『人間とは何かー古今東西から学ぶ」

毎日文化センター連続講座 『人間とは何かー古今東西から学ぶ」


1、アダムとエバの人間論

連続講座「人間とは何か―古今東西から学ぶ」第一講 アダムとエバの人間論

第二講、ギリシア人の主知主義的人間観

1、グノーティセァウトン(汝自身を知れ)

この問に常にかえりて苦悩するその営みが哲学なりや 

グノーティセァウトン榊周次:ギリシアのペロソネソス半島の真ん中のちょうど臍にあたるところに、有名な神殿があったのを知っていますか?

上村陽一:デルフォイのアポロン神殿ですね。ギリシア中の人々が信仰していて、運命を司る陽光の神アポロンに運勢を占ってもらっていたのでしょう。
グノーティセァウトン(汝自身を知れ)とギリシャ文字で刻まれたレリーフ

榊周次:そこの門には有名な言葉が書かれた額がかけてあったでしょう。

三輪智子:「汝自身を知れ」でしょう。法政大の多摩キャンパスにもレリーフがあります。

やすい:この言葉はいったい誰の言葉でしょう。

陽一:ソクラテスがこれを見て、自然哲学から魂の徳について考えるようになったという話しですね、それを「魂への配慮」というのでしょう。

智子:ということは、ソクラテスはこの額を見たわけだから、ソクラテス以前からこの額はあったのでしょう。というとソクラテス以前の誰でしょう。アポロン神殿だからもしかしてアポロンの神だったりして。

榊:アポロンの神だったら、「汝自身を知れ」はどのような意味になりますか?

陽一:人間たちは神々の世話になっているのだから、もっと供物を差し出しなさいという言うような意味ですか?(笑い)それは冗談だけど、神ではなく人間なのだから、何でも出来るわけではない、それぞれ自分の使命を自覚し、分を弁えて暮らしなさいというような意味だったのですね、元々は。

智子:神が人間に「汝自身を知れ」というのだから、これは当然「人間とは何かを知れ」という意味ですね。

2,死すべきモイラ(運命)の人間

死すべきは人の運命(さだめ)か、予め決意してこそ真に生くると

榊周次:後で扱いますが、ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』などはそういう解釈です。ただギリシア人の神観念から考えますと、理解しやすくなります。彼らは必ず神の前に、「不死なる」をつけて呼びました。「不死なる神々」というように、それに対して人間は「死すべきモイラ(運命)の人間」と呼びます。

上村陽一:じゃあ死すべき運命にあることを良く弁えて、いつ死んでも納得できるように一日一日を大切に生きなさいという意味ですね。

やすい:「死に向かう存在」ですね。つまり「有限性」を自覚しなさいということです。もし人間が不死だとわかっていたら、どうするでしょう。生産をするでしょうか。学問するでしょうか。飯を食うでしょうか、恋をするでしょうか。時間はたっぷりあるのだから、全部面倒なことは明日に回してしまいます。結局生きることすら面倒になるでしょう。そのうち死が必ず訪れるから、人生がいとおしくなり、生きた証、生命の充実が欲しくなり、一日でも長く生きようとして、個人的にも社会的にもさまざまな生きる営みをするのです。
 つまり予め死を覚悟しているからこそ、真に生きることができるのです。ハイデッガーはこれを「死の先駆的決意性」と呼びました。

三輪智子:でも死ぬことばかり考えていたら、落ち込んでしまいますよ。

陽一:だから人は死を忘れようとして、いろいろ気晴らしをするわけですが、そこから文化が生まれたという面もありますね。

やすい:それは死を忘れようとしているわけで、やはり死を潜在的にしろ意識してこそなのです。しかし気晴らしから生まれた文化は、本質をそらしているために本当の感動は生まないのじゃないでしょうか。自己の有限性を見つめて、精一杯充実させて生きようとする中で、魂をゆさぶるような、心洗われるようなすばらしいものが生まれると思います。

3、水がアルケー(根源物質)

本来が命の水のドリッピー、コスモスめぐり自らを知る

三輪智子:ところで「汝自身を知れ」は、本当はだれが考え出した言葉なのですか。

榊周次:確かなことは分かりませんが、最初の哲学者であり、水がアルケー(根源物質)だといったタレスの言葉だと思われていたようです。

上村陽一:それはちょっと意外です。だってタレスは世界を水から生じ、水に帰るものとして考えたのでしょう。そういう自然への問から人間への問に転回したときに「汝自身を知れ」という言葉が生まれたのではないのですか。

