「日本古代史像の再構築ー論争に触れながら 」
https://mzprometheus.wordpress.com/2019/07/08/nkzsaikouchiku/
第七講, 倭の五王の時代ー覇王・聖王・悪王
https://mzprometheus.wordpress.com/2020/01/18/nks7wanogoou/

日本古代史像の再構築

第八講. 6世紀に二朝並立はあったか?

1.男大迹王(継体天皇)の年齢の謎

永山裕子:やすい先生は四世紀に倭国が東西分裂したという仮説を唱えておられますね。仲哀天皇の筑紫香椎宮と成務天皇の志賀高穴穂宮は同時期に並立していたという説です。しかしまだWEB等を調べた限りではシカトされたままですね。

やすいゆたか:ええ、なにしろ四世紀は「空白の四世紀」と言われていて、中国の歴史書に倭国についての記事の記載がありません。そして記紀では景行天皇の筑紫遠征、ヤマトタケルの大活躍、神功皇后の新羅侵攻という華々しい時代ですが、どうも潤色された部分が多いのではないかということで、歴史物語としては面白く読めても、史実としては信用できないという歴史研究者が多いようなのです。特に直木孝次郎さんが七世紀後半の歴史を四世紀に投影して書かれたもので、すべて架空の人物みたいに断定されてしまったのです。

永山:なるほど架空の人物の話だとその矛盾点から元の姿を割り出して、歴史の原像に迫るというやり方も通用しないということですね。でも架空だという確たる証拠もないし、架空の物語を作ったという記録もないわけですから、薄弱な根拠で架空視されるよりも、一応伝承として尊重して、その矛盾点から元の姿に肉薄するというやすい先生のやり方の方が長期的には説得力を持つでしょう。

やすい:そう思っていただければありがたいですね。

f:id:yositeru:20180103124215g:plain

永山:今日は六世紀の前半の大和政権の分裂の可能性を探るのがテーマですね。継体天皇が応神天皇の五世の孫ということで、武烈天皇に世継が絶えたために福井から迎えたわけですね。それで記紀ではその五世の孫という系統図が示されていないので、どうも以前の応神天皇からの王朝は断絶して、継体天皇の新王朝になったのではないかという解釈が未だに有力ですね。

やすい:ええ、上の系図は13世紀の『釈日本紀』が『上宮記』から引用したものです。どうして記紀に記されていなかったのかその事情がよくわかりませんので、後から書いたものを信用していいものかと思いますね。万世一系ということが記紀にとっては重大だったはずですから、分かっていたら書いたはずなのですが。

継体天皇像永山:それじゃあやはり、継体天皇から新王朝が始まったいうことになるのですか?

やすい:それなら以前と豪族のメンバーも変わっている筈ですね。雄略天皇が大王家の王子たちをたくさん殺してしまったので、清寧天皇の後、世継がなくて王族関係者を探したのですが、雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の皇子たちが隠れていたのが見つけ出されて、顕宗天皇、仁賢天皇と帝位についています。だからそのあと武烈天皇という暴君が現れて、これも世継がないということで、応神天皇五世の孫を探し出してきたというのもありえないことではありませんね。

永山:それでも系図がはっきりしていないということは、当時実権を握っていた大伴金村が、素姓のはっきりしないものを大王家の血統と偽って帝位につけ、思うようにコントロールしようとしたとも解釈できますね。

やすい:その可能性はありますが、はっきりした証拠がないので、一応五世の孫ということを信憑して帝位につけたということです。それに何人かの候補から大臣大連らが人選して決めているので、もし血統を偽っているのに騙されたとしたら仕方ありませんね。第一候補だったのは足仲彦(仲哀)天皇の五世の孫倭彦王ですが、迎の兵がやってくるのを見て、殺されると思って身を隠してしまったようですね。それで男大迹王(をほどのおほきみ)を擁立することになったのですが、「枝(みあなすゑ)の孫(みこたち)を妙(くは)しく簡(えら)びまつるに、賢しきはただ男大迹王のみなり」と大臣大連の意見が一致したので決まったということです。

