今日は、多元的な歴史の見方で捉えたら、三世紀の卑弥呼の時代、四世紀の神功皇后の時代がどのように解明できるかという問題意識で、お話してみようと思います。

 邪馬台国論争は、多元論か一元論かの対立です。つまり畿内大和に邪馬台国があったとしたら、邪馬台国連合の版図は筑紫の伊都国や奴国、不彌国などを含んでいることになるので、筑紫から畿内大和まで統合された一つの国だったという主張を含むことになります。それに対して筑紫(九州)に邪馬台国があったとすると、邪馬台国連合も筑紫内部の部族連合だったことになります。そうなると出雲や畿内にも別の部族連合があったと考えられますから、多元論で大八洲の古代史を捉えることになります。

 四世紀には、景行天皇の御子成務天皇の志賀高穂宮と、小碓皇子の御子仲哀天皇の筑紫香椎宮が並立し、倭国は東西に分裂していました。記紀ではその経緯が隠蔽されています。分裂した仲哀天皇の方が倭国を統合するので、分裂はなかったことにしてあるのです。これも大国主命の出雲帝国の時のように大八洲に強盛を誇る帝国ができれば、海原(対馬・壱岐)や高海原(伽耶)はそこに呑み込まれてしまうということで、景行天皇の没後、倭国が東西分裂を起すにように工作があったのです。ところが記紀は天皇中心の中央集権的律令体制の中で編纂されたので、建国以来大八洲の統合支配を貫いてきたかに書かれているのです。

「投」の字と「殺」の字は旁が同じです。楷書なら見間違えることはないと思いますが、草書だと見間違えたかもしれない。そう考えたのが書道家で歴史学者の井上悦文さんです。

 それで「投馬国」は実は「殺馬国」だったのではないかということですね。『魏志倭人伝』の地名は倭人の発音を魏の使者が聴きとったもので、漢字は音しか表していません。それで「投馬国」は、不彌国か伊都国から南に水行二十日です。「南至投馬國水行二十日」とありますから。つまり九州北岸の国から南に水行二十日なら九州南端部ということになりますから「殺馬国」は「薩摩国」のことだとだれでも思いますね。

 ただ邪馬台国畿内説の人は山陰や山陽に投馬国を求めます。「南」は「東」の間違いだったという仮説に基づいてるわけです。「投馬」と「但馬」は音が似ていないので、字の見間違いでしょうか?それも強引すぎますね。

 「投」と「殺」の下書き草書体の見間違い説は、「對馬」を「對海」、「一支」を「一大」に草書体での読み間違いで説明がつくので有効だと分かります。肝心の「邪馬臺国」が「邪馬壹国」になっているのも下書きが草書体だったためという説明で納得がゆくわけです。『隋書俀國伝』も「俀」と「倭」は草書体では区別しがたいことが原因ということです。 

 これだけ応用が利き、しかも説得力があれば、当然使わない手はないですし、この井上悦文さん(画像下)の問題提起を無視して議論しても、だれも納得してくれないのじゃないでしょうか。

 それで「投馬国」は「殺馬国」で「さつま国」が南九州にあったとしますと、「南」は「東」と読み替えるという畿内説の大前提は崩壊しますから、邪馬台国畿内大和説は成立ちません。たとえ箸墓古墳の築造が卑弥呼の没年に一致しても、筑紫倭国に匹敵する畿内大和倭国が存在し、没年が卑弥呼と同じ大王あるいはそれに匹敵する王族か豪族の墓と言えるだけです。

 つまり少なくとも畿内以西は初代磐余彦大王以来統合されていたという一元論的な仮説は破綻しているのです。

 また同時にこれまで磐余彦東征には中国の史書に関連する記述がなかったわけですが、「さつま国」が実在していた裏付けが与えられたわけで、それなら筑紫倭国の大王として出征したかに書かれている記紀の記述は粉飾で、「さつま国」からの出征であることが分かります。しかも「さつま国」が全体として東征したのではなくて、さつま国は三世紀にも続いているので、親族か何かに任せて、出征したことも分かります。

