日本古代史像の再構築ー論争に触れながら
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3, 出雲帝国と国譲り

日本古代史像の再構築 第三講、 出雲帝国と国譲り

日本古代史像の再構築

第四講、 神武東征は虚構か史実か?

1、磐余彦は邇邇芸命の嫡流ではなかった。

永山裕子:大和朝廷では初代天皇を「神武天皇」だったことにしていますが、初歩的な疑問ですが、邇邇藝命が初代天皇ではないのですか?だって天ノ下を知ろすべしということで、邇邇藝命が天下りしたわけで、その邇邇藝命に対して大國主命たちは国譲りをさせられたわけでしょう。

やすいゆたか:ええ、記紀ではそういう話なのですが、邇邇藝命からその曾孫の磐余彦(神武天皇)までは筑紫にいたわけです。ですから筑紫政権ですね。磐余彦は大和政権を樹立したわけで、その初代なので、初代天皇と呼ばれているわけです。それに天皇という呼称自体は七世紀以降に始まったようですから、磐余彦も大和政権の初代大王(おほきみ)と呼ぶのが正しいわけです。

永山:記紀神話では、邇邇藝命の一夜妻であった木之花咲耶姫の息子の火遠理命別名山幸彦が火照命別名海幸彦との争いに勝って、家督を継いでいるようですが、それでは筑紫王朝の二代目大王は火遠理命だったという了解でいいのですか?

やすい:いや確かに邇邇藝命は木之花咲耶姫が産んだ子を自分の子と認知したようですが、それは産屋に火をつけて無事産んだら認知するという一種の盟神探湯(くがたち)のような神判で無事生まれたからです。何も生まれた子を王子として育て、大王位を継がせたとは限りません。

永山:そういえば、邇邇藝命は、木之花咲耶姫のような一夜妻だけではなく、正妃や側室が大勢いたかもしれませんね。そういう伝承は残っていないのですか?

やすい:それが磐余彦に連なる系図的な記事しか筑紫政権については、記紀にはでてきません。つまり二代目大王や三代目大王がだれだったか一切わかりません。筑紫政権の政治制度や王名や歴史についての伝承は磐余彦一族の血統についての伝承以外は全く伝わっていないのです。

永山:ということは邇邇藝命の天降りや筑紫王朝が存在したということ自体が全くの創作だったということでしょうか?

やすい:その可能性もありますが、存在したけれど、滅ぼされてしまって伝承を伝えていた語部が皆死んだので伝わっていないこともありえますね。

高千穂町、延岡市、日向市などの名所旧跡、観光地のご案内永山:筑紫政権などなかったという可能性もあるのですか?

やすい:九州は、筑紫と呼ばれていましたが、紀元前千年近く前から弥生時代が始まったのではないかと言われています。当然国家形成も最も早くから行われていた可能性がありますから、筑紫から磐余彦一族が東征ということは筑紫に国家がなかったと考えるより、あったと考える方が理解しやすいですね。

永山:筑紫王朝があったとしたらその中心は大陸から渡来しやすい筑紫北岸地帯と思いますが、邇邇藝命の天降りは高千穂峰で場所的には南九州ですし、磐余彦の東征も起点は日向ですね。

やすい:邇邇藝命の天降りというの高天原が天空にあるという設定なので山の頂上に降り立つ形ですね。もちろん天空の国というのはファンタジーなので歴史的にはあり得ません。それに南部にしたのは恐らく磐余彦が九州南部の豪族だったからでしょう。

笠沙岬
笠沙岬

永山:邇邇藝命が木之花咲耶姫を見初めたのは薩摩半島の笠沙岬ですし、磐余彦の地盤は日向ですからね。つまり筑紫王朝は南部にあったことにして、磐余彦を邇邇芸の嫡流だということにしたいということですね。だから記紀では邇邇藝命は高千穂宮を都にしたことになっていますね。

やすい:先ず筑紫北岸に中心が出来、それから内陸部に進出するほうがナチュラルなのに、高千穂宮から筑紫政権が始まったのは腑に落ちませんでしたが、筑紫政権の王位継承の伝承が全く残っていないので、記紀の編者としては磐余彦を正嫡だという印象にするために、宮が高千穂にあったことにしたわけですね。ということから磐余彦一族は、筑紫政権の王統に連なっているとしても、実は嫡流ではなくて、地方豪族だったと考えられます。

永山:磐余彦が邇邇藝命の嫡流だったかどうかは、その後の歴史に大きな影響を与えることですか?

やすい:もちろん磐余彦一族が歴史的に実在したと仮定しての話ですよ。嫡流ではなく地方の一豪族だったとしたら、邇邇藝命は当然筑紫北岸を中心に筑紫の国を造り、三世紀の卑弥呼の時代には邪馬台国連合の中心は内陸部に移動していたということになります。つまり神武東征が行われても、筑紫倭国はそれとは関係なく存続したということですね。

永山:『日本書紀』では磐余彦は筑紫にいた時に15歳で立太子して、35歳で天皇として東征を開始する宣言をしています。もちろん天皇という称号は当時はなかったので、大王(おほきみ)だったでしょうが。

やすい:もしも磐余彦が筑紫倭国の大王として東遷したのなら、筑紫倭国が畿内まで制圧したことになり、大和政権の成立と西日本の統合が同じことになりますね。とすれば統合倭国の中心は2世紀初頭から大和にあったことになりなりますから、邪馬台国大和説が正しいことになります。

永山:ただし東遷して大和政権を樹立したのは西暦紀元前660年となっていて、まだ畿内では縄文時代ですからあり得ません。それに邇邇藝命の天降りから東遷までの期間が1792470年かかっていると神武が言っているので、あまり実在した人物だと思えませんが。

やすい:それは日本国の歴史が中国に負けないくらい古いことを示すために、日本の建国年を繰り上げ、しかも辛酉年に革命が起こるという伝承に合わせて、辛酉年に神武天皇の建国宣言が行われたことにしたためです。天降りから東遷までの期間が1792470年というのは謎ですが、これ以上待てない気持ちを長い年月で誇張したのかもしれません。とにかくそれらの数字は『日本書紀』の編纂の過程で考えついたものでしょう。

永山:そういういい加減な記述だから、中国ではかなり昔から神武の祖先が太陽神だということを信用せず、「呉の太伯の後」言われていたのでしょう。

2、倭人は呉の太伯の子孫か?