永山:日本書紀には「男大迹王曰く、大臣大連蔣相諸臣、ことごとく寡人を推す。寡人敢へて承けざらめや」「寡人」というのは王侯の一人称らしいですね。みんなに推されたので断れないということですね。でもそう書いてあっても、大伴金村がうまくごまかして説得したかもしれませんよね。それにもし豪族たちが納得していたら大和に都したでしょうが、大王に即位しても大和に都したのは即位後19年経っていますから、大和の豪族たちに十分には受け入れられていなかったわけですね。

やすい:それが男大迹王の出自についてはよく分かっていません。越前の豪族だったようですから、大和政権の大王になるにしても都は、越前に戻りやすいところに置くのは当然でしょう。景行天皇は纏向でしたが、成務天皇は志賀に遷しましたね。継体天皇は樟葉宮(枚方市)筒城宮(京田辺市)弟国宮(長岡京市)磐余玉穂宮(櫻井市)を都にしたわけです。

永山:男大迹大王(継体天皇)は『古事記』肆拾參歲(43歳)で崩御とされています。そこから逆算すると即位19歳になりますね。文武天皇の時に数え15歳で異例の若さで無理があって夭折してしまいます。摂関政治の時代になると幼児の天皇も当たり前になりますが、だいたい35歳以上ですね。

やすい:継体天皇は応神天皇五世の孫ということで、まさに時代を画期するような重大な天皇ですが、『古事記』は顯宗天皇から推古天皇までは端折(はしょ)っているのです。継体天皇については650字程度ですね。だから参考程度ですね。

永山:そういえば逆算して19歳とは古事記にも書いていませんね。ということは『日本書紀』の編者は逆算して19歳は若すぎるので、57歳で即位にしたのかもしれませんね。でも今度は高齢過ぎるような気もしますが。即位しても何年持つか分からないでは臣下は不安でしょう。

やすい:雄略天皇を恐れて王族たちは身を隠していたわけですが、その中でも「賢しきはただ男大迹王のみなり」と皆に認められるほど越前で地方政治で実績を挙げていたようです。九頭龍川などの治水で実績があったようです。

永山:日本書紀の年代に従うと継体天皇崩御時安閑天皇(勾大兄皇子)は69歳、宣化天皇(檜隈高田皇子)は68歳ですね。継体天皇が享年82歳なので、安閑天皇は継体天皇13歳、宣化天皇は14歳のときに誕生したことになります。

やすい:それでその二皇子は尾張目子媛の子なので、安閑・宣化天皇の生誕伝承地は2つあります。越前の高向宮と美濃国の根尾谷です。根尾谷で生誕しているとすれば、安閑天皇がAD493年生まれ、宣化天皇がAD494年生まれになります。「真清探當證(ますみたんとうしょう)」という継体天皇異伝によりますと、男大迹王は弘計王(顕宗天皇)と彦主人王の娘豊姫(振姫)の子とされ、477年生まれです。仁賢天皇が即位された大嘗祭に各地に隠れていた王族たちが呼び戻されたのです。その時に男大迹王は根尾谷にいて、勾皇子と檜隈高田皇子は生まれたばかりだったということなので、男大迹王26歳で勾皇子が、27歳で檜隈高田皇子が生まれたことになります。

永山:それだと即位507年には31歳、崩御が534年だとしたら享年58歳ですね、数えだと。それだとまだ若いから、次の大王は仁賢天皇の娘である手白香皇女を皇后にして、それでお世継ぎを生んでもらうという大伴金村の進言も理解できますね。もし『日本書紀』のように58歳で即位してそれから手白香皇女を皇后にし、その皇子が成人するのを待っていたら当時では超高齢となってしまいます。

