あすと市民大学講演

 陽明学と本居宣長

文責 やすい ゆたか

アイキャッチ画像は李卓吾と本居宣長
人間とは何か:第十講 本居宣長の主情主義的人間観

1、仏教や儒教に物のあはれは存在しないか

仁・慈悲が大本なりし儒仏すら知に奔りなばあはれ失せたり

 本日の講演は陽明学と本居宣長の日本的思想を比較してみようと思います。本居宣長という人は、最大の国文学者でして、『古事記』や『源氏物語』の研究を通して、日本思想を解明した人です。

彼は『源氏物語』のテーマを「もののあはれをしる心」を持っている光源氏を もっとも雅でよき人であると訴えたところだと考えています。
 「もののあはれ」というのは物事や人について「あはれ」を感じるということです。これは「可哀想に」と気の毒に思って同情するだけでなく、万のことに喜怒哀楽を感じ、感動する心をもっているということです。

 つまり物事を体験しますと、すぐさまそれについて物事の道理を考え、事の是非を論じて、いかに対処するのが道徳的に正しいか考え、処理しようとする人がいます。儒教道義に照らして考え、処理するので、理窟づけ、正当化に心を砕くのです。そういう態度では「もののあはれ」は忘れられがちだというのです。
 また仏教では何事も空と縁起の観点から捉え、生じたものはやがて滅する無常のものだとして、何事もとらわれ過ぎず、情に流されないように達観しようとします。

 宣長は儒教や仏教をそういう「賢しら」な知恵によって、素直な気持で感動し、行動することができなくする思想と捉えて、退けようとしました。それではせっかく素晴らしい命を得て、感じる体と心を持って生まれてきても、その命を存分に輝かせて生きることができないということです。

 この世に生を得て生きるということはほんとうに奇跡のような確率です。そして瞬く間に年老い死んでいくのですから、せめて精一杯感動して、素直に感じたままに行動しないともったいないわけです。命を与えてくれた神々や大自然、大いなる生命に申し訳ないということです。

 宣長はそういう素直な生き方を妨げる儒教の賢しらに反発していました。これが正義だという規範を持ち出して来て、素直な真情に基づく行動を押さえつけようとするように思えたわけです。

 権力者は自らの利害を正当化して、正義であると理窟をつけるために儒教を利用していましたから、その為政者の政治によって、抑圧され、収奪され貧窮に喘いだり、戦禍にあったりする人民にとっては、それらは偽善的なものに写ったわけですね。

 ですから宣長の日本思想は、一見、儒教や仏教の対極にあるかに思われていました。儒教や仏教の対極の思想を日本の上代の古典から掬い出してきたというところに宣長の意義があるわけです。

 でも日本思想も仏教や儒教から大いに影響を受けているわけでして、ただ対立しているだけではありません。宗教や思想を対立にばかり捉えて、それに対して思い入れが強すぎると排外主義になってしまいやすいのです。
 宣長は『源氏物語』を物語の最高傑作だと賛美しています。そこに「もののあはれ」が展開されているわけです。それは儒教や仏教とは違った原理で描かれているという捉え方です。

 しかし、実は作者紫式部は、天台智顗の「三諦円融」説を使って、「もののあはれ」を表現していたのです。「もののあはれ」を描くのも、宣長のような素直に感じたままでは、人の心を深く捉えることはできないのです。
 「諦」は真理という意味です。天台智顗の「三諦」は空諦・仮諦(けたい)・中諦です。

 空諦は般若の教えに則り,全ての存在するものを無常で空しいと観ずることです。この真理によって欲望への執着つまり渇愛を脱却できるのです。しかしこれに止まっては消極的なニヒリズム,小乗の立場で終わってしまいます。

 いったん否定された存在を,仮のものとして肯定することを仮諦というのです。空諦の真理だって,存在するものが仮のものであり,空しく滅び去るから感得されるのです。ということはこの仮の存在こそ,法の現れであって,仏性を示している尊き愛しき存在だということです。しかしこの仮諦に固執しますと,存在するものの空しさを忘れて渇愛から脱却できなくなります。華厳の教えは仮諦に止まって現実存在の全面肯定になってしまったと批判されているのです。

 そこで空諦と仮諦が相互に否定し合い,全てのものを空として否定しつつ,仮として肯定する,この中に中諦が有るのです。その上で空諦の中に仮諦・中諦を含み,仮諦の中に空諦と中諦を含み,中諦の中に空諦と仮諦を含んで,三種の真理が渾然一体となっている状態が「三諦円融」なのです。

 このような否定を介した存在への慈しみが,日本思想の中で仏教的無常観に基づく「物の哀れを知る心」として,主情主義的な心情を育む宗教的背景になっていると思われます。

本居宣長は仏教伝来以前に「物の哀れを知る心」の形成を求めていますが,『源氏物語』などの歌・物語や中世・近世の美意識の形成には仏教的無常観の深い影響を見逃すことはできません。