呉の太伯系図やすい:孔子が道が行われないので筏を浮かべて国を去りたいと言ったことがあります。その先がどうも東夷つまり大八洲のことらしいのです。それはどうも父の意を汲んで、弟李歷に父のあとを継がせるために、自らは蛮族をまねて入れ墨をした呉の太伯がいた。その太伯の後裔が彼らが倭国を作ったという伝承があったらしいのです。つまり親孝行の呉の太伯の後裔が作った国だから、道が行なわれ易いと孔子は思っていたのです。

顔の入れ墨永山:7世紀の『翰苑』には邪馬台国では「自ら太伯の後」だと言っていたようですね。ですから記紀編纂した人たちも、太伯の後裔が建国したという中国の史書は読んでいたのに敢て、天照の孫の曾孫という神武説話を記したということですね。

やすい:だから中国の解釈は多分に儒教的な親孝行で兄弟が譲り合う道徳的理想国家のイメージですね。中国国内は乱れて戦乱になりやすいのに対して、海の彼方には理想国家があるというイメージですね。華北平原で権力闘争から抜け出して、南方の呉のあたりで海洋民になり、水運や漁業に携わっていたわけですね。それがよく考えますと倭人の興りですから、倭人が歴史的事実かどうかは別にして呉の太伯の後裔だと名乗っていたのは不思議ではありません。実際日本の国名の一つに「東海姫氏の国」というのがあったそうです。http://scoby.blog.fc2.com/blog-entry-1658.html
平安時代に編纂された『日本紀私記丁本』、これは『日本書紀』の内容に
ついての問答集なんですが、天皇の「なぜ日本のことを東海姫氏国と言うのか」という質問に対し、宝誌という僧が、「日本の皇祖神が天照大御神で女性、神功皇后などの女帝も輩出しているため、『東海姫氏の国』と呼ばれているのでしょう」と答えます。」
ちなみにこのブログの筆者はそうではなく、呉の太伯が姫氏だと言われているのです。

永山:そういえば鹿児島神宮に呉の太伯が祭祀されているという話を聞いて、訪ねたけれどガセネタだったというようなブログ記事がありましたね。ともかく記紀では天照大神の孫である邇邇藝命の後裔ということですね。

3、磐余彦は天照大神の後裔ではなかった。

隋書俀国伝やすい:邪馬台国連合というのは三世紀のことですから、当時は天照大神の嫡流を名乗っていなかったのです。西暦600年に第一回遣隋使がありまして、その時に遣隋使は倭国のことを「天未明出聴政」と説明しています。つまり天と呼ばれた倭王が、夜が明ける前に宮殿に出てきて、天意を伺う政(まつりごと)をするのです。ということは太陽神が主神や大王家の祖先神なら、夜明けか日中あるいは日没に儀礼を行うはずですね。だから六世紀末まで天照大神は主神でも祖先神でもなかったということなのです。だから邇邇藝命が天照大神の孫だということは怪しいわけですね。実は須佐之男命と宇気比をして天忍穂耳命を産んだのは、天照大神ではなくて、月讀命だったわけです。

永山:宇気比で子供が生まれるなんてありえないし、天照大神、月讀命、須佐之男命が宇気比で出産したなんてお伽噺でしょう?

やすい:子供が男か女かで須佐之男命の侵略の意志のなかったことを判断する神判が宇気比です。もちろん物実を取り替えてそれを噛み砕いて吹き出すと子供が生まれるなんてことはありえませんが、儀礼的に相手の物実の一部を粉末にして飲み込んだかもしれませんが、当然聖婚して、子供を産んだわけです。その際に、天照大神の物実が鏡の筈なのに、勾玉になっていて、勾玉を物実にしていた月讀命と差し替えたことが窺えます。

永山:崇神天皇の頃祟りで人民の過半が死んだことがあり、宮中で天照大神と倭大國魂命を祀ったことがあり、その後畿内各地に天照大神がさまよった後に伊勢神宮に祀られたということが記されていますから、天照大神に対する信仰は盛んだったのではないのですか?

