないが晩年はヘルダーリンの思索だけを頼りに「存在」について思索していたようである。ハイデガーもやはり未完成であり、それは『資本論』の著書と同じである。
またアリストテレスは自然を始原と言っているが、フォイエルバッハは
「哲学の端初は神ではなく、絶対者ではなく、絶対者の述語または理念の述語としての存在ではない」
と述べている。
これはヘーゲル哲学の「存在」をさしてのことであろうが、哲学の端初が形而上学的概念ではないと述べているように思われる。
否、自然とは原理や端初ではなく、今感じる風であり、鳥の鳴き声であり、井戸の水であり、森の緑だ。自然科学は自然を数字にした。哲学は原理にした。しかし、それは物差しとして自然を認識する一つの方法であり、自然そのものを原理や始原や神やH₂Oにしてしまえば生きた自然ではなく、死んだ文字なのである。
「幸福なひとが友を必要とするか否かについて人びとの意見はわかれている。というのは[一方において]幸いな自足しているひとびとはまったく友を必要としないと言われている。なぜなら、かれらはさまざまな良いものを所有している。したがって、かれらは自足しているのだから。ところが友とは、もうひとりの自分であって、ひとが自分の力で出来ないことをしてくれるものなのだから言うのである」『ニコマコス倫理学』
ニコマコス倫理学はやがてドイツの唯物論哲学者フォイエルバッハに受けつがれる。
フォイエルバッハはライプニッツ論で
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「人間は他の人びとを瞥見することによって初めて、自分はひとりぼっちではないと言う認識・自分はむしろひとびとのうちのひとりであるという認識・自分は有限な存在者であり欠陥をもった存在者であるという意識に到達するのである。しかるに自分自身の限界に関する表象は自分を制限する表象であり自分に苦痛を与える表象である。すなわちある他我alter ego に関する表象はそうだ」フォイエルバッハ全集第七巻『ライプニッツの哲学』82
「ルドルフ・ハイム宛の返答」でも
「愛している我は他の我(alter ego)をちょうど神学的かつ目的論的な人間が自然を取り扱う同じやり方で取り扱わないであろうか!」
と述べ自然を友、もうひとりの自分として、取り扱おうとしている。もうひとりの自分、友としての自然は各々違った表情をもっている。それを形而上学や哲学や神学の抽象的本質やイデアで割り切れるだろうか?割り切れないと思う!そしてそれが形而上学の限界である。
哲学は楽しむのにはいい、しかしそれが支配の道具に使われてきた歴史もある。哲学には毒がある。影がつきまとうと言ってもいい。それを見据えながら哲学をしないと気がつけば俗物ということになる!