全国邪馬台国連絡協議会機関誌より転載
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 私(兒玉眞画像)は最近【邪馬台国問題に決着を付けるサイト】と云う Home Page を立ち上げました。この投稿文は HP の要旨を纏めたものです。是非 HP の方もご覧ください。 https://makoto-kodama.amebaownd.com/ 一方、ブログ【邪馬台国探訪】も始めました。こちらでは邪馬台国問題ばかりでなく、古代史全般について 考察しています。どうぞよろしくお願い致します。 http://ameblo.jp/makoto-kodama/

昨年五月、私はこの『私の邪馬台国論』掲示板に『倭国は九州北部の小国三十国の連合国だった』と題する論文を投稿しました。その中で私は【反時計回り連続説】と称し、女王国(邪馬台国)より北の連続し て記される二十一国は、全て国境を接して反時計回りに並んでいるとする説を展開しました。

 今迄の邪馬台国研究は倭女王卑弥呼が倭国の首都に定めた邪馬台国の比定地を考えるばかりで、二十一国の比定はついでに行われてきただけなのですが、私はこれ等の二十一国を全て比定できれば、倭国=女王国 連合の正しい姿が理解でき、ひいては倭国の首都邪馬台国も一緒に比定できるだろうと考えました。

 ところが前回の投稿は初めてで肩に力が入り過ぎていた私は、あまりにも欲張って色んな説を論文中に盛 り込み過ぎた為、焦点がぼけてしまった感は拭えません。しかも難解で読みにくい文章を読んで頂いた方の 多くは、後の方に書かれていた【反時計回り連続説】に辿り着く前に疲れ、その存在にすら気付かない儘に 読み続けるのを断念してしまわれたのではないかと危惧しています。

 しかし幸いなことにこの掲示板は投稿後半年で再投稿できるようになりましたので、この度再投稿を決意 するにあたり、前回の反省も込めて論点を【反時計回り連続説】に絞り、是非共皆様にこの説を理解して戴 けませる様にと、出来るだけ解り易く論説を展開しようと決意する次第であります。

『魏志倭人伝』は帯方郡から邪馬台国へ至る道中の国々の説明を終えると、次のように記しています。

 このように女王国より北の連続して記される二十一の小国の頭には必ず〈次有〉と付けられています。

過去の邪馬台国研究者に、この〈次有〉の文字に注目した研究者はあまりいないようですが、私は国名毎に付けられたこの〈次有〉には重要な意味があるに違いないと考えました。この〈次有〉はそれが付いた国とその前の国が国境を接して並んでいることを示すために付けられたものではないかと考えられるのです。

 もしそうであれば、これ等の二十一国は全て地図上で次々に辿っていくことが可能となり、この考えに更に地名の類似を考慮に入れると、連続する二十一国全ての位置と国名が比定出来るはずなのです。

 私はこの説に【反時計回り連続説】と名付けました。 それでは今から実際にこの説が成り立つことを順序立てて証明していきたいと思います。

 先ずは紹煕本『魏志倭人伝』に従い、連続する二十一国を通例とされる読み方を充てて並べてみます。

 では今から、ここでは話を解り易くする為に過去の研究者はこの連続する二十一国の文章をどのように解釈したかを、南宋の范曄の考えを例にあげて検証してみようと思います。范曄を例に選んだ理由は、范曄も又二十一国が連続して並んでいると考えた歴史家であるからです。范曄は AD432 に『後漢書東夷伝』を著しましたが、陳寿が西晋時代(AD280 台)に書いた『魏志倭人伝』を参考にしたとされています。ところが『魏志倭人伝』には問題の文

があることから范曄は、
Ⓐ 女王国より北の戸数・道里が略載可能な国とは、邪馬台国へ至る道程中の戸数・道里が略載される、
㋐對馬国、㋑一支国、㋒末魯国、㋓伊都国、㋔奴国、㋕不彌国、㋖投馬国、㋗邪馬台国のことであり、

Ⓑ 連続する二十一国は戸数・道里が略載されないので、邪馬台国の南に在るその余の傍国と見做し、

Ⓒ 邪馬台国へ至る道程上の㋔奴国と連続する二十一国中最後の㉑奴国は別の国だと考え、

Ⓓ 連続する二十一国は邪馬台国が記された後に続けて記されることから、最初の①斯馬国は邪馬台国の南に隣接する国だと考えたようです。

 この范曄の考えでは邪馬台国の南に①斯馬国~㉑奴国の二十一国が次々と連なることになります。 👇下図は范曄の考えた倭国の姿です。

 范曄は『魏志倭人伝』に㉑奴国が女王の境界尽きる所と記されることから、㉑奴国を倭の極南界と見 做し、【漢委奴国王】の居所と考えました。范曄が㋔奴国ではなく㉑奴国を後漢の朝貢国に選んだ理由は、 出来るだけ遠方の夷国から朝貢されていた方が漢の名誉だと考えていたからのようです。