榊:それはミレトス学派のアルケー論に対する誤解に基づいています。彼らはコスモスを生きた全体として捉えていました。コスモスには様々な物質がありますが、それは根源的な一つの物質である生命の現われだと考えていたのです。その生命の元の姿がアルケーなのです。この生命と魂は、両方ともプシュケーと呼ばれ、区別されていなかったのです。ですからアルケーへの問は同時にプシュケーへの問でもあるのです。

智子:それじゃあタレスは魂を水だと考え、アナクシメネスは空気だと、ヘラクレイトスは火だと考えたのですね。自らの魂の本来の姿に戻るということで、生命自体は不滅だということになっていたのですか。

ドリッピー榊:ええ、ですから、アルケー論自体が「魂への配慮」なのです。個体的な姿で現れた自己から根源的な生命への還帰として捉えられているわけです。ですから個体的な魂から本来の自己である根源的な生命に目覚めることが、本来の自分を知るという意味で「汝自身を知れ」に応答することになるのです。

陽一:それでシドニー・シェルダンの英語教材の童話『ドリッピー』が分かったような気がします。シェルダンは現代のタレスですね。結局我々人間も水滴小僧なんですね。

4,戒められたプロメテウス

火と智恵を盗みし神よプロメテウス岩に縛られ内臓抉らる

榊周次:ところで人間とは何かを検討するうえで、ギリシア神話のプロメテウス説話を先ず紹介しておく必要があります。

三輪智子:ヘシオドスの『神統記』で活躍しました。プロメテウスはpro + metheus で「先に考える」という意味から来ているのでしょう。それで人間の想像力や構想力を司る神ということですね。

榊:プロメテウスは神なのですが、人間の思考の神ですから、神々よりも人間の方に関心があるのです。それで生贄の取り分について、人間と神々にどう配分するか神々にプロメテウスは決めるように任されました。それで人間の方に思い入れが強いプロメテウスは美味しい肉をまずそうな胃袋や皮に包み、食べられない骨を美味しそうな脂肪にくるんで神々に選ばせました。主神ゼウスはプロメテウスの浅智恵を見抜いていましたが、騙されたふりをして骨をとり、中身が見えたときに怒りだします。

「磐長姫」の画像検索結果上村陽一:その話は聞いたことがあります。骨をとった神々は食べられないので、骨を焼いてその匂いを吸うだけでよいので、不老不死ですが、人間は肉をとったので、肉と同様、肉を消化する内臓も腐るのです。それで人間は死ななければならなくなったという話です。これは台湾などでも石をとるかバナナを取るかで、バナナを取った人間は死すべき運命なのです。

智子:日本神話では、邇邇藝命がとても美しい木之花咲耶姫を見初めて、求婚したのですが、父の大山祇神はあまり美しくない姉磐長姫も一緒につけたのです。ところが邇邇藝命は磐長姫は要りませんと相手にせずに返してしまったのです。花はすぐ散ってしまいますが、岩は悠久にかわりません。つまり大山祇神は邇邇藝命の長久を願って姉をつけたに返されたので、代々大王の寿命は短くなってしまったという説話です。

榊:それで神々を騙したということで、罰が下るのです。ゼウスはなんと人間からいつまでも消えない天の火と、育てなくても生えてくる命の麦をとりあげてしまわれたのです。そこでプロメテウスは火の神ヘファイステスから火を盗みそれをウイキョウの茎の中に隠して持ち帰ったのです。また智恵の神からは智恵を盗んで、人々に授けたのです。

陽一:ゼウスは怒ったでしょうね。

やすい:ええ、騙し方が中身と外見が大違いというところは同じですからね、そこでプロメテウスを岩にくくりつけられました。毎日大鷲に内臓を啄ばまれますが、彼は神なので、死なないで内臓は再生しています。このプロメテウスを救ったのは英雄ヘラクレスです。