 また「もののあはれ」論は「ものの心を知る」ことですから、儒教の中の宋代の陸象山、明代の王陽明の心即理の立場に立った「天地一体の仁」という立場と深く共鳴できるものです。
 このように考えますと、宣長の「もののあはれ」論は大変洗練されていて、素晴らしいものですが、仏教や儒教にないものを独自に作り出して、仏教や儒教に対置されているというよりも、仏教や儒教の中にあって、ややもすると忘れられがちだったことを、日本思想として見事に再結晶したものであるといえるでしょう。

  2、主情主義と南京大虐殺

家庭では虫も殺せぬ良きパパが、修羅場に立てば百人殺すや

古代ギリシア人は知を重んじたので、主知主義というように民族性を規定されますが、では日本人は何主義ですかと尋ねますと、「さあ」と言って答えられない人が多いようですね。「そんなこと学校で習っていない」というのです。つまり日本人は自分の民族的性格についての自己認識を持っている人が少ないということですね。これは真に嘆かわしい事態です。
 一応、日本人は情を重んじる主情主義だと答えてください。この主情主義という性格づけは本居宣長に由来するでしょう。日本人は建前で何が正義か論じて、賢しらに理屈をこねて自己の正義を主張するのではなく、情を重んじ、互いの思いを思いやって、行動するというのです。
 たとえ理屈では道義に反することであっても、已むに已まれぬ情に衝き動かされてしたことなら同情されるのです。つまり日本人は自分たちは情があって、あまりに非情で残虐なことは国民性から言って出来ないんだといいたいのです。
 しかし、それは外国人にもそう思われているかどうか大いに問題です。日中戦争で南京陥落に伴い30万人が大虐殺されたと言われます。しかし日本人の中には、虐殺されたのは3万人以下だとかほとんど幻だと言い張る人もいます。その時に、大量虐殺にはメリットがないし、また日本人には情があって、無差別大量虐殺などする文化はない。むしろ殲滅戦は中国の文化だと言う人がいます。
 これは強盗殺人に入った犯人に『人殺し!』 と叫んだら、犯人が「お前こそ人殺しだ」と言い返されたようなもので、被害国民である中国人が腹を立てるのは当然です。

中国の歴史を振り返りますと、周辺の異民族から侵略された時には大量虐殺が行われており、モンゴルや満州族の侵攻で人口が一桁減少することもあったわけです。それは正規軍同志に戦闘だけで済まず、女子供老人からも何時襲撃されるかもわからないわけで、どうしても無差別殺戮が起こってしまいがちだからです。それを日本人の民族性から、残虐なことができない民族みたいに自分たちのことを思い込んで、そこから戦争犯罪を否認するというは恥知らずと言わざるを得ません。

 朝鮮や中国から見れば歴史的には日本は、半島や沿海地方で海賊行為を繰り返してきた倭人であり、それはもっとも凶悪で、血も涙もない殺人鬼として恐れられてきたわけです。

そういえばカンボジアでポル・ポト派の数百万人大虐殺という事件がありましたが、それまでクメール人というのはみんな熱心な仏教徒で虫けらだって殺せないと言われていたそうですね。実際ポル・ポト派が台頭するまでは、内戦でも空に向けて撃っていたといわれるぐらいで虐殺なんて考えられなかったらしいですね。だから戦争や政治体制や様々な条件が加わると人間の性格なんて変わってしまうということです。

『歎異抄』で唯円は、師の親鸞に帰依してどんな言いつけでも守りますと言ったので、親鸞はそれなら私がだれかを殺して来いと言ったら殺すのかと言いました。それで唯円は、自分は虫一匹殺せない男だといいわけをします。そこで親鸞は、ふだんは虫一匹殺せなくても、状況次第で百人でも千人でも殺してしまうのが人間だというようなことを言っているのです。

 アウシュビッツの収容所に勤めていた人が、几帳面でまじめな人で、死体から作った石鹸や何かをしっかり記帳していたり、家庭では温厚な性格だったりしますね。広島に原爆を投下した人は未だに、30万人もの人命を奪ったにもかかわらず、そのことで本土決戦による壊滅から日本を救ったと確信しているそうです。つまりいかに情に厚いようでも、非情なことをするのが人間じゃないでしょうか。日本人が情に厚い面があったとしても、だから非情なことができないことはないのです。

 しかし、やはり情に厚く、話し合いや和を貴ぶ日本の伝統を見直して、それを学び継承していき、過ちを繰り返さないようにすることが大切です。
 

3、ますらをぶりとたをやめぶり

ますらをのきつとしたるはつくりもの、女々しく未練真情ならずや

宣長の強調した「真情」を理解するには、ますらをぶりとたをやめぶりを比較することが必要でしょう。賀茂真淵は万葉集の「高き中にみやび」が、「直き中に雄々しき心」がある「益荒男(ますらを)ぶり」が気に入っていました。『古今和歌集』や『新古今和歌集』は優雅で技巧的であり、愚かで未練がましい女々しい女性的な歌風なので、これを「手弱女振(たをやめぶり)」と呼んで退けています。
 ところが宣長は「ますらをぶり」の「雄雄しくきつとしている」のよりも「女々しく愚かで未練がましい手弱女(たをやめ)ぶり」の方が真情に近いのだ、それで人の心を打つのだとしたのです。「雄雄しくきっとしている」方が「女々しく愚かで未練がましい」より立派なようにみえますが、でもそれは建前であり、こしらえ事だと宣長は言うのです。