 ところがこの范曄の考えでは仮にも【漢委奴国王】の金印を授かった倭の中心国であるはずの奴国が其の 余の傍国になってしまいます。又、金印が福岡市の志賀島から出ていることにも矛盾しますが、勿論范曄は 遥か後世の江戸時代に金印が伊都国に近い㋔奴国から出ることなど思いもよらないわけです。

 しかしなかでも范曄が特に困ったのは㉑奴国を倭の極南界とした為、女王国の南に在るとされる狗奴国の置き場が無くなってしまったことでしょう。悩んだ范曄は苦し紛れに、「女王に属さず」と『魏志倭人伝』に記される狗奴国を女王国の東の海を渡った倭種の国と混同してしまいました。

実際范曄の居た五世紀、倭には既に畿内大和に首都を置く大和朝廷が成立し、倭の五王が南宋に貢献している状況で、当時南宋に齎された倭国の情報では敵国は東の蝦夷とされていたので、范曄はこういった当時の知識に則って、このような倭国の姿を考えてしまったのでしょう。

 だが現在でも邪馬台国畿内説派の中には范曄の説に追従し、狗奴国を畿内大和の東の海の伊勢湾を渡った尾張国辺りに比定する研究者が時折見受けられます。

 范曄の説は金印が福岡市の志賀島から出たことに矛盾し、狗奴国を女王国の東の海を渡った倭種の国と混同していることからも、やはり間違っているものと思われます。

 なによりも二つある奴国を陳寿がなんの説明もなく単に奴国と記したとは考え難いことです。

 やはり奴国は一つで、福岡市に位置すると考えれば、直ちに金印の問題は解決され、それと共に連続する二十一国中の㉑奴国と邪馬台国へ至る道程中の㋔奴国は同じ国となります。

 ここで㋔奴国には戸数・道里が略載されることから、奴国が戸数・道里の略載可能な国であることが判明します。すると連続する二十一国中の奴国以外の二十国も、奴国同様に戸数・道里が略載可能な国ではないかと考えられるのですが、此処で【反時計回り連続説】に従うと、連続する二十一国は全て国境を接して反時計回りに並んでいることからその凡その位置が解るので、奴国以外の二十国も戸数はともかく道里に限れば実際に『魏志倭人伝』に略載されていることになるのです。

 さて、そうなると先に挙げた范曄のⒶ~Ⓓの考えは、何れも解釈を変えねばならなくなります。

 さてここでどうしても倭国報告書の話をしておかねばなりません。私は陳寿が『魏志倭人伝』を書く時に 参考にした倭国報告書の大部分は帯方郡使が伊都国に於いて書いたものだと考えています。

  景初二年(AD238)卑弥呼は魏に遣使しますが、景初三年(AD239)正月の明帝の死により魏はその年 喪中となり、倭国に正使を派遣できなくなったので、同年帰還する倭使を送迎するにあたり魏は仮の使節を 倭国調査隊も兼ねて帯方郡から派遣したようです。

 だから正使悌儁(ていしゅん)の派遣は喪中の開けた正始元年のことに なり、確かに悌儁は(AD240)倭国の首都邪馬台国へ詣で、倭女王卑弥呼に謁見しています。

 ここで注目すべきは『魏志倭人伝』の伊都国の記事に「郡使の往来常に駐所」と記されることです。 景初三年(AD239)に倭国を訪れた郡使は正使ではない仮の使節であり、倭国の首都邪馬台国に詣で、 倭王卑弥呼に謁見するわけにはいかなかったので、この文は伊都国に到着した郡使が、自分達は倭国滞在中常に伊都国に駐留し、伊都国内外を散策して倭国を調査する意思を表明したものと思われます。

 つまり倭国調査隊が書いた倭国報告書とは彼等が倭国を訪問した際に伊都国に到る迄の道中での体験談、伊都国駐留中に伊都国の役人などの倭人から伝聞した情報、伊都国内外を散策した時の見聞録などを集めて、全て(帯方)郡使が伊都国滞在中に作ったものだということです。

 そうすると『魏志倭人伝』の邪馬台国へ至る道程の記事は、帯方郡から伊都国迄は郡使が実際に辿った旅行記であり、伊都国以降は郡使が伊都国の役人等から伝聞した話となります。だから伊都国迄の国の記事と伊都国以降の国の記事とでは風景描写の有無など、書き方がガラリと変わってくるわけです。

 このことから邪馬台国へ至る道程の記事は伊都国迄が連続的で、伊都国以降は伊都国を中心とする放射説が成りたつことになります。そして連続する二十一国は、最初は郡使の居た伊都国の北に隣接する①斯馬国から始め、最後は伊都国の東に隣接する㉑奴国で終えていることも辻褄が合うことになります。