 次に「さつま国」の表記ですが、「薩摩」は七世紀末以降に長江流域のトン族の薩神説話を参考に作られた表記です。薩神は薩瑪(さつば)とも言われます。薩瑪が「薩摩」の由来なのです。「薩」は祖母つまり国の生みの親ということですね。「瑪」は「大いなる」という意味です。だから「薩摩」は「大いなる古祖母」の国ということで、「さつま国」は女王国として始まったことが分かります。

 ただし七世紀末だと「薩摩国」は伝承の古祖母の国でいいのですが、三世紀や国が誕生した一世紀初頭では「さつま国」は古祖母では似つかわしくありません。それに薩摩國という表記はトン族神話を知らないとできないわけで、遣隋使、遣唐使による成果ですね。

 日向に都萬(つま)神社があって、そこに木花開耶姫(木花之佐久夜毘売)が祀られています。都萬は妻を意味するのです。そこから「さ妻国」ということが分かります。「佐妻国」ではないかという解釈もあります。つまり国を建てて、木花開耶姫とその子供たちを助けるという意味です。

 しかし古祖母の国というイメージからは、建国の主体が木花開耶姫で、女王国だったと思われますから、「佐妻国」より「妻国」に近いですね。だとしたら「さ」は「小」にして「小妻国」がぴったり来ます。「小」が接頭につくと「小さい」という意味ではなく美称になり「可愛い」「愛しい」を表すのです。木花開耶姫は絶世の美女だったということですから、「小妻国」で決まりです。

 磐余彦は、木花開耶姫の曽孫ですから、「小妻国」から東征したことが分かります。つまり邇邇芸命の正嫡として筑紫倭国の大王として、筑紫全体を率いて東征したわけではないのです。

 それに小妻国が『魏志倭人伝』に「投馬国」と誤記されているということは小妻国も東征でなくなったわけではなく、戸数が五萬余戸で邪馬台国の七萬余戸に匹敵する筑紫倭国の中の強盛な国だったことが分かります。

 ですから磐余彦一族は小妻国の勇士を率いて東征に出立したけれど、それほど大軍ではなかったということです。『古事記』によると16年かかって難波の埼に到達します。それを『日本書紀』で4年足らずに短縮しています。

 おそらく大軍を率いて筑紫国全体が東征して国の中心を大和に遷したのなら、移動に10年以上もかかったら兵糧の調達ができないので、短縮したのでしょう。ですから少数精鋭で出立したので、安芸や吉備でそれぞれの地方を治め、兵備を整えて歳月をかけて膨れ上がって難波に到達したのではなかったかと想像されます。

 ですから饒速日王国を最終的には攻め滅ぼして、河内・大和を領有する国を建てたわけですが、決して畿内以西の大八洲を統合支配したわけではなかったということです。筑紫倭国はそのまま続いていましたし、小妻国も『魏志倭人伝』で「投馬国」として存続しています。

 ところで女王卑弥呼を女神アマテラスの化身のように受け止めている人が居ますね。その典型が安本美典さんです。卑弥呼を「日の巫女」と解釈し、日の巫女は日と一体化するので、天照大御神の現人神だったと考えるのです。しかしそうなると卑弥呼は2世紀後半から3世紀中頃の人ですから、1世紀末に東征を開始した磐余彦の六代祖先というわけにはいかなくなりますね。

 それで磐余彦東征を四世紀初頭に持ってきます。つまり初代神武天皇と十代崇神天皇は実は同一人物だったという解釈に乗っかるのです。両方とも「ハツクニシラススメラミコト」と同じ称号で呼ばれたからだというのです。二代目から九代目までは、事蹟がほとんど書かれてないので欠史八代と呼んで架空の人物と見なしています。

 しかし、神武天皇の場合は「始馭天下之天皇」と書き、崇神天皇は「御肇國天皇」と書きます。それは記紀の『日本書紀』の編纂者は、初代神武天皇の御代から天下が統合されていたと言いたいので、「はじめて天下を馭した天皇」と称え、崇神天皇の場合は長い大物主神(実は大国主命)の祟りの疫病が収まって、国の秩序を肇て取り戻したという意味で「御肇國天皇」と称えたので趣旨が違いますから同一人物とは言えません。