智子:その話は文明の自己疎外を象徴していますね。

promethe榊:プロメテウスが人間に様々な文明を授けるということは、実は人間の構想力、想像力がそれを考え出すということなのです。ですから人間の構想力が作り出した文明によって、人間自身ががんじがらめにされ、毎日大鷲に内臓を啄ばまれるような苦しみを蒙っているということを意味しているのです。これにはマルクスの疎外論では生産物の疎外が適用できますね。ただ主体が個々の労働者ではなく、抽象的な人類となっているところが違います。

陽一:人間学的な疎外論になっているということですね。

文明の衝突榊:その指摘は鋭いですね。二十一世紀は環境問題や集団安全保障体制の確立などを背景にグローバル統合の時代に入ってきています。今日ほど人類を主体においた思考を求められている時代はないわけです。人類に主体をおいたグローバル市民の自覚に立った疎外論の新展開が必要だと痛感しているのです。

智子:その疎外の克服はなかなか大変ですね。だってヘラクレスのような超人的なパワーが必要だということでしょう。

やすい:ええ、でもヘラクレスが登場するということを語ってくれているのは救いですね。我々がみんなで力を合わせて、超人的な努力をし、人類の総力を結集できれば、超人的なパワーをだせる筈ですから。

陽一:文明の衝突などしている場合じゃないということですね。

5,パンドラの箱

パンドラに苦労の種はつきねども希望を育て生きるが幸福

榊周次:次に人間を苦しめるため、パンドラという名の最初の女をつくると、プロメテウスの弟、エピメテウスの元に送ったのでした。 エピメテウス〈後立つ思考〉は、考えもなし行動してしまい、後から後悔するタイプです。すぐにパンドラの美しさに心奪われたのです。パンドラの美しさは女神にも負けないものでした。女神は永遠に若々しくて美しいままですが、パンドラは外見は女神のようですが、中身は腐る内臓を持っています。そのためにやがて老化して美しさも衰えるものです。だからこそ若いときのみずみずしさはひときわ男たちの胸をときめかすのです。

上村陽一:外見と中身の違いというのが、だましの手口ですから、プロメテウスへの仕返しなのですね。

「パンドラの箱」の画像検索結果三輪智子:ところで、パンドラの箱という話がありましたね。

やすい:その箱はエピメテウスの家にあったのですが、その中には、プロメテウスが人間に与えたくないもの災厄がいっぱい封印されていたのです。病気、ねたみ、盗み、憎しみ、悪巧みなどです。

陽一:それをエピメテウスの留守中にパンドラが開けてしまったのですね。つまり女にはそれだけの災厄がついてくるというわけですか?

智子: 露骨な差別発言だわ。そういう時は、家庭を築いたらいろんな苦労を背負い込まなければならないのですねと言えばいいのよ。何も男だけが苦労するわけじゃないのですから。

陽一:これは失礼しました。女性がいたことをすっかり忘れていました。

やすい:おやおや、それこそ問題発言ですよ。とにかくすぐにふたを閉めたのですが、既に遅しで、のんびりしていた男だけの時代には考えられないような人生の苦悩を引き受けることになりました。でもよく考えてみますと、女がいなくて、家庭というものをもたなかった時代の男たちには家庭の幸福というものもなかったのです。まあ特別の才覚があれば別ですが、普通の男にすれば、家庭なしに充実した人生、幸福というものもまたなかったのです。いっぱい苦労を背負い込めば背負い込むほど、その苦労に耐えて築き上げた家庭の幸福というものがたまらなく大切なものに思えるものなのです。

智子:そのお話で、最後に希望が残ったという意味が納得できますね。ふたを閉めたら、中から出遅れた希望が出してくださいと言っています。これはプロメテウスがどんな災厄に襲われても生きていけるようにと、箱の底に入れておいたものなのですね。

陽一:希望は子供の象徴ですか?

榊:別に子供に限定しなくてもいいとは思いますが、子供としたらぴったりきますね。家庭主義的な幸福観がここにみられますが、家族によって人間が始めて人格的に自立した主体として生活基盤をもって登場してきます。その意味で家族の意義が人間論では大きな場所を占めるのです。

6,プロタゴラスの人間尺度論 

このパンがうまいかまずいかいずれかは人それぞれが尺度なりけり

榊周次:それでは「プロタゴラスの人間論」の話に入ります。これはプラトン著『プロタゴラス』に含まれている人間論を読んでいきながら一緒に人間について考えてみるものです。