やすい:そこは微妙ですね。477年生まれになったのは『日本書紀』で父親だった彦主人王が「真清探當證」では祖父になったからですね。ただ記紀の段階では応神天皇五世の孫とあるだけでその血統が書かれていなかったぐらいですから、正確なところは分からないでしょう。

永山:武烈天皇の年齢は記紀では分かりません。10歳で即位、享年18歳という解釈があるようですね。それで極めて暴虐な大王だったので、やはり若いのを大王にしたら恐ろしいということで、次の継体は58歳ということにしたのかも。両方とも応神五世の孫だから、やはり58歳というより34歳ぐらいの方が納得できますね。もっとも武烈天皇が暴虐だったことは『日本書紀』だけで『古事記』にはないので、遠縁である継体天皇を持ってきて王朝が変わったようになった理由として大王の徳が衰えたからということにしています。易姓革命説のアレンジによる創作かもしれませんね。もっとも大王家は「姓」がなかったかもしれませんが。

やすい:『古事記』に詳しい暴虐記事がないのは、顕宗天皇以降は端折っているからです。確かに武烈天皇の暴虐記事は中国史書の模倣みたいなところがあり信用はできませんね。それでもやはり多少は横暴なところがあり、懲りていたので、性格と実績とか評判などを参考にしたことも考えられます。年齢を考慮したとしたら武烈が若すぎたということで、35歳前後が一番考えられますね。ただ58歳だったとしたら、勾皇子がしっかりしていたので、そのことも含めて選考したのかも。としたら手白香皇女(たしらかの)ひめみこはむしろ勾皇子妃になったでしょうね。それも考えると477年生まれが妥当かもしれません。ただ歴史だけに妥当な線が事実とは限りません。

2,継体天皇の崩御年から欽明天皇の即位年

永山:継体天皇の崩御年についても諸説あるようですね。先ず『古事記』は丁未(ひのとひつじ)年つまり527年43歳で崩御されたことになっていますが、『日本書紀』は即位25年辛亥年531年に崩御したとしています。ところがある書には即位28年甲寅年534年崩御説を採用しています。

やすい:安閑天皇紀に、「531年継体廿五年春二月7日に、男大迹天皇は大兄を天皇と為す、卽日、男大迹天皇崩りましぬ。」とありますから継体天皇は崩御直前に長男の勾皇子に譲位したのでしょうね。そうしないと、皇后は手白香皇女ですから、大伴金村とのやりとりもあり、欽明天皇になる手白香皇女の生んだ志帰嶋皇子が即位するところですが、まだ22歳ですし、自分の片腕だった長男に継がせたかったので、死の間際に皇位継承したのかもしれませんね。

永山:ところが『日本書紀』は即位25年辛亥(かのとい)年531年崩御説は、『百済本記』の記事の影響なのです。
「而して此に云ふ廿五年太歲(ほし)は辛亥に次りて崩ずるは、『百濟本記』を取りて文を爲る。其の文に云ふに「太歲辛亥(25年)三月、軍は安羅に進み、乞乇城(こちとくのしろ)を營む。この月、高麗は王安を弑す。又聞く、日本の天皇及太子皇子、倶に崩薨すと。」此によりて言はば、辛亥の歲は、廿五年に當れり。後に勘校する者、これを知るなり。」

やすい:解釈に苦しみますね。何故別の書には継体28年とあるのに、史実と矛盾する記事のある『百済本記』の25年を採用したのかは謎ですね。25年に死んだのは確かな伝承があって、その際勾皇子に譲位したのだけれど、勾皇子が父の死の間際だったので、即位のふりをしたけれど、元々志帰嶋皇子が太子だったので、自分は遠慮すると言って辞退し、志帰嶋皇子も父の遺志に反するとして辞退して空位になってしまったのではないでしょうか?