 それに神武天皇は建国、崇神天皇は国の立て直しという大きな業績があったので、記事も多いわけですが、二代から九代はなにぶん記紀編纂時からは古い昔のことなので、口伝のためにほとんど残らなかったと考えられ、欠史だから非実在とは限らないのです。

 それに卑弥呼が天照大御神で崇神天皇が神武天皇なら、その間6世代ありますが、安本さんは時代が遡ればさかのぼる程、王位継承の間隔が短くなるので、三世紀は10年平均で王位継承しているから六世代離れていてもいいと言います。しかし歴史伝承では直系で六世代ですから、10歳で子供を生んでいることになります。どこかで親子ではなく兄弟継承だったことを言えないといけませんが、天照―忍穂耳ー邇邇芸ー火遠理ー鵜草葺不合ー磐余彦のどこが親子ではなく兄弟だと言えるでしょう。無理ですね。

 それに日の巫女というのなら太陽神らしい祭祀をした筈ですが、『魏志倭人伝』に伝わる卑弥呼の祭祀は太陽神らしいものはありません。

 ただ魏の皇帝から『親魏倭王』の金印を授かると共に銅鏡百枚を授かり、その鏡を邪馬台国連合を構成する豪族に配ったようです。鏡だから太陽神信仰と関連する可能性もありますが、呪術や占いにも使われていたでしょうから、鏡だけで卑弥呼が天照大御神の化身というのは説得力がありません。

 それから卑弥呼の最晩年に日食が起こり、太陽神としての力が衰えたとして、卑弥呼が殺されたのではという解釈もあって、話題になりましたが、筑紫北部や畿内では皆既日食ではなかったことが判明しまして、卑弥呼の権威がそのために弱まったという説も説得力がなくなりました。

 要するに天照大御神が高天原の主神で、それは畿内大和でも筑紫でも天照大御神が神代から主神として崇拝されていたという思い込みがあるから色々誤解されているのです。それは前回の講義でお話したように、天照大神が高天原に上げられたという説話は、七世紀初頭に厩戸王が摂政の時代に改変されたものです。天照大神は河内・大和に天照王国を建国していたのです。

 筑紫倭国を作ったのは月讀命です。卑弥呼の時代は筑紫山門に筑紫倭国の中心を遷したのです。ですから高海原の主神としては天之御中主神が崇拝され、大王家の祖先神としては月讀命が祭祀されていました。それで卑弥呼の祭祀も夜に行われていた可能性が強いようです。

 ですから「卑弥呼」は「ひのみこ」の表記ではなく、「ひめみこ」の表記なのです。いわゆる「ヒコ・ヒメ」制が倭国では伝統的に見られたといいます。男女一組で、どちらかが専ら祭祀を担当し、どちらかが日常政務を担当していました。伊邪那岐・伊邪那美は夫婦神で、スサノオ・ツクヨミは弟・姉の兄弟神ですが、宇気比で夫婦にもなっているわけです。邪馬台国では「無夫壻 有男弟佐治國」とありますから、卑弥呼が鬼道で祭祀を担当、弟が実際政務を執っていたということです。もちろん女王に最終的な決定権があったでしょうが。

 男王が政治を担当する場合に、祭司は男王の正妃が担当することがあります。それも「ヒコ・ヒメ」制です。大和橿原の磐余彦大王の場合は大国主の娘である五十鈴媛を正妃にしたのは三輪山伝承で相当の神威が認められたからでしょう。

 では邪馬台国は何処にあったのかと問いたいところですね。邪馬台国というのは魏の使いが聞き取ったのを当て字で書いたもので、邪馬台国は正しい読みではありませんし、字も間違っています。だから「邪馬台国」などなかったわけです。ちょうど「投馬国」などなく、あったのは「小妻国」というようなものです。