以上の考察から伊都国北の①斯馬国から始め、国境を接して並んでいる倭国を構成する二十一の小国を 次々に経由しながら反時計回りに倭国の範囲内をぐるりと一周廻って、伊都国の東に接する㉑奴国に帰ってくるとする【反時計回り連続説】が成り立つことなります。

 以上の説明はちょっと難しかったかも知れませんが、『魏志倭人伝』の一大率の記載に有る、

 この文によると女王国(邪馬台国)の北には倭国の構成国が連続して並んでおり、それ等の構成国を南からは倭国の首都邪馬台国が、北からは卑弥呼が伊都国に置いた一大率が、何時でも監視しているイメージが 描けるものと思われます。

 こう考えると女王国連合=倭国及び女王国=邪馬台国の南に接して、倭国には属さない敵対国の狗奴国を置くことが可能となります。

 それでは今から連続する二十一国を【反時計回り連続説】に地名の類似を考慮に入れて比定していきたいと思いますが、その前に『魏志倭人伝』はどの程度弥生時代の倭語を残しているかを考えてみます。

 その好い例として、狗古智卑狗(くこちひく)が有ります。この官名は狗奴国と思われる熊本県に実際に存在する菊池郡を治める菊池彦(きくちひこ)に対して使われているようです。即ち、菊池彦(きくちひこ)=狗古智卑狗(くこちひく)程度の字句の違いが基本的には有ると頭に入れてから始めましょう。

 しかし最初の①斯馬国から②己百支國へ次々と反時計回りに進んでいくのは難しそうなので後回しとし、最初は簡単そうにみえる㉑奴国(なこく)から後ろ向き、時計回りに進んでみることにします。
 先ず㉑奴国(な)国の前には⑳烏奴(うな)国があります。

すると奴国勢力圏の福岡市・春日市・那珂川町周囲には、春日市の南に大野城市が有ります。

 大野(おおの)の音は烏奴(うな)と似ており、(おおの)が郡使には(うな)に聞こえ、烏奴国と書いたことは十分考えられます。或いは(うな)が訛って(おおの)になったのかも知れません。

 大野城市は昭和の中頃まで大野村だったが、1972年に大野城が有ることで大野城市となりました。大野城はAD663の白村江の敗戦後、天智天皇が唐の侵攻に備え、AD665に建立を命じた朝鮮式山城です。

次に⑳烏奴国の前には⑲支惟(きい)国が有ります。

 大野城市の南には佐賀県三養基郡基山町があります。昔は肥前国基肄(きい)郡と呼ばれていました。 基肄(きい)=支惟の地名は実に 1800 年の時を越え、弥生時代から現在迄残存しているようです。 此の地にも天智天皇の命で AD665 に基肄城が築かれています。

 次に⑲支惟國の前には⑱巴利(はり)国が有ります。 肥前国基肄郡の東には筑前国朝倉郡(旧夜須郡・上座郡)が有ります。朝倉市は甘木市、朝倉町、杷木町 が合併して出来た市で、朝倉郡には朝倉市東部の東峰村、西部の筑前町が含まれます。 杷木(はき)と巴利(はり)の発音はかなり似ています。弥生時代にこの国の中心は杷木に在り、杷木国 と呼ばれていた(はき)の音が郡使には(はり)に聞こえ、巴利国と記した可能性は十分にあります。

 次の⑱巴利国の前の⑰躬臣國(くす)国は、朝倉郡の東、豊後国玖珠(くす)郡に比定できます。 過去の研究者は京都帝国大学の牧健二教授以下、躬臣(きゅうしん)を(きゅしゅ)から(くす)或いは(くし)と読んだことからこの読み方となり、現在でもほぼ定説となっています。

 次の⑰躬臣國の前は⑯邪馬国(やばこく)です。 九州人なら誰でもこの名称を聞くと中津市山国川上流部に有る紅葉や青の洞門で有名な観光地の耶馬渓 (やばけい)を思い出します。こうなるともはや読み方どころか文字迄もほぼ同じです。耶馬渓の含まれる 豊前国下毛郡中津市から宇佐郡宇佐市、山香町にかけて邪馬国に比定します。

 さて、地名の比定作業は、此処迄は比較的上手くいきましたが、この前の⑮鬼奴國(きなこく)から先は難しくなりますので、残りは①斯馬國(しまこく)から順番通り反時計回りに辿っていきましょう。 最初の①斯馬国の南に在る㋓伊都国の西には㋒末魯国が隣接します。この二国は既述の為、例によって簡略化に拘る陳寿により、連続する二十一国から省略されているようです。 ところが㋒末魯国に比定される肥前国松浦郡の西に接して彼杵(そのぎ)郡が在ります。長崎県佐世保市 を中心とする地域です。私はこの彼杵国を②己百支國に比定します。 間にある二国を続けて省略された上に㋒末魯国は広大な領域を占める為、②己百支國は①斯馬国から相当離れた国となってしまい、二十一国が連続していることを解り難くした原因と思われます。