やすい:崇神天皇は天照大神か倭大國魂命か、いずれが祟ったのか分からなかったので両方祭祀したのです。その時は大物主神の荒魂である倭大國魂命が祟ったと分かったのです。大物主神と大國主命は一体化していたので、大國主命の祟だと受け止められていました。天照大神も祖先神や主神としてでなく、祟り神として祀られていたのです。それは先王朝は饒速日王国だったのですが、その太陽神の国を建てたのが天照大神だったからです。つまり天照大神はあくまで河内湖の湖畔の草香に宮を建てたわけで、それが日本国の起源です。ですから天照大神が高天原に上げられて、天空の国を支配していたことにされたのは七世紀になってからです。

日本神話に見られる中空構造永山:それで筑紫王朝を建てたのは月讀命だったというわけですね。『古事記』では月讀命は「夜の食国」を治めるように命じられています。ところが『日本書紀』では海原だったり、高天原に上げられて天照大神の補佐をしていたように書かれています。ほとんど活躍については描かれていませんね。河合隼雄という心理学者が、天照大神対須佐之男命という両極対立を軸に記紀神話の世界が展開されるけれど、月讀命がほとんど活躍しないけれど、対立の中に入って緩衝の役割を果たして調和をもたらしているとしています。三兄弟の内の二人目が中空になって安定的な構造になっているので、中空構造と呼んでいます。

やすい:それは実は結果論なのです。七世紀になってから、はじめから天照大神が主神で大王家の祖先神であったかに改変してしまったのです。それで実は月讀命こそ須佐之男命と宇気比をして天忍穂耳命を産んだので、大王家の祖先神だったのに、主神を天之御中主神から天照大神に、大王家の祖先神も月讀命から天照大神に差し替えてしまったのです。

□河合隼雄は、天之御中主神も中空構造の例に出していますが、高海原(4世紀末までは高天原は高海原と呼ばれた)を仕切っていたのは造化三神で、天之御中主神が中心でした。7世紀になって高海原は天空にあったことにされ、高天原と呼ばれるようになったのです。そして7世紀になって、造化三神はすぐに隠れたことにされ、天照大神は誕生してまもなく高天原にあげられ、その主神に成っていたことに話を改変したのです。

永山:もしやすい仮説があたっていたら、記紀の皇国史観からいえば、神武天皇の権威はひとえに天照大神の正嫡であるところにあったわけですから、神武天皇および皇室の支配の正当性は一挙に瓦解しますね。

やすい:そんな事を言ったら、神武天皇架空説の人に笑われますよ。そもそも神武天皇などいなかったというより、神武天皇のご先祖がだれであれ、東征した倭人集団が存在したという方が武力制圧したことによる支配の正当性があることになりますから。それに高海原の支援を得るにはそれなりの大義名分は別にあったと考えられます。

4、神武東征の本当の大義名分

永山:もし天照大神の嫡流が大八洲の統合支配権があるというのが当時の高海原の総意だったとしたら、やすい説では神武は月讀命の血統で、饒速日が天照大神の血統なのだから、饒速日命にこそ大八洲統合支配権があったことになりますから、神武東征は高海原に対する反逆になってしまいます。

宇摩志麻遅命やすい:ところが実際は、天照大神は高海原にはいなかった。それで神武東征の大義名分は、饒速日王国を懲罰することにあったと思われます。それは出雲帝国を武御雷神を指揮者にする奇襲軍が襲って倒したのですが、斃された大國主命は晩年平和で豊かな国造りに邁進していたので人民に慕われていたのです。だから大國主命に父饒速日一世を殺された宇摩志麻治命(画像)は、饒速日王国を再建するにあたって、評判の悪い武御雷神たち高海原や筑紫倭国の勢力を後ろ盾にするわけにはいかず、むしろ父の仇である出雲帝国の残党を糾合して武御雷奇襲軍を撃退する道を選択したのです。

永山:親の仇をとってもらったのに、恩を仇で返したということで、再建された饒速日王国を高海原は敵視していたということですね。それで一世紀後だけれど神武東征軍を高海原が支援したという解釈ですね。しかしその理屈でいくには饒速日王国が存在したという実証が必要ですし、大國主命が畿内に侵攻して饒速日一世を倒したということも証明しないと説得力がありません。だって『播磨国風土記』では饒速日神である火明神は大國主命の息子となっています。だから元々、大國主命は大和の三輪山出身で、出雲にでかけて色々苦労して、須世理姫に見初められ、出雲を制圧し、大八洲統合に乗り出した。大和にはあくまでも凱旋だという解釈も成り立ちますね。

やすい:果たしてどちらの説明に説得力があるかですね。つまり科学的に実証できない領域ですから、ただ、言えることは三貴神がイザナギ・イザナミが文明をもたらした大八洲に国造りをした建国神というのが元々の神話だったと考えられます。それを大和政権が天照大神を主神・皇祖神にして書き直したのが記紀神話です。とすると元々は天照大神は河内湖畔の草香に宮を立て建国して、その宮を天照大神二世が三輪山に遷し、饒速日一世が継承したという説明が、太陽神つながりなので、もっとも自然です。饒速日命が大國主命の息子というのは、大國主命と三輪山の神である大物主神が一体化したことによります。饒速日神は三輪山から昇る太陽の神ですから、三輪山の息子というイメージを抱かれたのかもしれません。大國主命が大物主命と一体化したのは、大國主命が饒速日一世を殺してからの話ですね。

永山:えらくややこしいですね。大國主命が饒速日命を殺してから、饒速日命は大國主命の息子になったという話ですか?

やすい:だから歴史的にはそういうことはあり得ません。ただし神話としては饒速日命は一代限りではありませんから、三輪山から昇る太陽でもあり続けます。つまり大物主神の息子のイメージを持たれ続けます。大國主命も国譲りで亡くなった後も、大物主命と一体の神として信仰され続けるわけです。なぜなら饒速日王国の再建は出雲帝国の残党の力を糾合して成し遂げられたので、三輪山の神大物主命と大國主命を切り離すことはできなかったからです。

永山:要するに歴史上の人物としての大國主命は一人だけだけれど、出雲大社に祀られ、霊界の支配者して、神無月には神々は出雲詣でをしますね。そういう形で今でも信仰の上では、神々の上に君臨している存在でもあるわけですね。だから歴史上の人物としては饒速日大王一世は、あくまでも天照大神の孫であり、大國主命の畿内侵攻で斃されたと認識すべきだということですね。しかし饒速日神は高天原から天降りしたことに記紀ではなっているわけですが、それはファンタジーとしてあり得ないとしても、饒速日神が磐余彦の一世紀以上前に東征したという解釈は成り立ちませんか?