 だから「邪馬台国」に似ていてありそうな音に直して、そこが行程から見て妥当かどうか考えればいいわけですね。「ヤマタイコク」は「ヤマトコク」に似ているから畿内大和ではないかというようにです。ただ畿内大和は南を東に読み替えたりする必要がありますし、投馬国が小妻国と分かるととても正しいとは言えません。ただし「ヤマトコク」なら筑紫「山門国」もありますから、それが妥当かどうか検討すべきです。 

 そこで「邪馬臺国」ではなく「邪馬壹国」だという説がありますから、その誤解を解くのが先です。『魏志倭人伝』にはたしかに「邪馬壹国」とあり、「邪馬臺国」とは書いていません。古田武彦先生は『三国志』に「壹」と「臺」の書き間違いの例は他に一度もないから「邪馬壹国」が正しいと言いますが、「邪馬壹国」の用例は一度だけなので、「邪馬臺国」に関しては100%間違っているとも言えます。他の史書では「邪馬臺国」に改まっているので、下書きは「邪馬臺国」だった可能性が高いのです。それに「壹」と「臺」の草書体は極めて紛らわしく、清書する人が知識が乏しいと間違えても不思議がありません。

 「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」 と『魏志倭人伝』にあるのですが、連続説でいくと「投馬国」=「小妻国」から南に行って太平洋のど真ん中になってしまいます。

 「自郡至女王國 萬二千餘里」とありますので、上の表に従って計算しますと、伊都国から邪馬台国までの距離は
12000里-10500里=1500里になります。
1里=87.3mだと約130kmです。直線距離だと筑紫山門を超えてしまいますが、当時の道のりだと筑紫山門でちょうどいいと考えられます。

 さて筑紫倭国の歴史は記紀には全くと言っていいほど出てきません。邇邇芸命と木花開耶姫の話は『魏志倭人伝』の「投馬国」に痕跡を遺しているわけですが、邇邇芸命が高千穂峯に天下りしたとか、高千穂宮で政治を執ったというのは、後世の創作です。筑紫倭国の中心は西暦一世紀の段階では博多湾の周辺だったわけですから。その後二世紀になって南下して筑紫山門に中心を遷しました。そこに卑弥呼が君臨していたのですが、その伝承は抹消されています。それに卑弥呼没後、邪馬台国が東遷して崇神天皇の時代に大和政権が誕生したという説があります。

 しかし邪馬台国が東遷したとしたら纏向遺跡の土器に三世紀後半から筑紫製造の土器が急増する筈ですがそういう傾向は見られません。

 だとしたら、饒速日王国はそれまで続いていたのか、大国主の出雲帝国はアマテラスよりも古いのかとかいろいろごちゃごちゃになってしまいますね。だって安本美典さんは、卑弥呼=天照大御神説を唱えていますから。

 もし卑弥呼が大和政権の女王だったら記紀に記されていないのは、納得いきませんね。大和政権は一応継続しているわけですから。それが卑弥呼が筑紫倭国の女王だったとしたら、筑紫倭国については卑弥呼だけでなく、ほとんど伝承されていないので、別に記紀に記されていないのは不思議ではありません。

 ただ景行天皇の筑紫遠征の記事は、『古事記』には書いていないわけですね。それで筑紫遠征はなかったのではとか、そもそも景行天皇というのも架空の人物ではという人が居ます。疑い始めたら切りがなく、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后などの話は全て七世紀後半の斉明天皇の時期の創作ではないかと、歴史の大ナタにあらず、大消しゴムで消し去ろうとするのです。

 確かに西暦四世紀の同時代についての確実な史料特に景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后についての物証があるかということになると、自筆の書簡とか大王名が記された玉璽とかがあるわけでなく、いくらでも疑えます。しかし自然科学と違って、ほとんど後世になってから文章化された伝承を頼りに、その矛盾点を整理して、どういう改竄がなされた突き止め、再構成していくというのが方法の古代史学では、デカルト的な方法的懐疑を採用すべきではありません。