三輪智子:プロタゴラスといえば最も名高いソフィストですね。彼の人間論といえば、「人間は万物の尺度である」という人間尺度論で有名ですね。

榊:それも誤解です。本当は「万物の尺度は人間である。」と訳した方が誤解が少なくて済むのです。

上村陽一:真理は人それぞれという相対主義ですね。人間は個人という意味で遣われていて、人間一般が万物の尺度であるという意味ではなかったということでしょう。

「プラトンの『プロタゴラス』」の画像検索結果榊:この部屋が暑いと感じる人もいれば、寒いと感じる人もいる。どちらが正しくて、どちらが間違っているということじゃありません。真理は人それぞれだということですから、人間の本質ではないのです。プロタゴラスの人間論は実はプラトンの『プロタゴラス』に保存されていたのです。

智子:でもそれはプラトンが書いたものだから、プロタゴラスが本当に話したかどうか分かりませんね。

榊:それはそうですが、おそらくプロタゴラスの作品です。なぜならプロタゴラスはとてもこういうたとえ話がうまかったそうです。もしプラトンがプロタゴラスの話を作り変えていたら、この話は印象的で既にみんな知っていたでしょうから、プラトンは非難されていたでしょう。それに全くプラトンの作り話だとしたら、あまりに見事な話ですから、自分かソクラテスが語ったことにしたはずです。ということはプロタゴラスの作った話だということになります。

陽一:ところでその人間論の挿話は、どんな討論の中で登場するのですか?

榊:討論のテーマは「徳は知識や技術と同様に教えられるか?」です。プロタゴラスは単なる知識や技術だけでなく、徳の教師も自認していましたから、当然徳も教えられるという立場でした。そんな自分に議論をふっかけてくるソクラテスはきっと、徳は教えられないという立場に違いないと思い込んでいたのです。

智子:そう思わせるのがソクラテスの作戦だったのですね。ソクラテスも徳は教えられるという立場なのだけれど、彼のねらいは別にあった。

陽一:ソクラテスは「無知の知の自覚」を説いたわけですから、相手の議論がいかに独断論に陥っていて、本当のところは何も分かっていないかを相手に認めさせることが目標なのですね。

榊:その通りです。プロタゴラスは徳は教えられると言っているが、徳とは何かが全く分かっていないじゃないか、徳はたとえ教えられるものであっても、プロタゴラスには教えられないという結論に持っていくのがねらいです。

智子:プロタゴラスはわざわざ徳を教えられなければ、人間はサバイバルできないというお話を神話を創作して展開したのですね。

榊:そうなんです。神話を創作するのは神々を信仰しているからではないのです。かれは神々の存在には懐疑的だったようです。説明の方法として説得力があるので、神話の形式をとっているのです。神話も時代につれて役割を変えながら進化しているのですね。

陽一:神話というのは祭儀用につくられたものとは限らないのですね。

やすい:はじめは神々とポリスの創始者とのつながりを示すことに大きなねらいがあったのでしょうが、ホメロスの『オデュッセイア』『イーリアス』になると神々が退屈しのぎに人間を戦争させたりする身勝手な存在に描かれ、人間たちが神々に翻弄されながらも、あくまでも誠実に生きようとする姿を描いています。これには神々とのつながりによって支配を保とうとする権力者への非難が伺えるのです。そしてプロタゴラスになると物事を分かりやすく説明するための方法とされているのです。つまりもう内容的には神々のことは描かれていないわけで、神なき時代の神話と呼べるかもしれません。

7,欠陥動物としての人間

 獅子に牙鳥に翼を与えしが人に与える前に品切れ
生き残る力を持たず投げ出され、智恵と火ともて危機を乗り切る 

三輪智子:では要旨を読んでいきます。

「火を盗むもの」の画像検索結果〔その昔、神々だけで死すべきも共の種族(この場合は動物一般)はまだいなかった時代がありました。土と火と、土と火の混合物を捏ねて神々は動物たちを造りました。その際、神々は、それぞれの動物に各々特長的な能力を配分するようにプロメテウスとエピメテウスに命じたのです。エピメテウスは、この仕事は是非自分だけでやらせてくれるようにプロメテウスに頼みます。エピメテウスは代償の法則に基づき各種族が滅亡しないように工夫しました。すなわち肉食動物には鋭い牙や獰猛性を与えたり、草食動物には大きな臼歯を与えたりしたのです。また肉食動物の餌になる動物には旺盛な繁殖力を与えておいたりしたのです。鳥には翼、馬には蹄などもこの特長にあたります。

