立憲民主党は日本共産党とは連立しないそうである。共産党の方は立憲民主党と組みたがっている。しかし私は、立憲民主党と組むのは共産党にとって果たしてメリットがあるか疑問だ。

 というのは今最も問題なのは平成30年間の停滞から令和の凋落に向かいつつあるということである。その原因を突き止め、力強い成長路線に経済を乗せることができるかが政治に問われている。

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 自公政権は巨大な累積債務を抱え、緊縮財政から脱却することができない、財政の機動的運用で成長をというが、あくまで全体としては緊縮財政の枠内である。つまり自公政権はじり貧路線を続けざるを得ない。

 それでは立憲民主党はどうか、民主党政権時代は放漫財政を整理することに力を入れたが、力強い成長路線ではなかった。むしろ経済成長の時代は終わったとして脱成長の定常化を目指していたのである。民主党政権で官房長官をしていたのが故仙谷由人で枝野幸男はその弟分のような存在である。 仙谷由人 のブレーンが水野和夫で彼は脱成長論の代表格だ。

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だからその路線をきっちり総括して、積極財政主義を打ち出せないようなら、立憲民主党が政権を取ったら自公政権よりひどい凋落になりかねず、その尻馬に共産党が乗れば、共産党まで致命的なダメージを受けることになる。

 むしろ共産党は積極財政主義の山本太郎のれいわ新選組と共闘し、松尾匡さんらの積極財政派の経済学者をブレーンにして、日本経済の救世主であることをアピールすべきだろう。それは左翼ポピュリズムだという非難を蒙るだろうが、立憲民主党と心中するよりはましである。

 

山本太郎から自民党を支持してきた皆様へ 拡大写真 - |論座 - 朝日新聞社の言論サイト

積極財政主義に打ってでないと、コロナ禍後はそう簡単に観光や飲食業やエンタメ産業、教育界なども原状回復は難しいし、このコロナ禍で進んだデジタル化や構造改善、働き方改革などの経験を活かして、更なる飛躍につなげるのは難しい。

 立憲民主党内にも脱成長路線では厳しいグローバル競争時代にあって、日本経済の凋落が不可避であることを分かっている人も多いから、必ず論争が起こって、積極財政派が多数になるか、分裂の動きに成るだろう。

 マルクス経済学者の中には斎藤幸平のように脱成長コミュニズムを説く人も居る。たしかに成長が環境に負荷になる面があり、その点配慮が欠けてはならないが、環境問題を解決するためにも、現在の産業の規模や水準では無理で、もっと高度な科学技術や文化の基盤が必要なのである。

 それに平成30年の間に日本の賃金水準の十分の一以下だった中国が急成長を遂げ、パナソニックなどの代表的企業の凋落も目立っていて、一般国民の所得は低迷しており、生活不安は深刻になっているので、脱成長路線はますます国民から支持されなくなっている。若者の左翼離れも、そこに起因する。

 脱成長論が何故人気があるのか、その社会心理の根柢には雇用不安がある。このまま技術革新が進み、経済が成長すれば、省力化が進み、雇用が人口の一割未満になるような脱労働社会になってしまうのではないか、そうなると遊んで暮らせるか、今のところその保障はない。政府は累積債務を抱えて、緊縮財政に固執し、消費税を下げたり、ベーシックインカムを導入することの論議さえ避けている。

 しかし21世紀の生産性向上の競争ではデジタル化、自動化、ロボット導入の全面化は避けて通れない。今更、鎖国して、貿易・資本の自由化をご破算にすることはできないから、人材の最大限の活用は大切だが、脱労働社会化というのは、成長に伴って必然的に行きつかざるを得ないし、既にそれが進行していることを前提に経済政策を立てないと、根本的な誤りに陥る。

 つまり不況だからと言って、生産を活発にすれば、雇用が増えて需要が高まり、景気が回復するということはないのである。むしろ生産性の伸びは生身の労働力を自動機械に置き換え、デジタル的に処理することによって生じるのだから、雇用は伸びず、雇用所得は頭打ちで、需要が回復しないから、そのための財政投資は累積債務を積み増すことにしかならなかったのである。

 脱労働社会化が必然だったら、完全雇用を目指す経済政策はアナクロニズムになるということである。景気回復のためには雇用所得が減ったり、頭打ちの国民に生産性の伸びに応じて財政から所得を配分するしかないのである。政府は、様々な手当の形で国民に所得を配分すればいい。その財源はもちろん国債である。その際にインフレになったらいけないので、生産性の伸びの範囲内で日銀に実質的に引き受けてもらえばいいということである。そうしなければ、自動化で伸びた生産が売れ残り、企業は損失になり、停滞や凋落になる。

 その際に経済社会の発展にとって有意義な活動に対して報酬を与えることにすれば、それが需要を生み、生産増加を刺激し、ますます経済は発展する。たとえば学習活動に対して、報酬する。学習して文化を継承するから、どんどん高度化する商品を使いこなせ消費することができるのである。学習も広い意味で生産を成り立たせる要素であるから、価値形成と認めて報酬するのである。本当に脱労働社会化すれば、雇用されるのは極少数なので、ほとんど人は一生雇用されないとすれば、生涯いろんな文化を学習し、豊かな生活をおくれるようにすべきである。その活動に対して、既成の労働と同等に報酬を与えるシステムを構築すれば、脱労働社会になっても大丈夫ということである。

 同様に文化・スポーツやボランティアにも報酬する対象を拡大していけばいいわけである。だから先ず学習するのが身分になっている学生に学習報酬を要求する運動の先頭に立ってもらわなければならない。学習するということが、労働と同等に経済の維持・発展に大いに貢献していることを自覚させ、当然の権利として学習報酬を求める運動をすべきである。そして脱労働者化した人も学習することによって収入が保障されるようにする。政党もそういう経済政策を掲げれば、若者に対して自分たちの将来を明るく照らしてくれる政党として支持されることになるだろう。

 積極財政政策をとるといっても、実現可能でなければならないし、経済学的な裏付けが必要である。しかし自動機械が生身の労働力にとって代わることで価値が増殖しているとしたら、それを担保にして貨幣を出し、所得を配っても大丈夫のはずで、その分だれか他人から所得を吸い上げなくてもいい筈である。つまり生身の労働力の身が価値を生むという既成の労働価値説の呪縛から解放される新しい『資本論』が必要なのである。