やすい:4世紀に大和政権が西日本を統合し、7世紀はじめには天照大神をはじめから主神・皇祖神だったことにする神道改革がなされたわけです。その結果「御宇の珍子」として大八洲に建国する神だった三貴神像は改変されて、天照大神は高天原に上げられて、その嫡流が大八洲を統合支配するという形に改変されたのです。

永山:元々の説話では三貴神が三倭国を建て、それを高海原と呼ばれた伽倻が宗主国としてコントロールする、その際に海原つまり対馬・壱岐に倭人通商圏結ぶ水運を担当させたということですね。そして大八洲の三倭国は分立したままにしておかないと、統合して大八洲に倭人の強盛大国ができたら、海原も高海原もその出先機関として吸収されてしまうと考えていたということでしょう。

やすい:それが了解できれば、磐余彦東征は、武御雷神率いる奇襲軍を饒速日一世の遺児宇摩志麻治命が出雲帝国残党を糾合して撃退したことに対する懲罰軍だったということになります。高御産巣日神は磐余彦たちを支援していますが、その際武御雷神は自分の代わりに熊野の高倉下(たかくらじ)に佐土布都神という名の刀を倉に落として、それを磐余彦に献上させます。

高倉下永山:高倉下(画像)は饒速日神の子天香語山命の子ということなのですが、それが高天原、やすい仮説では高海原と通じていて、饒速日王国を裏切っていますね。

やすい:おそらく天香語山命は尾張連の祖ということですね。ともかく饒速日一世の仇を討ったという点を考えると、武御雷奇襲軍を撃退してしまうというのは天香語山命にすれば納得できなかったのでしょうね。しかし既に一世紀経っていますから、その懲罰を口実に東征してきた磐余彦一族に高倉下(たかくらじ)が協力するというのは、それこそ裏切りのような気もしますね。

永山:しかしそういう説話が実話か後世の創作か、見定める方法がありませんね。饒速日一世に対する仇を武御雷命がとってくれたのに、親の仇とつるんで恩人を撃退したとして、神武懲罰軍に味方したという話は、いかにも歴史物語としてありそうで、創作の匂いがプンプンしますよ。

武御雷神やすい:それは微妙ですね。武御雷神というのはいわば電光石火の奇襲作戦で敵を一気にやっつけそうだから、国譲り説話で大國主命の国譲りを迫っているところでも、剣先に座って国譲りをせまっています。そこから実際には奇襲で大國主命をやっつけたと解釈してしまいますが、記紀では奇襲作戦には全く触れていません。また大國主命は出雲帝国形成の過程で当然、畿内に攻め込み、三輪山の饒速日神を襲ったはずですが、記紀にはその場面が書かれていません。表向きは大國主命が饒速日一世を殺したことにはなっていないわけです。

永山:それは大國主命が荒魂である倭大國魂命になって祟り、人口の過半が死んだので、祟が怖くて書けないだけの話で、暗黙の了解でしょう。

やすい:だから大國主命が饒速日一世を殺したとか、武御雷神が大國主命を奇襲したとかはなかったことにされているので、わざわざそれがあったことを前提にして高倉下の裏切りの話を創作するのは不自然なのです。逆に言えば大國主命が饒速日一世を殺したとか、武御雷神が大國主命を奇襲したとかが史実だったとしたら、高倉下の高海原との内通や饒速日王国への裏切りもすごくリアリティがあるわけですね。それも史実だと考えられるということです。

国譲り永山:要するに神武天皇東征が創作だとしたら、その歴史的背景のために饒速日王国があったとし、また饒速日王国を一時期滅亡させていた出雲帝国があったことにされた。ところで神武天皇東征が架空だったとしたら、それによって倒された饒速日王国はなかったことになるのですか?記紀では饒速日神は磐余彦大王に臣従して、物部氏の族長になっていますね。

やすい:物部氏の本家は物部守屋に連なってくるわけで、物部氏が饒速日神を祖先神として祀っていることは確かです。である以上、かつては饒速日王国があったことは、何かよほどの根拠がない限り、否定すべきではないでしょう。

永山:饒速日王国がなくなって大和政権ができているということは、磐余彦東征があったことの証拠ではないのですか?

やすい:ただ科学的に饒速日王国の遺跡とか遺物が明確にされているわけではありませんから、説話として饒速日王国があって、それが大和政権を樹立した勢力によって倒されたらしいというのは了解できるということです。あくまで説話的に言えることであって、その説話が実際の歴史の忠実な反映かどうかは断定できません。

5、神武東征はフィクションなのか?