□ところで、全動物に分配するつもりだったのに、人間の種族に配分する前に品切れになってしまったのです。そのために人間の種族は、本能的な適応力を欠いたまま生まれてくることになりました。エピメテウスの無計画で杜撰(ずさん)なやり方のために、人間の種族は惨めな状態に置かれる事になります。プロメテウスは点検に来て、人間の種族に特長が与えられていないのに気づき、人間のために、ヘファイストスからは火、アテーネー女神からは智恵を盗んできて、人間たちに与えたということです。〕

上村陽一:ここまでの展開でヘシオドスの『神統記』と違うところは、プロメテウスが火と智恵を盗んだ理由ですね。エピメテウスが人間に特長を与えなかったので、これでは環境に適応できないということで、とりあえず火と智恵を与えて適応能力をつけたということですね。しかも神話は説明方法にすぎないわけですから、火や智恵を自然から想像力や構想力によって学んだということになります。つまり人間の本質的な能力は構想力や想像力だということでしょう。なかなか分かりやすい説明ですね。

榊周次:この適応能力が欠けていたという欠陥動物論が二十世紀になってから復活したのです。A.ゲーレン(Gehlen)は、人間が生物形態学的にみてサルの胎児の進化が停滞した「欠陥動物」だとしました。また生理学的に正常化された早産児であるとします。生きるための器質的手段を欠いているために、直立歩行、言語の使用、技術的行動などの文化を生み出し、その欠陥の負担を軽減しなければならならなかったと論じています。

8,プロタゴラスのポリス的人間論

謹みと戒めのない人間を生かしておけば国は滅ぶや
先を読む眼力だけで論じらめ人を刑するポリス加えよ

三輪智子:ところで話はこれからが本番なのでしょう。〔神から人と智恵を盗んできたので、人間は神に近い者となり、〕

上村陽一:ちょっとストップ、それはバイブルの智恵の木の実を食べて神に近くなったというのとすごく似てますね。

智子:〔この近さによって神を祭るようになります。そして音声を区切って言葉を話すことに成功し、衣食住に必要なものをたくさん作り出しました。〕
宗教性や言語使用、生産活動や労働を本質とする人間論が含まれていますね。

陽一:ちょっと面白そうだから、読ませてください。〔そして獣たちの餌食にならないように、ポリスを作ろうとしたのです。〕ポリスを作らないとサバイバル(存続)できないということは、ポリス的動物も人間の本質だということでしょう。アリストテレスよりずっと前にプロタゴラスが言ってるわけですね。

智子:〔しかし政治的にとても未熟でしたので、お互いに不正を働きあって、またばらばらになって滅亡しかけていました。そこで人間たちが滅亡してしまうのではないかと心配になったゼウスは、ヘルメスを遣わして人間たちに「戒め」と「謹み」を与えようとしたのです。この二つのものが国家の秩序を整え、友愛の心を結集するための絆となるようにとゼウスは考えたのです。〕

画像は古代ギリシアのポリスのアゴラ(広場)跡

□ポリスを作っても、それぞれの構成員が、ポリスを単なる自己存続のための道具と捉え、ポリスを自分に都合よく利用することしか考えていないと、ポリスでの話し合いやポリスの決定が気に入らないとすぐにトラブルになってしまい。互いに協力しあう気持ちがなくなって、ばらばらになってしまいます。そしたらまた人間は滅亡の危機になります。
□そこでポリスの構成員がポリスあってこそ、自分たちも生きられるのだということを重く受け止め、ポリスの決定や話し合いを大切にし、その結果を尊重しあうようになれば、ポリスの団結が強まり、獣や他のポリスからの侵略を防ぐことができるようになります。
□そのためには、各人が「謹み」と「戒め」を持たなければならないのです。つまり自分をポリスの上に置かず、ポリスに忠誠を尽くすということです。みんながそうすることによって、同じポリスの構成員同士の友愛が育つということですね。