 彼杵(そのぎ)と己百支(いおき)の双方共読み方が難しく音も違って比定は困難だが、己百支国=彼杵郡は表音文字のだけでなく、表意文字からもアプローチできます。壱岐国が一つ島の国で一支国であることから、 支は島の意味と考えられます。すると己百支国は百の島をとり囲む国くらいの意味になるでしょう。実際、佐世保市周辺は小さな島の密集する地域で、現在では九十九島と呼ばれています。長い時間経過で島が一つ減ってはいますが、弥生時代には百の島をとり囲む国=己百支国と呼ばれていたと思われます。

 次に有るのは③伊邪國(いやこく)です。 肥前国北高来郡伊佐早、現在の長崎県諫早市を中心とした地域に比定します。 (いさはや)→(いや)程度の違いは、十分に地名が現代に残っていると思われます。

 次に有るのは④郡支國(ぐしこく)です。次に繋がる長崎県五島列島に比定します。

 五島(ごしま)→(ぐし)で、地名にも関連性があります。

 壱岐国=一支国が一つ島の国で、支は島の意味でしたが、郡は群に通じ、郡支国は群を為す島の国、群島 国と考えられます。弥生時代には群を為していた島が今では五個の島に集約されたようです。

次に有るのは⑤彌奴國(みなこく)です。肥前国西彼杵郡、現在の長崎市辺りに比定されます。

彌奴國は不彌国と奴国を併せたような國名です。私は筑前国で隣り合う奴国と不彌国を、奴国は海人族の 安曇族が、不彌国は同じく海人族の住吉族が治めていた国だと考えています。彌奴国は、海運上重要な長崎 の地に安曇族と住吉族が両族共に住んで、共同で統治していた国ではないかと考えられます。

 次に有るのは⑥好古都國(こうこつこく)です。肥前国高来郡、現在の島原半島に比定します。 高来(たかく)郡は(こうこ)郡とも読めるので、高来(こうこ)都(津)国に繋がります。 更に島原半島南端には口之津港があります。現在では(くちのつ)港と呼ばれているが、弥生時代は高来の 津→(こうのつ)港だったかもしれません。

 次に有るのは⑦不呼國(ふここく)です。肥前国杵島郡、現在の佐賀県杵島郡白石町に比定します。 杵島郡白石町には嘗ての須古村が含まれます。弥生時代も須古(すこ)と呼ばれたのが、郡使に不呼(ふこ) と聞こえたか、或いは元々不呼(ふこ)だったが、後に須古(すこ)と訛ったのかも知れません。

 次に有るのは⑧姐奴国(さなこく)です。姐奴(さな)⇒佐賀(さが)と名称に関連性有り。奴(那)が訛って賀になったのではないか。 肥前国佐賀郡、小城郡、神崎郡。現代の佐賀県佐賀市、小城市、神埼市に比定します。

 有名な吉野ヶ里はこの国に含まれますが、『魏志倭人伝』に特に取り立てた記載はありません。 吉野ケ里は弥生時代中期(紀元前後1世紀)に隆盛を極めたが、弥生時代末期(三世紀前半)の卑弥呼の 時代になると残存はするものの、既に衰退していたと考えられます。

 次に有るのは⑨対蘇國。(とそ・とすこく)です。 佐賀県鳥栖市に比定。対蘇=鳥栖=(とす)で地名が通じており、ほぼ間違いないでしょう。

 次に有るのは⑩蘇奴國(そなこく)です。 筑後国御井郡から三潴郡にかけて、現在の福岡県久留米市辺りに比定します。

 蘇奴(そな)と三潴(みずま)は音の響きが少し似ています。

 三潴は海人族水沼君からきています。九州一の大河、筑後川は暴れ川で、流域は大雨毎に洪水に見舞われ、下流域には三日月湖が多数出来たので水沼と呼ばれたようです。洪水のため筑後川周辺には集落が発達せず、支流を遡った土地のやや高い吉野ケ里や平塚川添などのような場所に集落が発達しました。

 次に有るのは⑪呼邑國(こゆうこく)です。

【反時計回り連続説】によると⑩蘇奴國=三潴郡の次は筑後国山門郡=邪馬台国になりますが、邪馬台国は既述の為、例によって簡略化に拘る著者・陳寿によって省略されているようです。

 此処さえ陳寿が省略しなければ、所謂邪馬台国論争は起きなかったわけですが…、お蔭様で十分に古代史ロマンを楽しませて戴きました…。

 私は⑪呼邑國を筑後山門の次に繋がる八女郡(旧上妻郡・下妻郡)、福岡県八女市に比定します。

 呼邑国の中心地は(こゆう)→(くろき)の発音は類似し、現在の黒木町に在ったと考えられます。

 次に有るのは⑫華奴蘇奴国(かなそなこく)です。この国は地名の類似からの比定は困難で、【反時計回り連続説】に従い八女の東方を探すと、豊後国日田 郡前津江・中津江・上津江村を含む、現在の大分県日田市が有ります。