 2019年に萬100歳で亡くなられた直木孝次郎先生は戦後史学を牽引されたわけですが、七世紀末に四世紀の英雄たちの話が創作されたという解釈ですね。彼がその際に、名前が単純すぎることを根拠にされます。景行天皇は「大帯彦(おおたらしひこ)」と呼ばれたわけですが「たらしひこ」は「(王としての徳を)たらす貴人」という意味で「大王(おほきみ)」と同じ意味です。するあとは「大」だけで、立派なとか偉大なという意味です。だから「大帯彦」は「偉大な大王(おほきみ)」となり、ただ筑紫遠征をしたので偉大な大王と呼んでいるだけで、いかにも歴史物語でとってつけたような名前だ、きっと架空の人物だろうというような理由づけで、架空説を主張していたのです。

 成務天皇も「稚足彦(若帯彦)」で「わかい」という部分が固有名です。「若き大王」という呼び名です。仲哀天皇は「帯中彦(足仲彦)」ですが、景行天皇と応神天皇という二人の大英雄の中継ぎとなった「中の大王」という意味の呼び名なので、要するに作り話歴史物語に相応しい、とってつけた名前でやはり架空の人物だという云い方です。

 確かにそういう印象を持たれてひょっとして架空の人物かとインスピレーションが湧き、それから架空だという証拠を見つけ出すというなら、研究のプロセスとしてそういうのも分かりますが、直木先生は名前の単純さを根拠に議論を展開されたのです。これは駄目ですね。名前が単純でも実在した人はたくさんいるわけで、「大」と「若」とか「中」という名前は大いにあり得る名前です。

 景行天皇の筑紫遠征は、『日本書紀』にはあるが『古事記』にはないので、歴史を粉飾するために入れたフェイクな話ではないかという議論もあります。これは大変微妙な問題ですが、倭国東西分裂があり、一応皇統は成務天皇の方ではなく、小碓王(ヤマトタケル)の御子仲哀天皇の方に引き継がれています。それでヤマトタケルが悲劇的な英雄として熊襲や蝦夷を制圧したことになっており、その際に景行天皇は、ヤマトタケルを恐れて熊襲や蝦夷に殺させようとした敵役みたいになっているわけですね。それで景行天皇の熊襲制圧の話を載せるを避けたのではと解釈されます。

 でもそれでは熊襲を制圧して西日本を統合した景行天皇の歴史的事蹟を抹消することになり、あまりにも酷い歴史の抹消だということで、『日本書紀』では景行天皇の筑紫遠征を復権したわけです。そして『古事記』にあった景行天皇が小碓王子を熊襲や蝦夷に殺させようとするような葛藤は描かれていません。

 それで景行天皇の筑紫遠征は史実かどうかですが、その前提になるのが、筑紫が熊襲によって制圧され、筑紫倭国が滅亡したことです。それは筑紫倭国の歴史が、邇邇芸命の次の大王からだれだか分りませんし、邇邇芸命も博多湾周辺に都があった筈なのに、高千穂宮に君臨したりしていて、全く史実とは程遠くなっています。それは歴史が口誦伝承されていて、語部が熊襲の筑紫制圧に伴い、みんな死んでしまったからとしか思えません。

 では筑紫倭国を滅ぼすだけの力のある熊襲を、畿内大和から遠征した景行天皇がどうして制圧できたのでしょう。それは熊襲の内戦を利用できたからです。
 狭い意味の熊襲は、球磨川周辺の球磨族と熊本・宮崎・鹿児島の県境付近にいた襲(贈於)族から成っていました。それで球磨族としては、筑紫倭国の都山門を攻め落とすためには、後顧の憂いをなくすために、先に小妻族を討とうとしたのです。それで襲族と球磨族が南下したので、筑紫山門も熊襲滅ぼすチャンスだと南下作戦をとったのです。それで筑紫山門ががら空きになったので、豊前・豊後の反倭人勢力の女王だった神夏磯媛が配下を率いて、筑紫山門を占領してしまったのです。結局、小妻国も筑紫山門も全滅しました。