陽一:〔ヘルメスはこれを他のいろいろな技術と同様に一部の人に与えればよいのか、すべての人間に残らずに分配した方がよいのかゼウスに尋ねました。これに対してゼウスは次のように答えたのです。「すべての人間に与えて、誰でもがこれを分け持つようにした方がよい。そうしないともし他の技術と同じように、彼らの内の少数の者だけがそれを分け持つだけなら、国家は成り立たないだろう。さらにこれに加えて、『戒め』と『謹み』を持つ能力のない者があれば、国家の病根として死刑に処するという法律を私の名において制定してもらいたい。」

□『戒め』というのは最低限国法には従うということですよね。そして『謹み』とは公共の福祉に反するようなことはしないということです。あるいはそういう心構えが出来ているということでしょう。ポリスはそういう人々によって作られ運営され、みんなでそれを守っていかないと崩壊してしまうわけです。ですから、もしそれが出来ないというのなら、それはポリスをつぶすことになるので、ポリスの病根であり、死刑にすべきだということでしょう。

榊:しかもゼウスの名において死刑ということですから、これは自然の掟としてポリスは自己を守るためにポリスの病根となる反ポリス的存在を死刑に出来なければならないということなのです。

智子:それはいくらなんでもひどすぎませんか。謹みや戒めがないというだけでは死刑にすべきじゃないでしょう。人殺しだとか具体的な特別に凶悪な犯罪行為に対して死刑判決がなされるべきです。道徳的な態度がなってないということで死刑となれば、どんな些細なことで反社会的、反ポリス的とされて死刑にされかねません。

ソクラテスの死榊:ええ、実際にそのように運用されたら大変ですね。ソクラテスが死刑になったのは、ソクラテス自身が自分を有罪にするなら、それは哲学の死、ポリスの死だから死刑しかないみたいなことを言ったからですが、ソクラテスの態度が自分の主観的な良心だけを基準にしているように受け止められ、それがポリスの上に自分を置く、「謹み」のない態度だと見られたからかもしれませんね。画像はジャック=ルイ・ダヴィット1787年作「ソクラテスの死」

陽一:確かに死刑はひどいとしても、プロタゴラスが言いたかったのは、この問題にはポリスの存続がかかっているということです。市民はポリスの上に自分をおいてはならない。ポリスを単なる手段や道具としてしか扱えないのでは駄目である。同時に目的として扱えという、カントのような立場にたって、ポリスに忠誠をつくしてもらわなければ、ポリスは滅んでしまい、ポリスなしには生きられない人間も滅びるということです。だからそれができないなら死刑だということは、ポリスが人間を人間たらしめている人間の本質的な契機であるといいたいわけです。

榊:という意味では、ポリス的存在を本質とする人間論になっているということです。そして国家の本質もそこで語られていますね。構成員を道徳的にも包摂できなければならないということ、そのためには、国家の意志である法に従わなければ、その構成員を暴力的に拘束し、裁判で死刑に出来なければならないということです。

智子:じゃあ先生は死刑廃止に根本的に反対だということですね。

榊:死刑を廃止するというのは、それだけ道徳的に国民が包摂できているからできるのです。ですから死刑廃止しても大丈夫、国家秩序は大枠で保てるとなれば廃止するのはいいのですが、死刑がなければ大量殺人などの凶悪事犯、テロ行為などがどんどんはびこるような状況では廃止できないのです。国家だって国民の生命財産暮らしを最小限保障できてはじめて存続できるのですから、それを破壊する者を殺すことができなければ、自動的に国家は死にます。

陽一:それにしてもプロタゴラスの人間論は大変総合的な人間論でよく仕上がっていますね。欠陥動物論を起点において、プロメテウスつまり構想力を軸にして人間の成立と発展を説きながら、さまざまな本質規定を取り込み、倫理的道徳的存在、ポリス的存在論にまで達しています。

9,オイディプスの闇

順逆の道を歩みて迫りたるその闇こそは神も侵せじ 

榊周次:ギリシア的主知主義という言葉がありますように、知を重んじるギリシア人はさまざまに人間を論じています。ギリシア文学の中で、ひときわ鮮烈なのがギリシア悲劇です。ギリシア悲劇では人間は常に「死すべきモイラ(運命)の人間」とよばれています。この捉え方は最も根源的な問に向かわせる捉え方ですから、きわめて哲学的だといえるでしょう。特にアイスキュロスの『オイディプス王』は「汝自身を知れ」という呼びかけに応答したものといわれています。