永山:それはそうですが、津田左右吉は東征して大和政権が建国されたということは根拠がなくて、初期国家はその地域の豪族たちがまとまってできたもので、次第に大和の豪族連合政権が勢力を西に伸ばして西日本を統合していった。だから三世紀半ばの段階では、筑紫までは支配できなかったので、邪馬台国連合は筑紫の豪族連合国家だと説明しています。

やすい:遠山美都男さんも神武天皇の東征は、太陽神信仰なので日の出の方向に進んでいって、難波・大和に建国したことにお話としてしただけで、実際の歴史とは関係ないと主張されています。

永山:筑紫の勢力が東征して建国した可能性は否定できませんね。もっとも河内・大和の豪族たちが次第に連合国家を形成したことも想定できます。

やすい:初期国家の形成と言う場合、倭人は海洋民で、交易によって河内・大和の先住民に文明をもたらし、農耕や土木、水産・水運などの産業や文化を浸透させるための国家ですから、文明の格差を利用して現人神という宗教的権威で君臨する国家ができたと考えられます。津田左右吉のいうように、自然に農耕共同体の発展によって、豪族たちの連合国家ができていったという形ではないでしょう。

永山:先ず、倭人が外来の海洋民だったこと。記紀神話にあるように先に高天原、やすい仮説では伽倻の高海原が出来、そこから海原つまり対馬・壱岐を橋頭堡にして大八洲に進出したということになれば、先に筑紫が開け、そこから新天地を求めて東進してくる集団がいたというのは説得力がありますね。

やすい:そうなんです。結局伽倻に倭人通商圏の宗主国があり、対馬・壱岐を拠点にする水運が倭人通商圏を結んでいたということを重視すれば、磐余彦東征もただのお話ではなく、歴史説話として現実味があるわけです。しかしそのことは遺跡や遺物から実証できるわけではないので、実証史学、戦後史学からはシカトされてきたわけです。

永山:遺跡や遺物から実証出来ない以上、歴史学がシカトするのはある意味当然ではないのですか。

やすい:しかし記紀説話があって、そこからは矛盾点を精査していけば、高天原は高海原で伽倻であったことや、海原が対馬・壱岐だったことなどはかなりリアルに感じられますね。それを踏まえて歴史を論じないと、個々の歴史家が自分の手にした遺物や遺跡や史料から自分の感性に赴くままに歴史像を形成して、収拾がつかなくなってしまいます。

永山:その言い方は、ちょっと危険じゃないですか?記紀神話が天皇家や藤原氏の都合で改変され、捏造されたものであるという基本認識に立てば、それをベースに考えろというのは皇国史観・神話史観に陥ることになってしまいます。

やすい:私も還暦の頃まで今から14年ぐらい前まではそういう発想でしたね。ほら、学生時代に建国記念日制定の動きがありまして、神話に基づく建国記念日はけしからんと反対していたのです。今でも神武天皇の大和政権樹立を建国記念日にするのは反対ですが、それは記紀に基づくから反対ではなくて、神武天皇が建てたのは日本国ではないからです。

永山:一応神武天皇から万世一系に現代の皇室につながっている建前になっていますが、どこかでまぎれているからですか?

神武天皇東征之図やすい:そういう捉え方こそ天皇の国として日本を捉える皇国史観ですね。天皇が天皇と呼ばれていたのは極短期間だし、天皇の存在すら一般の人民には知られていなかった。「日本国」は「ひのもとのくに」であり、太陽神を崇める国というのが元々の意味です。磐余彦は月讀命を大王家の祖先神にする筑紫からやってきて、天之御中主神を主神とし、月讀命を大王家の祖先神とする祭祀の国家を樹立したので、「日本国」ではなかったわけです。大和政権が太陽神信仰を中心にする「日本国」になったのは七世紀の初頭、聖徳太子の摂政期なのです。

永山:そういうことと神武東征が虚構か史実かは無関係じゃないのですか?神武天皇というのは皇室の支配が中国の周王朝に匹敵するぐらい古いことにするために記紀編纂にあたって作り上げた虚構という面があるわけですから。それに欠史八代と言って、二代から九代はほとんど事蹟の記述がないので、架空の大王を設定して神武紀元が紀元前660年になるようにしたわけでしょう。だからハツクニシラススメラミコトという称号が同じである神武天皇と崇神天皇は同一人物だという解釈が有力です。

日本の歴史 1 神話から歴史へ 中公文庫やすい:井上光貞『神話から歴史へ』(『日本の歴史』1)、直木孝次郎『日本神話と古代国家』で展開された二人の「ハツクニシラススメラミコト」説ですね。神武天皇は「始馭天下之天皇」と書いて「ハツクニシラススメラミコト」と読みます。それに対して崇神天皇は「御肇国天皇」と書いて「ハツクニシラススメラミコト」と読むのです。古田武彦先生は「始馭天下之天皇」と書いて「ハツクニシラススメラミコト」と読めるかどうか怪しいから、同じ意味とか、同じ称号とは言えないという見解のようです。

6、磐余彦の実在は納得させられるか?

やすい:先ず紀元前660年の神武東征はあり得ません。当時は河内・大和は縄文時代でしたから、饒速日王国などなかったはずですね。ところで崇神天皇は10代で応神天皇は15代その間約120年ほどとして一代20年としますと崇神天皇は3世紀末から4世紀初頭ですから、2世紀初頭が初代と考えられます。2世紀初頭に磐余彦一族の東征があったとしたら、欠史8代も架空としなくても済みますね。やたら寿命が長いのは神武建国を前660年にするための苦肉の策で、これは無視すべきです。

神武東征図3永山:神武東征に要した日数が『古事記』では16年もかかっていますが、『日本書紀』では3年しかかかっていません。どうしてこんなに差がついたのでしょう。

やすい:その問題は、磐余彦一族が筑紫倭国の一豪族にすぎなかったか、それとも筑紫倭国の王族であり、筑紫倭国全体の東遷だったかという問題に関わっています。もし筑紫倭国の軍の大部分が東遷たのだったら16年にかかったら食糧補給とか無理ですね。それで『古事記』に16年かかったことに成っているのは不自然だということで、『日本書紀』では3年に短縮したのでしょう。『日本書紀』で磐余彦は15歳で立太子し、大王として東征したことになっています。