 なかでも中津江村にこの国の中心地が在ったと云うのは、中津江村には鯛生金山が有り、華奴蘇奴国⇒金 蘇奴国と見て、金が出た国と考えられます。筑後川下流部の蘇奴国とも関連が有りそうです。 次に有るのは⑬鬼国(きこく)です。

 鬼の付く地名は北九州地域には少ないが、全国には多数見られ、その殆どは火山国です。時に噴火して多数の死傷者を出し、常に硫黄や温泉が噴き出す殺伐とした火山国は正に鬼の住む国に相応しい。 そう考えて日田の東を見ると、玖珠郡九重町、旧直入郡久住町等の久住連山懐の国々が在ります。

 昔久住(くじゅう)国は鬼が住む国、鬼住(きじゅう)国と呼ばれていたのが何時頃からか住民達が、鬼が住む国と呼ばれるのは嫌だと言って、訛って久住国、更に九重国になったのだと思われます。

 次に有るのは⑭為吾国(いごこく)です。久住連山の東は豊後国大分郡です。
 為吾(いご)国の読みは豊後(ぶんご)国に似ているが、それでは豊前国の説明が困難です。 私はレ点を付けて為レ吾国を吾為国とし(ごい)国、(ごういた)国、王居た国と読みました。

『魏志倭人伝』では菊池彦=狗古智卑狗の例からも読み方が反転する例は多いと考えられます。 為吾国(いごこく)は豊後国大分郡、現在の大分市辺り、臼杵市に比定されます。

次に有るのは⑮鬼奴國(きなこく)です。大分郡から反時計回りに北へ向かうと速見郡です。 速見は現在の別府市・湯布院町。鶴見岳、由布岳の連なる火山国で温泉国、二つめの鬼国です。

鬼国=久住国との違いはこの地には良港があり、海運業の要地で鬼の奴国、安曇族の国。

『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること一千余里、復国有り、皆倭種なり」と記されます。 この場合の女王国は邪馬台国ではなく、女王国連合=倭国を指すと思われます。女王国の東の海とは豊後 水道であり、女王国の東の海を一千余里渡った所に有る倭種の国とは四国になります。

実際別府から東の海を遠望すると四国が見えます。大分県臼杵市と愛媛県八幡浜市の間は 70 ㎞程あり、短里で一里=70m とすると 70 ㎞は丁度一千里となり、豊後水道を渡る距離は一千余里。

陳寿は女王国の東の海を渡った先の四国には倭人と同種の人間が住んでいるが、四国が倭国には含まれないことを知っていたので、四国の住民を敢えて倭人とは書かずに倭種と書いたと思われます。 次の⑯邪馬國以下は既述なので、これで女王国より北の連続する二十一国は全て比定されました。

 さて此処迄、【反時計回り連続説】について長々と解説してきましたが、やはり皆様が最も関心があると思われる倭国の首都・邪馬台国へ至る道程ついて今回も簡潔に触れておきましょう。

 『魏志倭人伝』は帯方郡から邪馬台国へ至る道程上の国々に関し、戸数・道里、地形、官名、風習等を略載していますが、これ等の国々は江戸時代に、新井白石により既に比定し終わっており、現在でも帯方郡、狗耶韓国、對馬国、一支国、末魯国、伊都国、奴国に関しては殆どの研究者が同意しています。

 但し不彌国に関しては、筑前国穂波郡(現在の飯塚市辺り)とする異説がありますが、私は不彌国の名称と伊都国・奴国から極めて近い百里とされることからも糟屋郡宇美町でよいと思います。

 そして投馬国については諸説紛々ながら、九州説派は薩摩国に比定する研究者が多いようです。 『魏志倭人伝』は日巫女が卑弥呼、那国が奴国と記されるように、所謂蔑字・悪字で書かれています。 同様に薩摩国は悪字で殺馬国と書かれたものが、長い間筆写を重ねるうちに殺の字が略されて、投の字となり、投馬国と記されたものが現代に残るのではないかと考えられます。

 投馬国は邪馬台国の北に有る倭国の構成国だとする研究者も多いようですが、この説は『魏志倭人伝』に単に投馬国が邪馬台国の前に記されることから、連続説でそう読んでしまうのだと思われます。しかし連続説では、邪馬台国は九州南海中に沈むか種子島辺りの国となり、狗奴国の置き場も無く、説明不能ですが、放射説なら投馬国は伊都国から南に水行二十日、邪馬台国は伊都国から南に水行すれば十日、陸行すれば一月で至るので、どう考えても投馬国が邪馬台国より南に有ることになります。 新井白石が比定した、投馬国を除く帯方郡から邪馬台国へ至る道程上の国々は、