画像の説明三輪智子:父を殺して,母と結ばれたいという抑圧された潜在的衝動についてのフロイトのエディプス・コンプレックスのことを聞いたことがあります。『オイディプス王』の主人公オイディプスは生まれた時アポロン神殿(画像はアポロン神殿の聖所の復元図)の占いで, 将来父を殺して、 母とむすばれるだろうというのです。そこで父であるテーバイのライオス王は息子を殺して山に捨てるよう命じるのですが、家来が殺さずに捨てたので拾われて育てられるのです。オイディプスは実子ではないという噂を気にしてアポロン神殿に占ってもらうと、 その返事はなく、 将来父を殺して、母と結ばれるだろうというのです。そこで両親と居ては大変だと旅に出るんです。

運命はそれを避けようとする行為をも利用して貫くのですね。オイディプスは三叉路で出会った父といさかいになり、まさか実父とは知らず殺してしまいます。そしてテーバイを呪った魔女スフィンクスの謎々を解き、テーバイを疫病の危機から救い、 ライオスの未亡人、 実はオイディプスの生母イヨカステと結ばれてテーバイの王になり、子供まで作ってしまうのです。ところが十数年後テーバイに疫病がはやり、その原因を追求すると結局、 恐ろしい父殺し母子相姦の罪をそれと知らずに犯していたことが分かるのです。オイディプス王は開いていても肝心な自分自身のことを何も見ることが出来なかった自分の両目をナイフで抉って、盲目になり、 自らを追放しました。

上村陽一:そのお話で人間論としては、人間は運命には逆らえない、逆らっても、その逆らったことを利用して運命が狡賢く貫かれてしまうという運命論的人間論が一つあげられますね。それは人は必ず死ぬという「死に向かう存在」としての人間論や有限性を人間の本性とする人間論につながっています。

智子:それからもちろん潜在的な衝動や無意識に支配されているというフロイトの精神分析につながる面があります。

陽一:それはどうでしょう。それはフロイトの解釈ですね。原作では本人は全く知らないことが前提で運命が貫くという運命悲劇になっているのですよ。オイディプス王に生母への潜在的な性的衝動があって生じた悲劇ではないのです。

榊:オイディプス王の悲劇が史実に忠実だったとしたら、極めて数奇なことです。かえってそういう偶然が重なることは滅多にないはずです。にもかかわらず、人々は彼の数奇な運命に感動するのです。滅多に起こらないことが起こったからではなく、そこにみんなが潜在的にもっている衝動を全く意図せざるものであったとしても、実現していることに対して、感情移入し、代償的な充足を得るのです。つまり観客もオイディプスになって生母への思いを遂げるのです。
□しかし罪が白日の下に曝されると、何も真実を見ることが出来なかった目玉をくりぬいて、闇をさすらうことになるという結末によって、その衝動を克服できるわけです。つまり潜在的な衝動を持っているのはオイディプス王だけではありません。このコンプレックスはドラマを観る観客の中にあるということです。

陽一:ところで「汝自身を知れ」への応答とはどういう意味ですか?

智子:それは魔女スフィンクスのかけた謎と関係が有りそうです。ソポクレス〔藤沢令夫訳〕『オイディプス王』(岩波書店、1982年)121頁によれば、スフィンクスの謎とは、次のように伝承されているようです。
「1つの声をもち、2つ足にしてまた4つ足にしてまた3つ足なるものが地上にいる。地を這い空を飛び海中を泳ぐものどものうちこれほど姿・背丈を変えるものはない。これがもっとも多くの足で支えられて歩くときに、その肢体の力はもっとも弱く、その速さはもっとも遅い。」

陽一:答えは「人間」でしょう。赤ちゃんは這い這いで四足で、大きくなったら二足歩行をし、年取ったら杖をついて三本足になりますから

智子:ピンポン、正解、これでテーバイとイオカステはあなたのものです。

陽一:「おっと、危ない、君子危うきに近づかず」ですからね。

榊:スフィンクスは、「人間」という答えでやっつけて、テーバイの王位とイオカステを手に入れたのですが、結局とんでもない末路になってしまいます。本当に正解だったのか疑問になりますね。人間の場合は四足から二つ足そして三つ足となります。同時に二つ足にして、四足にして、また三つ足だということはありえません。