永山:ところがやすい仮説では磐余彦は邇邇藝命の一夜妻の子の孫だから大王になれたはずはないとして、地方豪族だったということなので、一地方豪族が実力を蓄えて、饒速日王国に戦いを挑むには、途中の各地を征服し、そこで兵力を増強しながらなので、16年かかっても不思議はないわけですね。

やすい:もし磐余彦一族が虚構だとしたら、記紀は皇室の支配の正当性を納得させるために編纂されたものですから、わざわざ邇邇藝命の一夜妻の子の孫という設定にする筈がありませんね。邇邇藝命⇨火遠理命⇨鵜草葺不合命⇨磐余彦命の流れが嫡流であることを疑われるような設定にする必要がありません。一夜妻の子の孫という伝承が広く知られていたので、消去出来なかったと捉えるべきです。

豊玉姫永山:邇邇藝命から磐余彦に至る一族の説話は、燃える産屋で無事出産したこともオカルト的な能力を示していますし、火遠理命が海神の宮にいってそこで豊玉姫(画像)と結ばれ、鵜草葺不合命を生みますが、豊玉姫は八尋和邇(やひろわに)である正体を見られて海に戻ります。このように異種婚の話を入れて山の神や海の神の力を手に入れて神的な威力をつけていくということで、いかにも大八洲を統合する王者の血統に相応しいように説話を創作してあるのですから、一夜妻の子ということだけ取り上げて実在説の論拠にするのは説得力がないでしょう。

やすい:永山さん、それは読み方が間違っています。基本は、血統が怪しいところをそういうオカルトや海神との血縁などの話で繕っているのです。
□当時は盟神探湯(くがたち)というのがありまして、訴えが真実かどうか熱湯に手をいれても火傷しなかったら認めるという審判がありました。燃える産屋で子を産んでも無事というのはその一種ですね。木之花咲耶姫の方から申し出てそうしたのですから、何か火遁の術のようなものを大山祇神の一族の協力でやったのかもしれませんね。
□あるいは死ぬ覚悟で認知しないのなら燃え屋で子を生むと脅したのかもしれません。邇邇藝命は認知はするけれど、王子として王位継承権は認めないことにしたとも考えられます。
産屋炎上2□火遠理命が海神と縁を結ぶのは、海原勢力と結びついて神武東征の背景を作っているわけです。豊玉姫が産後のひだちが悪く死んでしまったので、妹の玉依姫が子育てをしたのかもしれませんね。もちろん正体が八尋和邇だったというのは創作ですよ。神話として脚色しているので、あり得ない話も織り込まれていますが、だからといってその登場人物が架空と決めつけなくても良いのです。

永山:磐余彦は架空だけれど、わざと一夜妻の子の孫という設定にしたとは考えられませんか?つまりまさか虚構だったら一夜妻の子の孫にはしないだろうと聞き手や読者は思うだろうから、一夜妻の子の孫だということにしたら実在は疑えないということで、万世一系を疑われるような設定にあえてしたかも知れませんよ。

やすい:それはないでしょう。作者としては高等戦術でわざと疑われる設定にしたとしても、天皇家の血統を疑わせるような記述になってしまっているわけですから、伝承通りだったらともかく、虚構でそうしたとなったら、皇室を貶める意図があったとみなされて責任を追求されることになったでしょう。いやこれは高等戦術ですと言い訳しても、通る筈がありません。

永山:やすい先生の「歴史知」という方法ですね。たとえ他にそれを裏付けるような文献や考古学的遺物がなくても、その文献記事の内容からして虚構ではあり得ないような場合もあれば、科学的に確かだとは言えなくても、歴史的事実だと信憑してもいい場合があるということですね。その方法でイエス・キリストの実在も論証されています。

やすい:ええ、イエスは悪霊払いのパフォーマンスをしていたのですが、あまりに見事にするものだから、ファリサイ派はそれをインチキだとは言えなくなったのです。それでイエスが悪霊払いができるのは実は悪霊の親玉ベルゼブルに取り憑かれているからだというように断定して、中傷してきたのです。そのデマ宣伝に惑わされた母マリアと弟ヤコブはイエスを教団に引き取りにきたのです。それで実の子や兄よりも、宗敵のデマを信じるような者は、母でもなければ、弟でもない、真の母や弟は私の言葉を信じ、行うあなた達であると信徒に話したのです。この話は、福音書にありますが嘘ではあり得ませんね。福音書は教団が作成したものですから、聖母マリアや教団の最高指導者になった弟ヤコブをイエスが親でもないし弟でもないと言った話など嘘では作れません。だからイエスや母マリアや弟ヤコブが存在したし、悪霊払いのパフォーマンスもイエスがしていたらしいことも信憑できるわけです。

7、神武東征は二世紀初頭か三世紀末か?