 更に畿内説派は、投馬国や邪馬台国へ向かう南は東の間違いとして、不彌国から東に投馬国迄の水行二十日と投馬国-邪馬台国間の水行十日+陸行一月を全て足し併せることで、なんとか邪馬台国を畿内大和に持っていけるとしています。

 このように『魏志倭人伝』に様々な改竄を加えねば決して成り立たない畿内説派は、九州説に対しては、放射説は文法上有り得ないと禁止して連続説を強要、不彌国-投馬国の南水行二十日と投馬国-邪馬台国の南水行十日陸行一月を全て足すと1千3百里を遥かに越え、九州南海上に行き着いてしまうではないかと非難しています。
 そして方向で不利だが距離で有利な畿内説と方向で有利だが距離で不利な九州説などと、如何にも畿内説と九州説が五分五分であるかのように印象操作をしていますが、九州説派は放射説を使えば 伊都国-邪馬台国の1千5百余里を南水行十日陸行一月の日程で無理なく再現できるのです。
 実は放射説が文法上成り立たないとする畿内説派の論には何の根拠もありません。

 伊都国から南の邪馬台国へ水行する場合、伊都国の南は山ですから直接向かうことは出来ません。だから海岸線を辿りながら、九州沿岸を回り込み南へ向かうことになりますが、東回りでは相当遠回りとなるので現実的には西回りルートを進むことになります。ところが末魯国から伊都国迄わざわざ陸行した郡使が今来たばかりの行程を逆行するはずがなく、邪馬台国への水行行程が伝聞であることの証拠になります。
 では郡使が倭人から伝聞した邪馬台国への水行行程は、伊都国の港を出た船は先ずは西に向かって進み、平戸島を周回か平戸瀬戸を通過後南下し長崎半島先端の野母岬を回ると、次は東行して島原半島と天草下島 の間の早崎瀬戸を抜けて有明海に入ります。すると今度は北上して奥地の干潟地帯迄入り込んで、東岸にある矢部川河口から遡上し、現在の筑後市船小屋辺りで船を降りることになります。其処からは卑弥呼の居城があったと思われる山門郡瀬高町の女山の麓迄はほんの僅かです。この水行行程は陸行よりもかなり回り道 となるので、当時陸行よりも遥かに足の速かった船でも、十日は十分にかかったことでしょう。


 同様に伊都国から南水行二十日で到達する投馬国は、途中までは邪馬台国と同じ航路を辿った後、早崎の瀬戸から有明海には入らずにそのまま更に南に水行し、薩摩半島を大きく回り込んで北上した現在の鹿児島市辺りに投馬国があったと思われます。その水行距離は丁度、邪馬台国迄の二倍程になります。
伊都国から邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月と投馬国へ至る南水行二十日 本来はもっと海岸線に沿って辿る。

放射説によると伊都国-邪馬台国の陸行距離は1千5百余里となりますが、短里により一里=60~100m 程だったので、1千5百余里はメートル法では 90~150 ㎞程となります。

 弥生時代伊都国から邪馬台国へ陸行するには各小国の中心地を結んだ当時の街道を辿っていたはずですから、伊都国(糸島市平原)から日向峠を越えて南東の奴国(春日市須玖岡本)に到り、烏奴国(大野城市)、支惟国(基山町)、対蘇国(鳥栖市)、蘇奴国(久留米市)を経由して、邪馬台国(みやま市)に至ったと思われますが、この道程を地図上で現在の道路距離で測ると87㎞程になります。ところが弥生時代の橋もトンネルも無い道は、現在と比較にならない程曲がりくねっていたと思われ、この道程は100㎞を優に超えていたことでしょう。

 即ち伊都国-邪馬台国を1千5百余里とする『魏志倭人伝』の記事は現実と完全に合致しているのです。

 次に『魏志倭人伝』ではこの1千5百余里を陸行するには一月を要したとされます。山だらけの日本では当時街道と云えども山道で、トンネルなんて無いので山越え、崖やガレ場のへずりは必須。橋が架かっていない場合も多くて、谷底迄降りてから川を渡渉する等、大きな荷物を抱えての通行は相当困難で、夜毎の泊まりや食事その他の頻回の休憩を考えると一日の歩行距離は3~4 ㎞に留まり、1千5百余里=100㎞強の距離を通行するのに、一月は十分に要したことでしょう。

 それを橋もトンネルも有りの現代の舗装道路の感覚で、100㎞位は数日で簡単に歩行できたはずと考えるのは、正に古代の姿を想像できない現代人の机上の空論に過ぎません。

さて、此処迄に反時計回り連続説で連続する二十一国が全て比定され、邪馬台国へ至る道程上の六国を足して重複する奴国を引いた二十六国に首都邪馬台国を加えると、女王国連合=倭国の構成国は計二十七国となります。ところが『魏志倭人伝』には「今使驛通じる所三十国」と記されています。
 過去の研究者はこの三十国を概数と考えた者と実数と考えた者が居る様ですが、実数と考えた者は二十七国に奴国を重複させ、投馬国を含め、何故か倭国の敵国狗奴国迄をも含め、三十国に合わせています。