球磨族も贈於族も神夏磯媛の覇権を認めず、内戦になってしまったので、神夏磯媛は追いつめられて、大帯彦大王の麾下について、畿内大和政権における筑紫支配に協力し、筑紫での権益を得ようとしたわけです。大帯彦大王の筑紫遠征記事は創作では描けない内容があり、大帯彦大王自体が架空だとか、筑紫遠征がなかったとは言えません。
https://mzprometheus.wordpress.com/2023/02/17/na5keikou/
【日本のあけぼの 第5講 景行天皇による倭国統合】参照。

 初代饒速日神は、大国主神の出雲帝国の犠牲になりました。その息子の宇摩志麻治命は、その時、長髄彦の娘三炊屋媛の胎内にいて父の没後生まれたのだったですね。胎内にいるのは十月十日と言いますから、父の死後一年後に生まれることはあり得ません。まして父の死後34年後に生まれるなんて絶対にあり得ませんね。

 それが足仲彦(仲哀天皇)は父小碓王子の死後34年後生まれています。小碓王子が生まれたのは景行43年です。景行60年に景行天皇崩御しました。成務即位48年に足仲彦31歳です。つまり成務即位後17年で誕生したことになります。それは小碓王子死後34年後に当たるのです。ですから最低でも34年は足仲彦の誕生を遡らせる必要があります。そうすると成務天皇が志賀高穴穂宮で君臨していた頃に、仲哀天皇は筑紫香椎宮で君臨していたことになります。つまり倭国は東西分裂していたのです。

 しかし戦後史学では成務天皇も仲哀天皇も架空のだったとして、創作上のミステイクと考え、倭国東西分裂の仮説はシカトされたままです。WEBで検索するとこの時期の倭国東西分裂は私以外取り上げていないようです。

 上古の天皇系図では成務天皇までは直系相続ですが、成務天皇は甥の仲哀天皇に相続しています。もちろん王子が居なければ、已むを得ませんが、和謌奴氣王という王子がいたのです。しかし『日本書紀』には書かれていません。成務天皇についての記述は少なく、あまり触れたくないようなのです。ただ豪族を序列付けしようとしたために、トラブったことをうかがわせる記事があります。

自今以後、国郡に長を立てて、県邑に首を置け。即ち国之幹了者(をさをさしきひと)を取り当てて、其の国郡之首長(ひとごのかみ)を任(おほ)せて、これ中区(なかつくに)の蕃屏と為さしめよ」とのたまふ。

 これでは少しでも序列が高い身分になりたくて、勢力を示そうとし、近隣とトラブル者が出て、争乱が各地に勃発することになります。それで立案者の建内宿禰に責任を押し付け、武内宿禰が足仲彦と計って、クーデターを起こそうとした謀略の一環だというシナリオで二人を処分して片を付けようとしたのです。それに感づいた二人は、捕まる前に海原の水運で逃亡し、筑紫に西朝を建てたと思われます。

 この改革案は建内宿禰の立案だったと思いますが、それが不評を買ったので、海原(対馬・壱岐)を率いていた住吉明神が、謀略だったかに成務天皇に告げ口し、成務天皇が二人の排除に動き出すと、二人に成務天皇の動きを告げて、筑紫に逃げさせ、西朝政権を建てさせたお膳立てをしていたのです。

 なぜなら景行天皇によって統合された倭国がこのまま強盛大国になれば海原や高海原が呑み込まれてしまうと考えたからです。そういう推論はみんな私の勝手な妄想と思われそうですが、仲哀天皇即位2年正月に、息長帯媛を皇后にして、翌月彼女の母の祖先縁の角鹿(敦賀)に行き、三月には媛を置いて、紀伊に行き、そこで熊襲が叛いたという知らせを聞くと、一旦宮にかえって兵備を整えて出陣しないで、直接徳勒津から穴門(下関)に海路むかっています。そして角鹿にいた媛を呼び寄せています。
 なぜなら景行天皇によって統合された倭国がこのまま強盛大国になれば海原や高海原が呑み込まれてしまうと考えたからです。そういう推論はみんな私の勝手な妄想と思われそうですが、仲哀天皇即位2年正月に、息長帯媛を皇后にして、翌月彼女の母の祖先縁の角鹿(敦賀)に行き、三月には媛を置いて、紀伊に行き、そこで熊襲が叛いたという知らせを聞くと、一旦宮にかえって兵備を整えて出陣しないで、直接徳勒津から穴門(下関)に海路むかっています。そして角鹿にいた媛を呼び寄せています。