永山:では『百済本記』の「日本の天皇及太子皇子、倶に崩薨すと。」というのはフェイクだったのですか?正史である『日本書紀』にわざわざ引用するのはどうしてでしょう。

やすい:それは謎だから後世の歴史家にその解明は任せようという主旨ですね。『百済本記』は『日本書紀』に引用されたものしか遺っていないので、後にそのニュースはフェイクだと分かったと原文にはあったかもしれません。書紀編纂者が参照した時点で既に断片しかなかったかもしれませんね。

3,二朝並立はあったか?

永山:譲り合って、2年の空位があったというのなら、美談です。そういう話は『日本書紀』には時々出てきますね。逆に志帰嶋皇子が自分が太子だと思っていたので、父帝が亡くなった後で、安閑天皇を認めないで騒乱に成り、それが日本の天皇及太子皇子、倶に崩薨すと。」いう誤報の原因だったかもしれませんね。

やすい:それが 『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺伽藍縁起』では欽明天皇の即位した年が辛亥の年(531年)になっています。それなら継体天皇の次が欽明天皇だったことになりますね。

永山:継体天皇崩御に伴い、欽明天皇が即位したら、その時に尾張目子媛が生んだ安閑・宣化系と手白香皇女を母に持つ欽明系に大和朝廷が分裂したと喜田貞吉が戦前に指摘していますね。

「『古代国家の解体』」の画像検索結果やすい:ええ、それを継承し、発展させたのが林屋辰三郎先生です。『古代國家の解体』という本で継体・欽明朝の二朝対立が全国的な内乱になったことを展開されました。私が立命館大学の日本史学専攻の学生だったころに林屋先生の『古代國家の解体』の講義を受けて、議論のスケールが大きいので、大変憧れたことがあります。南北朝時代みたいなことが六世紀にもあったことをあぶり出したのですから。

永山:やすい説では任那・加羅というのは元々倭人の本拠地で、倭人通商圏の宗主国だったということですね。それで大八洲から見て、海原の向こうという意味で「高海原」だった。しかし新羅の脅威を取り除こうと、倭国西朝の軍事力を借りて新羅侵攻をした結果、かえって倭人通商圏のイニシアティブを大八洲再統合に成功した神功皇后のヤマト政権に奪われてしまい、内紛もあって瓦解したので、ヤマト政権の属国になってしまったということですね。しかし海を渡って半島支配を続けるのはなかなか大変で、継体天皇末期の磐井の乱は、その破綻の現われだということですね。

やすい:林屋先生の解釈はそうです。五世紀の初頭には高海原は天空に挙げられて、高天原としてファンタジー化され、任那は大和政権の属国になってしまいます。しかし六世紀に入って、継体天皇の時代には軍事力を派遣しての支配の維持はかえって負担になります。高句麗に押されて、新羅も百済も任那を侵食しようとします。百済は窮状を訴えて、継体6年516年に任那四県の割譲を要請します。

「哆唎国守(タリノクニノミコトモチ)の穗積臣押山は申し上げて言いました。「この4県は近く百済に連なり、日本と隔たっています。朝夕に通いやすく、鶏・犬の種類も分けられないくらいに似ています。今、百済に与えて合わせて同じ国とすれば、固い策略で、これより優れた策は無いでしょう。しかし、たとえ県を与えて国を合わせても、後々には危険になるかもしれません(混乱し戦乱の状態になる)。いわんや、異場(コトサカイ=おそらく国境)となれば、幾年(チカキトシ)すら守れるかどうか」

永山:要するに倭国が自国の領土として維持するのは無理だから、百済がほしいというのなら割譲するのが上策だということで賜物付きでくれてやったということですね。ウェブとか見ると領土を賜物付きでくれてやるなんてあり得ないという反応が多いですね。

やすい:領土として管理する能力がないのに維持しようとすればかえって負担になるばかりですから、譲渡するのは正しい判断だったかもしれませんが、百済にとったら死活問題なだけに大変ありがたいと思ったでしょうね。ただやはり当時の人も領土を賜物付きで譲渡するというのはとんでもないと考えていた人も多くて、結局これが大伴金村の失脚につながります。