 しかし実際には当時魏に朝貢していた倭の王は卑弥呼だけだったので、使驛通じる所三十国は全て倭国の構成国でなければなりません。狗奴国のような倭国の敵国は魏に朝貢していないので、三十国に入れてはいけないのです。すると使驛通じる所三十国は『魏志倭人伝』に國名の紹介される二十七国だけでは、どうしても三国足りなくなります。

 そんな中、私は国名の解っている小国二十七国の入った倭国地図を作成していたところ、郡使の滞在する 伊都国から遠絶な豊後国の東部と南部にどうしても三箇所の空白が残ることに気付きました。そこで私はそ の三カ所の空白こそが残る三国の倭国の構成国であり、其の余の傍国ではないかと考えました。

 其の余の傍国三国を加えると、使驛通じる所三十国が全て出揃うことになります。しかし其の余の傍国の国名は『魏志倭人伝』は記されないので、当時の国名は後世の郡名から推測することになります。

以下;其の余の傍国三国

 邪馬台国畿内説派の頭は『日本書紀』の神功皇后・卑弥呼同一人物説の影響を受けた儘で固まっており、卑弥呼時代の倭国の範囲を四~五世紀の大和朝廷勢力圏と同程度に考え、抵抗勢力の蝦夷勢力圏の東海以東と熊襲勢力圏の南九州を除く西日本の広い範囲に想定しているようです。

 しかし『魏志倭人伝』には奴国が「女王の境界盡きる所」と記されています。

 過去の『魏志倭人伝』研究では倭国を構成する二十一国を、日本全国の地名の類似する場所から研究者の好きな所に適当に比定していたので、この文の意味する処が全く理解出来ずにいたようです。 ところが【反時計回り連続説】により、倭国の首都・邪馬台国より北に倭国を構成する小国三十国が並んでいたと考えると、対馬国や壱岐国、当時九州本土と浅海で隔てられていた斯馬国等の島国を除くとこの文から奴国がそれより北の倭国に含まれない国々との境界を成していたことになります。 二万余戸を有する大国奴国は現在の福岡市・春日市・那珂川町辺りにかけて拡がっていました。

 福岡市の北には糟屋郡新宮町が隣接しています。新宮町は奴国王の出自と推測される安曇族発祥の地とされることから奴国の範囲内と思われます。福岡市の東に隣接する糟屋郡(宇美町・志免町・粕屋町・須恵町・ 篠栗町・久山町)は海人住吉族の支配する不彌国に含まれていたものと思われ、こちらも倭国の勢力圏に間違いありません。

 奴国の北端糟屋郡新宮町の更に北には、古賀市(旧糟屋郡古賀町)を挟んで、旧宗像郡に含まれる現在の 福津市、宗像市があります。私は宗像市、福津市、古賀市辺りは卑弥呼の時代は宗像国の領域で、宗像国は女王国連合=倭国には含まれず、倭国に対立する国だったと考えています。

 ここで直ぐに思い出されるのが『記・紀』にある天照大神と素戔嗚尊の誓約の神話です。

 誓約では天照大神が正勝吾勝勝速日天忍穂耳命以下の五男神を得たのに対し、素戔嗚尊は宗像三女神を得ています。すると宗像三女神を祀る宗像国は、卑弥呼=天照大神系の女王国連合=倭国=高天原の一員ではなく、素戔嗚尊-大国主命系の連合国、芦原中国の一員と考えるべきだと思われます。 漢霊帝の光和年間末(AD184)、天岩戸事件=倭国大乱が卑弥呼=天照大神の共立で終わると、卑弥呼の前 の倭王だった伊都国王の素戔嗚尊は高天原=倭国を追放されて出雲国に降臨、越の八岐大蛇を退治すると、テナヅチ、アシナヅチの娘・櫛稲田姫と結婚し、出雲国に新たな自分の王国を築いたとされます。

 その後素戔嗚尊の娘、須勢理姫の婿となる大国主命は、八上姫の因幡国、越の沼河姫の糸魚川国を次々と征服していき、大国主命の息子の事代主が畿内登美、健御名方が信州諏訪に進出して勢力圏を拡大すると、大国主命勢力は西日本の広大な領域を占める連合国・芦原中国を形成するようになります。

 ところで『記・紀』には大国主命が宗像三女神の一人、沖津宮に座します多紀理毘売命と結婚したとも記されています。大国主命の時代、海人宗像族率いる宗像国は芦原中国の一員として、大陸の鉄や銅などの資源を求めて朝鮮半島と交流する必要に迫られ、倭国=女王国連合の支配する壱岐-対馬ルートに対抗して、独自に大島-沖ノ島ルートを開拓したものと思われます。