 大王が熊襲平定に筑紫に出陣するというのに、都に戻り兵備を整えずに、海路直接穴門に向かうでしょうか。結婚してすぐ角鹿に向かい、それから紀伊にというのも都から逃れているように見えます。これらはやはり成務天皇の治世で、追われる身になって、息長帯媛の縁故を頼り、海原の水運を頼んで、筑紫に逃れたのが真相だったのではないでしょうか?

 ただ始めから筑紫香椎宮ではなく、長門の穴門宮で6年居たということは筑紫にまだ倭国西朝に合流をためらった倭人の国があったということでしょう。

 もし熊襲が叛いたので制圧するために長門に来たのなら、筑紫に入らないと熊襲を討伐できないわけですから、6年も長門豊浦宮にいたというのは不合理です。6年かけて筑紫の倭人の豪族たちの帰順を促し、やっと倭国西朝の宮を博多湾の香椎に置くことができたということです。もちろんこの帰順を促すのに海原勢力の工作があった筈です。海原の水運が利用できなければ、交易が出来ず、経済的に運営が難しくなるのです。また熊襲勢力に対しては、倭人諸国はバラバラで対処するわけにはいかず、倭国西朝の権威を受け入れざるを得なかったのです。

 それで景行天皇を豊浦に神夏磯媛が三種の神器をもって迎えに来たのに倣って、遠賀川の河口の岡の県主祖熊鰐が三種の神器で迎えます。伊覩縣主祖五十迹手(いとで)も三種の神器をもって穴門引嶋に迎えています。それは倭国西朝が筑紫の倭人たちに正式に国家としての権威を確立できたということでしょう。

 足仲彦大王(仲哀天皇)にとったら、畿内から追われて筑紫で倭国西朝を立ち上げたものの、筑紫で熊襲の抵抗を鎮めて、その上で、畿内の稚足彦大王(成務天皇)の倭国東朝を倒して倭国の再統合計りたいと考えていました。

 しかし倭人は津では強く、平野でも新鋭武器で有利に戦えても、山林などの戦いでは熊襲にはとても歯が立ちません。これではいつ畿内に戻れるか分からないわけです。それで大胆な発想の転換が必要です。つまり海の向こうの新羅を攻めて、そこからたんまり財宝を取り上げ、それで熊襲を懐柔し、熊襲のゲリラ戦の能力を利用して、倭国東朝を攪乱し、弱らせた上で、東征して西日本を再統合するのです。

 そんな奇策をまだ20歳そこそこの息長帯媛がひとりで考え付くわけがありません。それは海原の水運を率いていた住吉明神の入れ智恵です。おそらく角鹿から穴門にオキナガタラシヒメを運んだのは住吉明神だったのです。その際に熱心に高海原(伽耶)や海原(対馬、壱岐)のことを説明したと思われます。

 当時、筑紫倭国が熊襲に滅ぼされる時に、伽耶と海原は筑紫倭国を救援しようとしたのですが、あえなく筑紫倭国は滅亡してしまったのです。それで伽耶はかなり弱体化したので、まだ出来たばかりの新羅に蚕食されていたのです。それで今の内に新羅を叩いておかないといけないということで、新羅侵攻を伽耶が考えていたのです。それには弱体化した伽耶の武力だけでは足りないので、倭国西朝の参戦が必要だという話です。

 もちろん住吉明神は、それが倭国西朝にとっても、熊襲制圧がうまくゆかずにもがいている状況を突破する唯一の方法だということを強調した筈です。新羅は財宝があり、そこから持ち帰った財宝で熊襲を買収して、ただ和解するだけでなく、倭国再統合のための攪乱戦の要員として熊襲を使うと、うまくいくだろうというようなことも入れ知恵したのです。