ほんとに素直になって真情を見つめてみれば、だれだって命は惜しい、死ぬのは怖い、妻子と別れるのは辛い筈です。だからお芝居などで心の琴線に触れるのは、たをやめぶりの真情があふれ出てくる場面なのだというのです。

ほんとに素直になって真情を見つめてみれば、だれだって命は惜しい、死ぬのは怖い、妻子と別れるのは辛い筈です。だからお芝居などで心の琴線に触れるのは、たをやめぶりの真情があふれ出てくる場面なのだというのです。

   4、若き宣長の包括的精神

好きだから信じて楽し何事もわが賞楽の道具なりけり

宣長のもののあはれを感じるセンスのルーツを求めて京遊学時代の若き宣長を探ってみましょう。彼は、包括的精神をもっていまして、どんな学問でもよいところを吸収すればよいと考えていたようです。

 「不侫之於佛氏之言(私は仏教の言葉については)、
好之信之且樂之(これを好みこれを信じこれを楽しみますよ)。
不啻佛氏之言而好信樂之(ただ仏教の言葉だからというので、これを好み信じ楽しむのではありません)。
儒墨老荘諸子百家之言亦皆好信樂之(儒墨老荘諸子百家の言葉であっても、また皆これを好み信じ楽しむのです)。
不啻儒墨老荘諸子百家之言而好信樂之(ただ儒墨老荘諸子百家の言葉だからということで、これを好み信じ楽しんでいるのではありません)。
凡百雑技歌舞燕游(凡そもろもろの習い事、楽しみ事)、
及山川草木禽獣蟲魚風雲雪日月星辰(及び目に触れ舌に味わい膚や嗅覚に反応するすべての自然物)、
宇宙所有(宇宙に有る所のもの)、
無適而不好信樂矣(ゆきて好み信じ楽しまないことはないのです)、
天地萬物、皆吾賞樂之具已(みんな私が愛で楽しむ為の道具に過ぎないのです)。」(『本居宣長全集』第十七巻十六頁)

思想のみならず、習い事、天地万物みんな私の愛で楽しむ為の道具にすぎないという発想はすごいですね。要するに思想だって、花や団子と同じで、自分が好んで愛玩して楽しむための感覚的な消費の対象なわけですね。その為に命をかけるような真理ではないわけです。

これは近代的な主体の確立ではないでしょうか?あらゆる思想や芸能や自然物を自分の前に立てて、それらから自由に楽しそうなものを選択しようとするのですから、なにものにも囚われない主体が確立されているように感じます。

江戸時代は参勤交代により、江戸・大坂などだけでなく宿場町や港町なども発達し、商業や手工業が発達し、豪商階級が形成されました。彼らは為政者の立場ではありませんので、儒教などの節制原理に囚われずになんでも享楽の対象にしてしまい、ニュー・ノウブル(新・貴族的)な文化を構築したのです。

    5、歌の効用

猪を無粋の極みといふなかれ臥す猪の床と言へばなつかし

最初は包括的な精神だったのが、外来の儒教や仏教を排除して大和心を強調するようになるのは、歌論から出発しているのです。人間は心に鬱屈した思いがたまりますね。思いの丈を歌にして歌い上げることで心晴れるのです。歌うことでどんな効用があるかを宣長は次のように述べています。

「人情に通し、物のこころをわきまへ、恕心を生し、心ばせ(気立て)をやはらくるに、歌よりよきはなし、春たつ朝より、雪の中に歳のくれゆくまて、何につけても、歌の趣向にあらさる事なし、かくのことき風雅のおもむき、面白きありさまを、朝夕眼前に見つつ、一首の詠もなくして、むなしく月日を送るは、此世にこれほと惜き事はなき也、見るもの聞くものにつけて、思ひをのへ、うつりかはる折々の景色を、興あるさまによみつつけたる、此世のありさま、何事かはおもしろからさらん、いとたけき猪のたくひも、ふすゐのとこ(臥す猪の床)といへは、哀になつかしきといへる、古めかしき事なれと、まことに此歌の徳ならては、いかてかかくゆうにやさしくは言ひなされむ、いはむやうへなき花月のなかめ、心にあまる風情、ふつつかなる口にも、一首につつりて言ひのへたらむは、いひしらす哀にえんなる事、何ことかはこれに及はむ」(『排蘆小船』)