 さて、卑弥呼の死後、台与の時代になると、倭国は積極的に国土拡張政策に着手したようです。 台与=二代目天照大神は武御雷を大将とする軍を芦原中国の首都・出雲国に派遣して攻撃し、大国主命を降伏させ、国譲りさせています。同時に芦原中国の統治に天稚彦を送り込むが夭逝した為、義兄の長脛彦命が芦原中国を統治するようになります。私は天稚彦と饒速日尊は同一人物だと考えています。

 次に倭国の南側の境界に関しては『魏志倭人伝』に其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王とあり、女王国連合=倭国に属さない狗奴国の存在が記されます。狗奴国はその名称からも球磨国=現在の熊本県と考えられ、官の狗古智卑狗=菊池彦の名にもそのことが現れています。

 狗奴国は南の投馬国=殺馬国=薩摩国と大隅国、東の日向国と所謂熊襲・隼人連合を形成し、女王国連合 =倭国と対立していたと考えられます。すると熊襲・隼人連合=狗奴国の領土は北の女王国連合=倭国と同程度となり、狗奴国が倭国と互角以上に戦えた理由が解ろうと云うものです。

 台与は天孫瓊瓊杵尊を日向国高千穂に降臨させて狗奴国を背側面から攻めさせ、遂に宿敵狗奴国を従えて九州統一を成し遂げたようです。この回り込み作戦は神武東征時に最初長脛彦命軍と正面衝突して負けた後に熊野国へ回り込んで背面から攻めて勝っていることからも、倭国軍の得意戦法だったようです。

 瓊瓊杵尊の子の彦火火出見命は日向国美々津海岸から船出し、東征の旅に出ます。東征軍が畿内に攻め込むと饒速日尊の子の宇摩志麻治命は叔父の長脛彦命を殺し、東征軍に降伏します。これで漸く倭国は芦原中国を全て支配下に納め、倭国の勢力囲が西日本全体に及ぶことになります。彦火火出見命は畿内登美の地で、神倭磐余彦火火出見命と改名し、初代神武天皇として即位しました。

 神武天皇は倭国の首都・邪馬台国を筑後山門から畿内登美に遷都しますが、都の名は筑後の山門(やまと)の名を移して、畿内の山門(やまと)としました。その後読み方は其の儘に文字だけを国名の倭国を持ってきて、大倭国と書かれるようになるが、倭は蔑字なので良字の和に変え、『記・紀』の編纂される飛鳥時代 迄には国名も首都名も大和と書き、(やまと)国と読む様になったようです。

江戸時代以降、長きにわたり様々な説が浮上し、いつまでも決着がつきそうになかった邪馬台国論争。
それは論者の多くが『魏志倭人伝』を軽視、あるいは無視してきたことが原因となっているにちがいありません。

邪馬台国は『魏志倭人伝』に記載される国であり、その解明にあたり『古事記』『日本書紀』などを読んでも意味がありません。

陳寿の意図を尊重した解釈に努めるにあたり、三通の「倭国報告書」を明確に区分する必要があります。
『魏志倭人伝』の著者(陳寿)を正しく理解することで道が開けていくのです。

これまでの“都合の良い解釈”や“読み替え”を行わず、本書では『魏志倭人伝』を正しく解釈すれば、矛盾なく「邪馬台国」へ辿り着けることを証明していきます。

【目次】

序章 『魏志倭人伝』を陳寿の考えたとおりに解釈すれば邪馬台国の本当の姿が見えてくる
第一章 邪馬台国論争の黒歴史
第二章 【邪馬台国の女王卑弥呼】ではなくて【倭女王卑弥呼】
第三章 古田武彦説批判
第四章 『魏志倭人伝』で使われている里程は文献上の長里ではなくて短里
第五章 邪馬台国宮崎説
第六章 郡(帯方郡)より女王国(邪馬台国)へ至ること萬二千余里
第七章 過去の論者が誰も気付かなかった景初三年に派遣された(仮の)帯方郡使
第八章 投馬国の位置を比定する
第九章 伊都国から南投馬国に至ること水行二十日と南邪馬台国へ至ること水行十日陸行一月
第十章 反時計回り連続説
第十一章 女王国(邪馬台国)の北に連続して並んでいる二十一国を全て比定する
第十二章 其の余の旁国と使驛通じる所三十国
第十三章 次に奴國有り、此れ女王の境界尽きる所なり。
第十四章 卑弥呼の魏朝献年は『魏志倭人伝』に記されるとおりの景初二年
第十五章 卑弥呼の使者が帯方郡及び洛陽を往復するのにかかった日数
第十六章 卑弥呼が魏に朝献した理由
最終章 『魏志倭人伝』全訳