浪速の渡り永山:古田武彦先生は、神武東征が歴史的事実だということは河内湖に入って、草香で戦ったことになっていることから言えると断言されましたね。つまり神武東征の当時では河内湖には船で大阪湾からは浪速の渡りから入れたのだけど、神武東征の説話を作った七世紀末には入れなかったので、昔の事情を知らないと書けないから史実だとされていましたね。

やすい:6-7世紀の地図をみますと、狭い水路はありますが、果たして軍船が通れたか分かりませんが、古田先生の判断では、とても軍船は通れないということでしょうね。

6-7世紀の河内湖

永山:神武天皇と崇神天皇が同一だとすると四世紀はじめの浪速の渡りはどうだったのかが気になりますが、そこまでは分かりませんね。

やすい:五世紀に仁徳天皇の時期に難波の堀江が作られますが、それは浪速の渡りが狭い水路しかないので交通の便が不便ということもあったでしょうが、それよりも河内湖の水を増水期に外に流さないと洪水がひどかったからでしょうね。

永山:虚構か史実か問題にする場合、神武東征の時期が問題になりますが、記紀の紀元前660年は却下として、15代応神、10代崇神天皇を基準に初代神武天皇二世紀初頭というのが一つの有力仮説です。もう一つは神武=崇神で三世紀末から四世紀初頭とする説です。

やすい:神武天皇は東征王で天下を統合したというニュアンスを強調しているのです。記紀は神武天皇の段階で西日本は統合されたという立場ですからね。崇神天皇は祟りと混乱を収めた治世王です。初めてきちんとした制度を整えて支配したというニュアンスでしょう。記紀での性格づけは違うわけですね。

永山:神武=崇神説だと、本当は同一人物だけれど二人にわけたので、神武には東征王、崇神には治世王ということにしただけで、本当は三世紀末に崇神天皇が東征して、饒速日王国を打倒して大和政権を樹立したということになりますね。それで倭大國魂命が祟ったというのは、出雲の勢力が粘り強く抵抗したのではないでしょうか。崇神天皇が宮に天照大神と倭大國魂命を祀ったというのも、饒速日命四世が大和政権に基準後も徹底抗戦派が天照大神信仰で団結しようとしたり、出雲勢力が粘り強く抵抗したのでこの二神を祀ったということで説明できますね。

やすい:なるほど、それでは三世紀の河内・大和は饒速日王国だったということになり、箸墓古墳を中心にする遺跡は饒速日王国の遺跡だったことになりますね。邪馬台国大和説に立てば、邪馬台国連合は饒速日王国になり、卑弥呼は饒速日大王だったことになりますが、出雲帝国の侵攻が三世紀初めにあったことになるので、卑弥呼が三世紀半ばに亡くなっているから、邪馬台国大和説は成り立ちません。

永山:やすい先生も邪馬台国筑紫説でしょう。別に卑弥呼は登場しなくてもいいです。

やすい:とすると大和は三世紀は饒速日王国だったのが、四世紀に大和政権に変わったことになりますが、三世紀中頃から前方後円墳がはじまって四世紀、五世紀と続いています。ということは大和政権は饒速日王国の墓制を引き継いだということになりますね。

永山:それは全く不思議はありません。同じ倭人ですから前方後円墳がかっこいいということで継承したのでしょう。それより欠史8代をなかったことにした方が二世紀遅らせることができますから、神武東征を西暦300年頃にすると、出雲帝国の畿内侵攻は西暦200年頃になり、三貴神の三倭国形成を西暦100年代前半に持ってこれます。やすい仮説だと三貴神の三倭国形成が紀元前になってしまうので、まだ大八洲はそれほど拓けていなかったのではと思いますね。

やすい:いや、それがそうでもなくて、紀元前一世紀に既に河内湖畔の集落は発達していたらしいです。もっともそれは現在の草香遺跡のあたりではなかったようですが。草香というのは「草を刈る」に由来していて、蘆などを刈って、船着き場にしたということです。だから台風などで氾濫が起きると、船着き場にするのに適した場所も変化しますから、天照大神が宮を建てたのはかなり離れた場所だった可能性もありますね。そもそも倭人が太伯の後裔として、拠点を朝鮮半島の南端部に遷したのは、戦国末から秦(前221~前206年)の時代なので、そこから海原(対馬・壱岐)を橋頭堡にして大八洲に文明をもたらしたのが前100年前後で三貴神の三倭国形成が前一世紀前半と想定すれば、饒速日一世が三輪山に君臨していて、そこを出雲帝国軍が攻略したのは前25年頃でいいわけです。

永山:なるほどその計算でいけば、磐余彦東征で大和政権ができたのが紀元後二世紀初頭になりますね。それで「神武天皇=崇神天皇」説は採用しなくていいということですね。それでは欠史八代の事蹟がほとんどないというのはどう說明するのですか?

やすい:それは磐余彦大王のように建国という大事業をした場合は、波乱万丈のお話が残りますが、それ以降の伝承は取り立てて目立ったことがないと語部の話が伝わらなく成って、名前しか残らなかったのではないかと受け止めています。

永山:確か騎馬民族征服王朝説で有名な江上波夫さんが崇神天皇の「御真城入彦(ミマキイリヒコ)」という名前から任那の城に入って任那の実権を握り、大八洲に渡って東征したのではないかという解釈をしていましたね。

やすい:それは崇神天皇が東征王だったことを前提にした時に、ミマキから任那城を連想するので、単なる思いつきです。当時は豪族連合的性格が強く、物部氏らの土着豪族、磐余彦大王が率いてきた筑紫勢力、出雲帝国の残党が定着していた出雲系豪族などが連合していたわけです。それら利害関係は複雑だったでしょうが、大和政権は大王の下に「八紘為宇(はっこうをいえとなす)」ということで家族的にまとめようという理念ですね。もっともその理念は記紀編纂の段階で理屈づけをしたのでしょうが。だから時期によっては出雲系が冷遇されたりして、それに対して反発が強く、飢饉や疫病などが起きると出雲系を冷遇して、大物主神を祀らないせいだとか言われたのではないでしょうか?