永山:大伴金村や穂積臣押山などには百済から賂があったということで、単なる政治判断の問題ではないわけですね。物部麁鹿火は割譲の詔勅を百済の使いに宣る役目を与えられたのですが、妻の諌めで仮病を使って断りました。つまり住吉明神が応神天皇に授けた国だから、それを勝手に他の国に譲ったら、後世から非難されると妻に諭されたのです。この対応の差が将来の大伴氏の失脚、物部氏の台頭に素地になります。

やすい:百済に四県を割譲すると、当然新羅も任那を侵略しようとします。それで大和政権も朝鮮出兵を余儀なくされますので、出兵の徭役(ようえき)が過重な負担になりました。地方で族長・民衆の反抗が起こった。その代表例が継体21年531年筑紫の君磐井の反乱だということです。

永山:毛野臣が任那に六萬で出兵して、新羅から取り戻そうとしている時に、新羅は筑紫君磐井が叛意を持っていることに気づいていたので、賂を送って叛乱をそそのかしたようですね。

やすい:林屋説では辛亥のクーデターで継体天皇が殺害され、蘇我氏に擁立されて欽明天皇が即位したというのです。皇后手白香皇女は仁賢天皇の皇女ですから大和の豪族たちの支持を背景にしていたのでしょう。それに納得がいかないのが尾張目子媛の生んだ勾大兄皇子、檜隈高田皇子です。大伴氏を後ろ盾にし、尾張や越前などの地盤を始めとする地方豪族に支えられて、安閑天皇・宣化天皇を擁立していたというのです。

永山:継体崩御後2年後安閑天皇即位し、2年続いて崩御後宣化天皇が4年続き宣化の死の539年(己未(きび)年)に欽明天皇の下に統一されたという話です。

やすい:欽明天皇の磯城島金刺宮は桜井市、安閑天皇の勾金橋宮は橿原市、宣化天皇の檜隈廬入野宮は明日香村にありました。左の地図を見ますと至近距離に並立していたということになりますと、いつ奇襲をかけて一気に方をつけようとされるかも知れず、おちおち寝てられませんね。
□南北朝時代は京と吉野です。4世紀の東西分裂では志賀高穴穂宮と筑紫香椎宮に分かれていました。それだけでも林屋説には無理がありますね。

永山:即位の年代などに不自然な点があるといういうこと以外に、具体的に二朝並立を伺わせるがわせる材料はありませんから、大伴氏の衰退と蘇我氏の台頭などでの豪族間の争いや、畿内豪族と地方豪族の争いなどがあって、内乱があってもおかしくないということは言えても、二朝対立があったとまでいうのは飛躍かもしれませんね。

やすい:他人のフリ見て、我がフリ直せといいますが、それなら4世紀の東西分裂仮説も材料不足ですか?

永山:年表を作るとヤマトタケルの死後34年経ってから帯仲彦が生まれたことになっているから、それを直したら、若帯彦と同世代ということになり、志賀高穴穂宮と筑紫香椎宮が同時期に並立していたことになるということは、仮説として有効ですね。それに基づいて説明を試みて矛盾なく歴史が説明できれば学説としては成立すると思います。

やすい:三通り考えられます。記紀の記述通りだとしたら、ヤマトタケルの死後34年後に帯中彦が生まれたのを修正すれば、成務の在位期間を短くするということですね。でもどうして大王に成っていた筈の帯中彦大王(仲哀天皇)は敦賀気比に息長帯比売命と敦賀気比に行き、姫をそこにおいたまま紀州に向かい、そこで熊襲が背いたと聞いて、宮に帰らず、山口県の穴門に水運で直行しています。大王が遠征するのに、宮に戻って軍勢を整えないで直行するのは不自然ですね。