猪のような無粋の極みでも「臥す猪の床」というと哀れでなつかしいということですが、この元の歌は?和泉式部の歌です。

かるもかき臥す猪の床の寝を安みさこそ寝ざれめかからずもがな

 意味は「すやすや寝込んでいる猪のようには眠れないにしても、人恋しさに眠れないこの状態ではなくありたいものだ」ということです。これが吉田兼好の『徒然草』で取り上げられ、宣長や芭蕉が歌論に使っているのです。つまり歌にはどんなものでも風流に変えてしまう不思議の力があるのです。歌にすることで人生の辛いこと、悲しいこと、惨めなことが昇華され、もののあはれとして感動することができるのです。

現代だとついさまざまな服飾の奢侈品やゲームとかそういう物によって気晴らしをしますが、昔は歌を作って心を慰めていたのですね。その方がずっと精神的には豊かな気がしますね。この気持を歌にしてみましょう。

わが胸にむすぼるるかなこの思い歌に詠じて心晴れなむ

 宣長の歌はまさしくこのようなものです。いわゆる名歌を作ろうと狙っていません、心のままに素直に詠じているのです。ですからいくらでもできます。自分の「こころばせを和らぐる」ために歌を作っているのです。名歌を作ろうとしすぎますと、なかなか歌になりません、それでは心が晴れないままです。

 その場合、宣長は真情を素直に詠うことが大切だといいたいのです。つまり、ますらをぶりよりもたおやめぶりの方が胸に響くということですね。

 それが歌・物語テーマだということです。そこに文学的価値の自立がおこったわけです。それでもまだ、儒教や仏教を退けていたのではありません、あくまで文学的な価値として「もののあはれを知る」ことを強調しているのです。

周延 志賀寺上人京極の御息所ヲ見る | 浮世絵 | 原書房 神田神保町
志賀寺の上人、京極の御息所に心奪われる図

ただ『太平記』に出てくる志賀寺の上人の話を取り上げ、高齢になるまで恋をしたことがなかった上人が、京極の御息所に心奪われ、京までついてきて庭先立っているところを御息所が手を握ってあげてそれで妄執がはれるという話があります。それを宣長は「初春の初子の今日の玉箒手にとるからにゆらぐ玉の緒(正月の初子の日に賜った玉箒は手に取るだけで、飾り玉を通した紐が揺れて、自分の心もときめく)」(大伴家持)の歌を詠じて心が晴れるという話にしています。この話などは仏教の戒律が人情に合わないことを暗に指摘しているわけですから、次第に儒教や仏教に対する批判が強くなっていったのでしょう。

  6、儒教・仏教ともののあはれ

無常こそもののあはれの元ならむ名残の桜ひとしお目に沁む

 仏教では色恋自体を否定しますし、儒教でも不義密通などは極悪として排斥します。ところが『源氏物語』は義母の藤壺と不義密通した光源氏をもっとも人情に適う良き人としているわけです。藤壺は桐壺帝の中宮ですから、この不義密通は大逆罪とも言えますね。儒教的には極悪非道の極みです。でも「不義淫乱をうち棄ててかかはらず、源氏の君をよき人にしたるは、 人情にかなひて物の哀れを知る人のゆゑなり。」と、宣長は評しています。ですから『源氏物語』の「もののあはれ」論は日本独特の主情主義的なものと宣長が誤認したのも無理がありません。

実は1節で述べましたように、紫式部は天台宗の影響を受けています。天台智顗には「三諦円融」という思想があるのです。

光源氏の栄華は雅で華麗なものであったでしょう。その意味では「仮諦」としては、光源氏の恋多き人生を美しく描いています。でもそれは「仮諦」に過ぎません。その影では、女性たちははかない恋に泣いているのです。また六条御息所の激しい嫉妬が生霊となって暗い影を落としています。このように恋ははかなく、空しいものなのです。ここに仏教的なニヒリズムが、つまり「空諦」が胸に迫ってきます。
 『源氏物語』は、このように「仮諦」と「空諦」がそれぞれ印象的に描かれながら、いずれにも偏り過ぎない「中諦」の立場で表現されています。つまりはかなく滅び去るからこそ、艶やかに輝くという立場なのです。でもバランスばかり取っていると、生き生きしたものがなくなってしまいます。「仮諦」と「空諦」と「中諦」がそれぞれ印象的に語られながら、それらの三諦が円融して一つになっているところが、余計に「もののあはれ」を感じさせてくれるのです。

 宣長は仏教的な否定を介して、はかないからこそもののあはれはひとしお身に沁みるものだという仏教的無常観からくる美意識に対しても反発しています。吉田兼好の『徒然草』に出てくる「花は盛りを月は隈なきをのみみるものかは」という言葉を「つくりみやび」だと批判したのです。

 つまり宣長は、花は満開で華やかなのがいいにきまっているし、だれでも満月を見てうれしくなるものだと決め付けています。ところが兼好法師は、残り少なくなった桜や欠け残っているか細い月こそはかなさが胸に迫って、その美しさがひときわ映えると考えたのです。それを宣長は、ひねくれとしか理解できなかったわけです。

 やはり近世の豪商階級のニュー・ノウブル(新貴族)的な感覚があって、ペシミズムやニヒリズムは合わなかったのかもしれないですね。辛いこと悲しいことがあれば歌でも作って心を晴らせばいいと考えていたのでしょう。