永山:では神武東征が虚構だったとする根拠として、磐余彦の兄五瀬命は浪速国の白肩津(あるいは孔舎衛坂(くさえざか))で交戦中に長髄彦の放った矢に当たりました。そこで「吾は日神の御子たるに、日に向かって戦うのは良くなかった。それで賤しい奴の痛手を負ってしまった。今よりは回り込んで行って、日を背に向けて戦おう」と言っていますね。しかしやすい仮説では磐余彦一族は月讀命の子孫ですからこの台詞はあり得ません、だから創作ですね。

やすい:創作というより改変です。自分たちは日神の御子ではなくて、相手が日神の御子なのです。ですから「吾者日神之御子、向日而戰不良」ではなくて元の伝承は「敵者日神之御子、向日而戰不良」だったのですが、七世紀になって磐余彦一族は天照大神の嫡流だったことにされたので、「敵」を「吾」に変えたということです。ですから孔舎衛坂の戦いは磐余彦の時代から伝承されていたということです。日に向かって戰うのが良くないのは、日の神の御子に限りません。相手が太陽神の御子なので鏡を使った作戦などで眩しいのでしょう。それで正面から攻めたらまずいので背後を突こうということです。

「磐余彦の系図」の画像検索結果永山:磐余彦は末の弟なのに『日本書紀』では15歳で立太子し、大王になってから兄たちを率いて東征しています。その長兄五瀬命は弓矢の傷が癒えずに亡くなり、次兄稲飯命と三兄三毛入野命は、船が遭難して、行方不明になったのです。磐余彦だけが生き残っていますが、結果生き残ったから最初から跡取りだったことにしたのでしょうか、なにか不自然で話が信用できませんね。

やすい:上古では末子相続は珍しくありません。ただ磐余彦の場合は彼だけが生き残ったので、最初から跡取りだったことにしたのかもしれません。

永山:それで兄たちを失ったので、「うちてしやまむ」ということで、「八紘為宇」に取り込めないものは徹底的に殲滅するということですね。この2つのスローガンは古代帝国が律令国家として完成するにあたっての七世紀末の国家理念であって、磐余彦東征ではまだできていなかったのではないでしょうか?といいますのは、やすい仮説では筑紫倭国の一豪族が筑紫では大王に成れないので、高海原の支援を受けて饒速日王国を打倒して、大和政権を建国したわけですから、地方政権に過ぎなかったわけで、大八洲全体を視野においたようなスローガンはまだできなかったでしょう。

やすい:記紀は歴史物語ですから、編纂にあたって、肇国の精神をはっきりさせるという意味では、記紀編纂の中でスローガンづくりがなされた可能性が高いですね。しかしそれは磐余彦当説話の中にその精神を見出したからできたわけです。一豪族が16年ががりで戦備を整えながら難波に到達したとはいえ、饒速日王国を簡単に倒せるわけはありません。豪族の跡目争いを利用して、分断したり、宇陀では地元の人々に御馳走を饗応すると見せかけて一気に虐殺するなどしています。

永山:饒速日王国側は、登美彦や長髄彦は徹底抗戦派だったようですが、饒速日大王は、長髄彦を殺して臣従することを選んでいますね。梅原猛先生は饒速日神は高天原から来た他所者だから、物部氏に担ぎ上げられていたけれど、どっちに付くか迫られたら結局高天原の側について地元を裏切ったとしていますね。

やすい:梅原先生は三貴神による三倭国形成という発想がないので、饒速日神を他所者扱いするのです。元々天照大神一世が草香に宮を建て、二世はそれを三輪山に遷した。饒速日は草香か三輪山で生まれたのです。それで形勢に分がなくて、三輪山の太陽神信仰を守るために、磐余彦大王に臣従したということです。

永山:何故、いったん敗退した東征軍が、どのようにして紀州迂回作戦で勢いを盛り返し、勝利したのか、今となってはそれが歴史的事実だったかどうかも含めてよく分かりませんね。高倉下の剣は半島から最新の剣をもった軍団の加勢があったことを象徴しているのかもしれませんね。ともかく磐余彦は高御産巣日神のお陰で勝てたと思っている節があるので、やはり饒速日神は高海原と事を構えたくない気持ちが強かったのかもしれません。

やすい:神武東征虚構説だと、記紀の編纂目的が天照大神の嫡流である天皇家の支配の合理化のはずですから、天照大神よりも高御産巣日神が磐余彦一族支援で目立つように創作するのはあり得ないのじゃないでしょうか?ということは磐余彦東征の話は七世紀末に創作された虚構ではなく、古くからの伝承だったといえるでしょう。

永山:『古事記』では神武天皇の項では、高倉下の夢で高木神(高御産巣日神)とともに命令伝えた場面で天照大神は一度だけしかでてきません。『日本書紀』で同じ場面ですが、武甕槌命に援軍にいかせようとしたら、武甕槌命は剣だけでいいと高倉下に剣を降したり、八咫烏を派遣して道案内させるなど天照大神自身が命令しています。やすい仮説では天照大神は高天原にいなかったのだから、この話はありえませんから、神武東征虚構説の根拠になりませんか?

やすい:『古事記』では高木神と共に命令しているわけです。ところが『日本書紀』ではこの場面で高木神は登場しません。天照大神は河内湖畔に草香宮を建てたという私の仮説でいくと、天岩戸で出てきたのは天照大神二世で三輪山に宮を遷しました。二世の子が饒速日一世ですね。おそらく饒速日四世か五世が磐余彦大王に臣従したわけです。その間高海原は高御産巣日神が実権を握っていて、磐余彦の東征を支援したわけです。だから『古事記』は高木神に天照大神を付け足す形で改変し、『日本書紀』は天照大神主体に改変してしまったのです。

第五講, 邪馬台国と卑弥呼の謎-論争から見えるもの
https://mzprometheus.wordpress.com/2019/11/14/nks5yamataikoku/