永山:だから敦賀行きも紀州経由の穴門行きも、実は即位前で、成務天皇から謀反の嫌疑をかけられたので逃避行をしていたという解釈ですね。そしてそのシナリオを書いたのは実は、倭国が大八洲を統合して強盛大国化することを恐れていた高海原(伽倻)や海原(対馬・壱岐)だったという推理ですね。私は物語としてはよくできていると思いますが、勝手な推理を振り回して、下らないと却下する人もいるでしょうね。歴史を物語化することを一番嫌悪したり、駄目なことと考える研究者は多いようですね。

やすい:デカルト的な方法的懐疑を古代史に持ち込んで、疑いようのない考古学的遺物と確かな外国文献から再構成しないと気が済まないとなると、ほとんど歴史は消されてしまいます。現代史の場合でも、どんな歴史観に立つかで歴史認識に大きな開きが生まれます。上古の場合は同時代の文書は殆どないので、後世の解釈のぶつかり合いなのです。ただ後世の人々にもそれぞれ立場や利害があって、歴史を恣意的に解釈したり、時には自分たちに都合よく解釈できるように改変や創作を付け加えます。でもそうすればどうしても矛盾が生じるので、その矛盾点を精査して元の伝承を浮かび上がらせるという形で、歴史の原像に迫っていくべきだということです。

「欽明天皇」の画像検索結果永山:林屋先生は権力者は血なまぐさい争乱を繰り返してきた、六世紀にも大王の継承や豪族間の勢力争いから朝廷が分裂することもあったのだというのは、一つの権力者性悪説みたいな歴史観に基づく物語的解釈ですね。やすい先生の4世紀東西分裂説は、高海原や海原の大八洲に強盛大国を生まないための分裂工作という要素を加味しているので、より複雑でダイナミックに成っていますが、やはり歴史物語です。ただ歴史物語であることを開き直っているところが面白いけれど。

やすい:二朝並立じゃなかったとしたら、どういう物語になるのかですね。その方がリアリティが感じられるかどうか比較が必要です。継体天皇は、自分の死期を悟って、本音を出すわけです。つまり長男に継がせたいということですね。それで勾大兄皇子への生前譲位を決行した。次の大王を誰にするかは、先の大王の遺志が重視されますからね。

永山:しかし大王の死後皇后の手白香皇女や大和豪族を中心に、太子は磯城島皇子だったし、それでは約束が違うみたいな不満の声が充満しているのを見て、勾皇子は引っ込んでしまった。でも磯城島皇子もそれじゃあ私がやりますというわけにはいかないので、空位になってしまったわけですね。磯城島皇子の辞退の意思が硬いのを見て、先王の遺志通りということで改めて即位したのが安閑天皇ですが、即位後2年で崩御され、その後を年齢順に檜隈高田皇子、磯城島皇子の順番に即位したわけですね。物語として平凡ですね。

「安閑天皇系図」の画像検索結果やすい:日本書紀にあるほど、安閑・宣化天皇が高齢ではなかったとしても、兄弟相続をしておけば次は自分に回ってくるので、宣化天皇に反対しませんでした。『日本書紀』には宣化天皇が崩御した後、磯城島皇子は自分はまだ若すぎるのでと、仁賢天皇の皇女でしかも安閑天皇の皇后であった春日山田皇女の即位を勧めています。

永山:女性が大王になったのは、実質的には神功皇后で、それと仁賢天皇の姉飯豊青皇女が即位していた可能性があるようですが、あまり例がないので、辞退すると分かっていてふったようなもので社交辞令ですね。未熟者だからと断ってそれでもどうしてもと臣下から強く推される形で即位するのがマナーですからね。

やすい:ええ、ただ欽明天皇は基本は蘇我氏との関係が深いのですが、豪族間の勢力バランスの上で、その総意を見極めて政治を行うタイプですから、肉親と殺し合ってまで継承争いをするようなタイプではなかったと思いますね。

9,仏教伝来とパンデミック
https://mzprometheus.wordpress.com/2020/03/24/nks9bukkyoudenrai/