 7、宣長の「もののあはれ」論

哀れなる物を哀れと思い知るその心こそ物の哀れか

「さてその物事につきて、よきことはよし、悪しきことは悪しし、悲しきことは悲し、哀れなることは哀れと思ひて、その物事の味ひを知るを、物の哀れを知るといひ、物の心を知るといひ、事の心を知るといふ。」(『紫文要領巻上』64頁)

つまり哀れなることを哀れと感じることによって、対象は自分自身の情感に成ったのです。言い換えれば対象の情感が自分自身の情感となって、対象が心を持ったのです。

たとえばキムチがあって、食べたとしますね。「ヒャー辛らいけど、オイシー、癖になりそう」と私が思ったらそれはキムチが辛くておいしいと思ったことになり、キムチが心を持ったことになるのでしょうか?

「世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ、耳に聞くにつけ、身に触るるにつけて、その万の事を心に味へて、その万の事をわが心にわきまえ知る、これ、事の心を知るなり、物の心を知るなり、物の哀れを知るなり。」(同上、125頁)

この場合万の事の心というのはそれを感じ取る私の心と別の所に在って、物の心と私の心が共鳴し合っているというわけではありません。物の心、事の心をわきまえ知るのは、その物や事の心に私の心が成っているということなのです。
 でもこう反論されそうですね。「たとえば北野ホテルのビフテキを食べて、チョーおいしい!と叫んだら、それは牛の心ですか?牛は食べられて喜んでいるとは思いませんが。」

いや、そういう意味ではないのです。ビフテキという料理の心ですから、生きている牛の心ではありません。ビフテキは調理してビフテキを作るコック、そしてビフテキを食べる人との関係において存在します。調理においてはどのようにすれば最高に肉の旨味を引き出せるかということが意識の内容になりますね。これはビフテキ料理の意識であり、心です。また食べる人はそのやわらかい感触や肉汁の旨味が意識されます。これがビフテキの心なのです。それじゃあコックやお客の意識でしかないじゃないかと思われますか?。宣長はこうも言っています。

 「たとへばいみじくめでたき桜の盛りに咲きたるを見て、めでたき花と見るは、物の心を知るなり。めでたき花といふことをわきまへ知りて、さてさてめでたき花かなと思ふが、感ずるなり。これすなはち物の哀れなり。しかるにいかほどめでたき花を見てもめでたき花と思わぬは、物の心知らぬなり。さやうの人ぞ、ましてめでたき花かなと感ずることなきなり。これ物の哀れ知らぬなり。」(同上、同頁)

 宣長も、それ自体としては「物は心なければ」と述べています。ですから物の心を弁え知るとは、「めでたき花と見る」事以外ではないのです。つまり「これが物の心だ。」と自分の心を物に帰属させるのです。

 では、対象と自己の区別が無くなってしまっていることになりますね。これはどうしてでしょう?対象と自己が別物だということに拘れば、自分の心が物の心だというのは思い入れに過ぎません。しかし対象はあくまで自分にとっての対象でしかありません。別の主観に対してはまた別の現れ方をするのですから。その意味で私に対して現れた対象の心は、私の心に他ならないのです。

ということは私の心と物の心は同じだと言うことです。頭の中に心があるのではなくて、事物がそのまま物の心であり、私の心だということになりますね。だって意識内容が桜の木であり、それがめでたき花という私の心なのですから、意識内容としての桜の木が私のめでたい花という意識によって述語づけられています。
 そこで対象の現れの一つである私の心と、私の様々な心模様の一つである対象は、全く同一だということになるでしょう。これが「情感による対象との一体化」なのです。主観・客観が未分化な情感の立場が「物の心を知る」「物の哀れを知る」という表現に見事に示されているのです。

 物は対象だから体の外にあり、意識は感覚の統合だから頭の中にあるという固定観念に惑わされていませんか?物は身体の外にあって意識は頭の中にあるという図式に捉われていますね。今、赤い風船があって意識されているとしますと、「赤い」色彩や「風船」の形や感触は意識でしょう。それらを抜いて「赤い風船」はないのです。意識というと何か思惟のことのように捉えて、物と対極に置いてしまいますが、物の感触や重さ、姿かたちなどリアルなものが意識なのです。ですから物についての経験を統合したものが、その物の意識だと考えたら分かりやすいかもしれません。