智子:ところがオイディプス王だけは特別なのでしょう。彼は母と結ばれることによって、彼が壮年だとすると老年の世代になり、四足にして三つ足になります。また彼はイオカステの子ですから、自分の子供と兄弟になります。その子がまだ赤子だと四足と同格になってしまいます。それで四足にして、二つ足にして、三つ足という三代を同時に生きることになるのです。高校の倫理でこの話とても印象的だったのです。

榊:母子相姦によって世代の順番を破ってしまったのです。こういうのを順逆の罪といいます。そういうことは人間が犯してはならないことになっています。ところがオイディプス王は数奇な運命に導かれて人としての道を踏み外してしまったのです。

陽一:それで彼は開いていても何も真実を見ることができなかった両眼をくりぬいて、己の内面の闇を見据えることになったのですね。

やすい:というのは悲劇『オイディプス王』の話でつくり話なのです。そのモデルになったオイディプス伝説では悲劇になっていないのです。もちろん目玉もくりぬいていないわけです。生母を妻にして幸せに暮らしていたとされています。

智子:ヘエー、それはまた驚きですね。

榊:王は神として崇められていますから、人間のタブーは王には適用されません。むしろ王は人間を超えていることを示すためにも、タブーを破り、人々の潜在的な衝動を代わりに実現する役回りなのです。

陽一:王には祟りは起こらないのですか?

榊:起こるかもしれません。それは覚悟でタブーを破ります。神に裁かれるかもしれないのですが、王は自己責任で処理するわけです。

智子:どうしてソフォクレスは王自身に裁かせたのですか。

榊:悲劇が作られたのは民主主義の時代です。ということは王であろうと尊敬されるのは模範的市民としてであり、タブーや法を侵犯すれば責任を取らなければならないということです。ギリシアの演劇は社会教育でもあるわけでして、タブーを破って順逆の罪を犯しても何の罰も受けないでは許されません。当時の観劇は入場料をとらないばかりか、スポンサーがついて、観客を集めるのに心づけを配ったということです。
画像はシチリア島セジェスタの劇場跡

陽一:今の日本なんて観劇となるとかなり出さないと観れませんが、えらい違いですね。

榊:ほとんどが文字が読めませんから、社会常識や道徳心、愛国心などは観劇によって身に着けさせなければならないわけで、国家的な事業なのです。

「悲劇「オイディプス王」」の画像検索結果智子:どうして『オイディプス王』が「汝自身を知れ」の解答なのかと言いますと、謎の答えが自分自身だということを知ることになるからですね。

榊:そうです。それはオイディプスという名前とも関係しています。「オイダ」というのは「腫れている」という意味でして「プス」は「足」ということなので、キタイロンの山中に捨てられたとき留め金で両足を刺し貫かれていて、それで「腫れ足」という意味だったのです。しかし別の解釈もできます。「オイダ」は「私は知る」という意味ですので、「私は足を知る」という意味にもなるのです。ということは、なぜ「腫れ足」なのかというオイディプスの謎、オイディプス自身を知るということですから、オイディプスという名前こそ、「汝自身を知れ」に応答する「私は自己自身を知る」という意味になりますね。つまり自分自身を知る、自己意識的存在がオイディプスであり、自我の自覚なのです。

陽一:それはすごい人間本質論ですね。しかも自己自身を見据えても、そこにあるのは闇でしかなかった。

榊:私はこの闇を「オイディプスの闇」と名づけているのです。それは闇でしかないかもしれないけれど、モイラ(運命)に導かれて、順逆の道を歩み、人間であることを踏み外すことによって迫った闇つまり人間存在の謎なのです。この闇には自然の光はとどきません。つまり神々も近づくことができない人間の実存であり、自我の自覚なのです。この闇を見据えて生き抜こうとするオイディプス王に対する共感によって、この悲劇は演劇史上最大の名作だとされているのです。

陽一:しかしそれはオイディプス王の問題ではあっても人間全体が共有できるでしょうか。

智子:オイディプス王のような数奇な運命でなくても、人間は有限性に規定されて死すべき運命のもとで、それぞれ不幸背負って生きなければならないわけで、そこから逃れることが出来ないことでは、同じように悲惨なのでしょう。その人生の悲惨と向き合わなければ、本当にいきることは出来ないわけですから、その意味では人間全体の問題なのです。

3,仏教の人間観https://mzprometheus.wordpress.com/2019/12/02/nk3bukkyounonigenkan/