8、陽明学入門、庭前の竹

竹切りてその切口を睨みつけ七日たてども理はみえざるや

  ではいよいよ陽明学のお話に入ります。元元朱子学に傾倒していた王陽明(一四七二~一五二八)は、『伝習録』によりますと、一木一草に理があるという朱子学の教えを実際に確証しようと、庭前の竹を切って、その切り口をじっと見つめていました。七日間睨み続けていたのですが、結局、事物内の理には格(いた)る事ができなかったのです。
 真理というのは概念の形をとりますから、眼にはみえません。この逸話は彼が観察と認識の区別が分かっていなかったということを露呈してしまっています。
 それはともかく、事物の中に理を求める朱子学の限界を陽明は実感したのです。事物が心の外にあって、外の事物に理があり、心にも理があるとしますと、心はどのようにして外の物の理に格ることができるのか、またその理と心の理を一つにするにはどうすればよいのか、陽明は苦しみぬいたのです。
 でも朱子によりますと、心とは「みな人の身に主たる所以のものなり、一にして二ならざるものなり、主となりて客とならざるものなり、物に命じて物に命ぜられざるものなり」(朱子文集巻六七)なのですから、天地万物の理を窮めつくしそれに倣って心の理を見出さなくても,心の理は心自身の中に見出される筈なのです。
 それを覚ったのは、陽明が三七歳の時ですから、一五〇九年中国は明の時代でした。陽明は宦官劉瑾(りゅうきん)の弾劾運動に加わって、南方の僻地竜場駅に流されました。猛獣毒蛇の住む土地で塗炭の苦しみを体験したのです。彼はその中にあって、自己一身の利害得失や生死のことなど全く捨て去って、ただひたすら道を求めて瞑想したのです。そしてついに理は自分の心にある、元来聖人の道は自分の心の中に具わっているのだと自覚したのです。
 自分の心の中にある理と事物の理は同じものだということですね。この「心即理」は、南宋の時代に朱子のライバルであった陸象山(一一三九~一一九二)のとなえた説です。象山は心を性と情を分けられないとしました。「心」を渾然たる一者と捉えたのです。
 朱子学だと、心の理が心の本性で、これを性と呼び、「性即理」だというのが朱子学の立場です。情というのは身体という物質的要素つまり外界からの感覚的な刺激で欲が起こり、血が騒ぐわけでしょう。それで心が動揺して物事が理に即して見られなくなるので、情に惑わされないように、身を慎んで理を窮める、つまり「居敬窮理」が求められたのです。
 朱子学だと身を慎むことで外界の事物の理がはっきり見えてくるということになります。あくまで心と心の外の事物を峻別しています。ところが、陸 象山は、心と宇宙を一つだと捉えたのです。「宇宙は即ちこれ吾が心、吾が心は即ちこれ宇宙。東海に聖人出づるあるも、この心同じきなり、この理同じきなり」というのです。
 「空を見れば、私は空、海を見れば私は海」と空海と自分の名前を空海としました。空や海が空海なら、今同じ空や海を見ている私たちの心も空海と同じ心だということなのです。つまり私たちも空であり海であるから、この心の理が空や海の理だということになるのです。
 つまり天地の道理も孔孟の教えも,みんな心の理であって,その理に従えば,天と合一し自分自身が理であるから、「己の欲するところに従いて矩(のり)をこえず」の境地に達すると考えたのです。

     9、致良知

吾が思い届かぬものか木片に命の響き聴かましものを

心の理が天地万物の理だというのなら、「格物致知(物にいたりて知を致す)」のではなくて、逆に「知致格物(知を致して物に格る)」ということですね。陽明はこう語っています。

「わたしのいう致知格物は、わが心の良知を事事物物に致すことである。わが心の良知は、天理である。わが心の良知を事事物物に致せば、事事物物みなその理を得るのである。わが心の良知を致すのが『致知』であり、事事物物みなその理を得るのが『格物』である。つまりわたしの立場は、心と理を合一するものにほかならない。」(『伝習録』)

 良知を事物に当てはめるのですから、どちらかというと客観的な真理を認識するというより、理によって事物を正しく変えるようなニュアンスになります。だから「格物」の「格」は朱子の「いたる」という意味から「正す」という意味に変えられています。「致知」も知識を磨くという意味ではなく,知(良知)を実現するという意味で使われています。良知を実現するのを「致良知」と呼んで強調しました。それに「格物致知」が「致知格物」になっていて、「良知を実現するのが物を正すということだ」という実践的な意味になっています。つまり知ることと行うことは合一しているのです。これを「知行合一」と呼びます。そして実践によって知を磨いていく事を「事上磨錬」と言います。
 もし心と物とを二元的に捉え,その上で物の理と心の理を一致させようとしても、心と物の究極的な合一が前提でなければ、とても無理だと考えたのでしょう。そこで事事物物も心のありようだと考えれば良いということです。だから仏教では唯識論にあたります。
 でもそれぞれの個人が自分の心こそ天理だと主張すれば、天理が一つだという前提が成り立ちません。それでは各人の心がばらばらだというのはどうして生じるのでしょう。陽明は、それは各人が万物が一体だということを悟らず、自己一身の身体的欲望に囚われて、自分の本来の天理を宿している心を失っているからだと捉えたのです。
 心即理ということは、孔子も空海も陽明も皆同じ心を抱いているということですから、正しいあるべき心は一つだということになります。
 それならば天下に心外の事,心外の理などある筈がないのです。ですから全ての事物や全ての人々の姿に心動かされ,それらの心と一つになって情が起こるのが「万物一体の仁」なのです。これは本居宣長の「物の哀れを知る心」と通じていますね。子供が井戸に落ちそうになった時に起こる惻隠の心、鳥獣の哀しそうな鳴き声を聞いて起こる忍びざる心、草木の枯れ折れるのを見て起こる憐憫の心、瓦石の壊れるのを見て起こる惜む心、これらの心はみな万物一体の仁なのです。

「人は天地の心であり,天地万物はもと吾と一体なるものである。生民の困苦荼毒(とどく)、一つとして吾が身に切実な疾痛でないものがあろうか。吾が身の疾痛を知らざる者は『是非の心なき者』というべきである。是非の心は『慮らずして知り,学ばずして能くする』もの、すなわち良知であり、良知は聖と愚、古と今を問わず同一なるものである。」

ここでは生民の痛みを自分の痛みと感じないものは、「是非の心」がなく良知に欠けるということになります。
 本居宣長は、物の哀れを知る心の典型で『源氏物語』を語り、恋心のときめきを語っているわけですが、相手が異性であるか、苦しんでいる人民であるかの違いはあれ、相手の痛みを自分の痛みと感じないのは心なき人だという感じ方は同じですね。それに人間だけが対象ではなく天地自然生きとし生けるものへの憐憫を語っているのも共通しています。
 実はこのセンスは「山川草木悉皆成仏」を説いた天台本覚思想とも共通します。そういう意味で宣長と陽明学の共通性に注目することで、対象や事物を含めて人間のあり方、感じ方、心を捉えようとしていることが分かります。自己の狭い意味の個体的身体に限定しないで、コスモスとして自己を捉えるという発想が窺えるわけです。

   10、良知としての童心

見聞きして賢しらだてるその故に童の真情(こころ)褪せにけるかも

 李卓吾の批評において、「童心」というのが「真情」として受け止められていましたので、宣長が「真情」を論じる場合は李卓吾の影響がなかったとはいえないでしょう。

「童心とは真心のことであり、少しも虚仮を許さぬ純真そのもので、もっとも本然たるありのままの心である。もし童心を失えば真心を失うことになり、真心を失えば真人を失うことになる。人として真でなければもはや人間の本質を持つとはいえないであろう。」(『焚書』巻三童心説)

「童心がなぜついに失われてしまったのだろうか。見聞するものが耳目から入って、内で主位についてしまうのが童心を失うはじめであろう。大きくなると道理が見聞を媒介に内に入り主位についてしまえば、また童心を失うことになる。久しくそうなれば、道理や見聞が日増しに多くなり、知識もますます広くなるにつれてついには名誉の好ましいことを知り、しかもそれを鼻にかけようとすると、童心を失ってしまうのである。そして不名誉の恥ずかしいことを知り、それを隠そうとすると、また童心を失うのである。おおよそ、道理や見聞などはたいてい多くの書物を読んで、義と理を弁えることによって得られるのだ。」(『焚書』巻三童心説)

 この李卓吾の「童心」は本居宣長の「真情・真心」に近いですね。宣長は、儒教や仏教の「さかしら」によって汚染される前の「真心」を「大和意」として捉えようとしました。嘘偽りのない、感じやすい心、感じたままに行動してしまうのです。書物で得た義理で真情を押し殺すのが「漢意」です。宣長は卓吾の「童心説」を読んで、それを「真心」に置き換えたのではないかと疑いたくなるような表現をしています。

 「そもそも道は、もと学問をして知ることにはあらず、生まれながらの真心なるぞ道には有りける。真心とはよくもあしくも、うまれつきたるままの心をいふ。然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、真心をばうしなひはてたれば、今は学問せざれば、道をえしらざるこそあれ。」(『玉勝間』「学問をして道をしる事」一の巻)

「真心とはよくもあしくも、うまれつきたるままの心をいふ」という表現は王龍溪の、良知は無善無悪だという説そのままですね。

  宣長は24歳の時に、堀景山の塾で『世説新語』の会読に参加しているのです。この世間話を集めた本ですが、それは実は李卓吾の解説入りだったということで正式の書名は『李卓吾批点世説新語補』だったということです。(劉岸偉著『李卓吾』中公新書182頁)ますます宣長の「やまとごころ」なるものが輸入半製品の加工品だという疑いが濃くなりましたね。

 11、真情の立場としての童心

やみ難き物の哀れに絆されし源氏の罪をたれか問はむや

 この童心という思想が危険視されるのは、ある意味当然ですね。だって童心は、無善無悪だということですから、たとえ世の中でいけないことだとされていても、当人がやむにやまれぬ思いからしたことなら、共感するということですから。宣長的に言いますと、「物の哀れを知る心」からでたことなら、たとえ不義密通でも文学的にはよきことになるということで、『源氏物語』では光源氏と藤壺の不倫は、不孝、不忠であるにもかかわらず、道徳的に批判されていないわけです。李卓吾の批評も童心からみてどうかということで、童心を価値評価の基準に置けば、たとえ儒教道徳からは非難されることであっても、共感されるべきだということになります。

 そして童心は、読書などで研鑽すればかえって失われるとされていますね。理や義を考えていて、そこから自分が道徳的に破廉恥だと思われるとか、馬鹿だと思われるとか気にしだすと失われるというわけです。つまり物の道理とか、後先の影響とかいろいろ理屈で考えた結果の行いには童心がないわけです。そういうことは考えずに真情から突っ走ってしまった行為こそ、嘘偽りない誠だということですね。

 確かにこれも批評という見地からは言えることで、文学や芸術の世界では、ある程度、真情から突っ走って、法や道徳を蹂躙してしまう行為でも讃美することは許されるべきなのです。不倫は文学の世界では堂々と謳歌されますし、恨みつらみから復讐を遂げる話も読者の共感を誘います。テレビドラマの「刑事もの」でも犯人がいかに犯罪に追い詰められたか、事件に真相に迫ると、そういう真情が浮き彫りになってきて、視聴者の共感を誘うようにできていますと視聴率があがるのです。

 だから朱子学的イデオロギーを正しいと認めた上で、文学批評の領域で、童心からの行いを別の価値基準で擁護するのならある程度理解されたかもしれませんが、朱子学を批判し、良知を善とは限らないとした上で、その行いを心情的に共感しているわけです。そして童心から突っ走った、狂であり愚である行いを開き直って讃美しているわけです。

 吉田松陰は李卓吾を読みまして、彼らのテロリズムを正当化する論理を見出そうとしたわけです。尊王攘夷を決行して情勢を切り拓くためには、だれかが事の善悪などに構わずに、攘夷の妨害者に切りかからなければならない、狂であり愚である行いこそが必要なのだという論理です。

    12、李卓吾のこころ

李卓吾天下国家にからまれぬ己の真に殉じたりしか

 李卓吾の生きた明末は、童心に基づいていない、正義の仮面を被った仮(にせ)物たち、偽善者たちが世にあふれていました。口では朱子学的な仁義を説き、居敬窮理を説きますが、実際は商業が発達し、貨幣経済で動いていました。卓吾の娘が飢え死にしたのも、役人に賄賂を送って、水を自分の田に引いてもらっていれば、防げたわけです。でも彼はそれを不正としてできなかったわけですね。彼の童心が許さなかったわけです。

 役人は童心などなく、たとえ農民が飢え死にしようが、水運優先は国益に合致するという理屈さえあればそれでなんとでもいいわけできるということです。卓吾からみれば到底許せないことでしょう。奴らは金で動いているくせに、いかにも正義であるかに振舞う偽善者だと思っていたのです。

 明末は『金瓶梅』の時代です。士大夫も口では道学者ぶっていても、色町で放蕩していたわけですが、いざとなると李卓吾の放蕩ぶりを糾弾したわけです。そこで彼は自分は聖人君子ではなく、きわめて性格が悪い人間で、まあひねくれものですねものだと開き直ります。そしてそういう批判者だって同類だろうというのです。退廃の時代を生きているくせに、道学者をきどって他人を攻撃する偽善に激しく反発したわけです。

 それで士大夫的価値観への嫌悪し、反発するところから、権力欲や策謀に生きた人物、破天荒な生き方をした人物でも、それなりに自分のもって生まれた個性を発揮し、歴史を華やかに彩った人物は再評価されたわけです。そういう人物を描いた物語や小説が文学的価値を与えられたわけです。『西廂記』・『西遊記』・『水滸伝』は『史記』に劣らないとされるのです。

 そのような李卓吾は権力や朱子学からは弾圧され、76歳で捕らえられ、結局自殺します。彼は自分は世間の人とほとんど付き合わずに、だから影響も与えていないのに罰せられるのは納得いかないと抗弁していますが、彼の童心という価値基準は十分に社会に影響を与えたわけです。つまり天下、国家や社会正義なる観点からは容れられない行動でも、止むに止まれぬ真実に動かされているのなら、そこに人間としての誠はあるのだということですね。そういう形で、正統的な価値観や法秩序に回収されない、個人の主体的真実が対置されたということです。

 彼が陽明学だけでなく、禅にも傾倒したのは、なにものにも囚われない人間としての真実を求めていたからでしょう。そのような感性が明末社会では人気を博したということです。つまり国家道徳には回収されない、市民社会が形成されてきたということですね。そこでの主体はあくまで個人であって、己の真実を基準に行動する市民的主体が登場できたということです。

 彼が退官後、文筆活動によって著作が爆発的に流通するという広範な読者に支えられて、彼の人間としての秘めてきた怨念が開花したわけです。それはまさに時代の寵児ともいえますが、同時に国家的には放置できない徒花だったということでしょう。
 李卓吾と宣長では全くタイプが違います、同じ遊び人的なところはあるにしても、李卓吾はすねもの的ですが、宣長はニューノウブル(新貴族)で雅で洗練されています。でも正直に真情を貫くという姿勢においては同じ感性をもっています。

2013年作成