 おそらく住吉明神は伽耶・海原・大八洲の倭人諸国のことに精通しているので、息長帯媛には非常に説得力がありました。それで宮が香椎宮に移り、政権の地盤が固まったところで、足仲彦大王を説得しようということになったわけです。

 朝廷の祈禱や占いを行う沙庭で息長帯媛が神がかりしている場面で話さないと、息長帯媛の言葉に耳を貸す筈がありません。

 「西の方に國あり」で新羅のことを言っているのですが、大王(仲哀天皇)からすれば香椎宮のある博多湾から西の方は海しかないので、この神偽りを言っていることになります。そのことに息長帯媛は気づかなかったので、神のいうことを聞けないようでは、大王としての資格がないので、つい「死んでしまえ」と悪態をついたわけです。「一道」というのは決まった道ということで、死が決まった道なので、婉曲に「死ね」と言っているわけですね。それで神懸って言っているので、神に言われたと思ってショックで本当に死んでしまったということです。

 この話は後世の創作では作れない内容になっています。一つは西の方角に新羅があるという間違いは、角鹿から見て西に新羅があるわけで、角鹿にいた時に新羅の話を聴いていて、西の方にあるという刷り込みがあったからです。だからこういう間違いは後世では思いつかないので、リアリティがあるのです。

 それから息長帯媛に憑依している神は住吉明神で、住吉明神が天皇に「死んじまえ」と罵っています。これも後世、特に創作されたとされている七世紀末では、中臣神道が完成していて天皇は天照大御神に次いで偉い神ですから、そういう発想では書けません。四世紀後半だとまだ高海原があり、倭人諸国の宗主国的な地位にありました。住吉明神は海原(対馬・壱岐)の棟梁として高海原の意向を倭人諸国に伝える立場なので、大王に教え諭し、命令できたわけです。

 ですから『日本書紀』では「一道に向かへ」とは言っていませんから、その場では死なず、その後熊襲と戦って勝てず、翌年春二月急死しています。享年52歳というのは倍年暦としたら享年26歳だったということです。

 それで私は創作では書けないことが書いてある『古事記』の方が信憑性があると受け止めます。ショック死というのは可能性としては少ないので、「死んじまえ」と言われて、頭にきた大王が刀を抜いて斬りかかってきたので、その場を隠れて覗き見していた住吉明神が飛び込んで来て、もみ合い大王の刀を奪おうとして誤って殺してしまったという解釈をしています。それなら建内宿禰も事を穏便に収めようとしますね。

 大王の息子は麛坂皇子と忍熊皇子が居ますが、それを畿内から連れて来て、大王につけていたのでは、差し迫った新羅侵攻に支障があるので、できれば差し当たりは息長帯媛(神功皇后)が代行して欲しいところですね。それで息長帯媛も仲哀天皇を角鹿に逃すところから支えて来たので、今更権力は手放したくありません。できれば自分の息子に継がせたいということで、突然、自分は大王の御子を宿しているから、その子に継がせよというのが神の意志だと言いだします。

 しかし妊娠は暫くたってから分かるものですから、予定日をその日から春二月から十月十日というわけにはいきません。ですから九月には産み月になったとして、出産を延ばすために腹に石を当て、それを布で巻き付けて出陣します。つまり十二月に交わったことにしたわけです。

 ということは前年の9月には妊娠していたことになり、7月までに臨月になるところです。

 ですからやはり前年9月に新羅侵攻を進言したという『日本書紀』より、2月の沙庭での『古事記』の方が信憑性があります。その後で妊娠宣言したのですが、大王の子を孕んでいる自信はなくて、宣言した以上子を生まざるを得ないので、住吉明神に頼んで子を儲けたということでしょう。『住吉神社神代記』には、仲哀天皇が呪殺された日に、住吉明神と神功皇后は密事を交わしています。

 ここでは神功皇后に憑りついた神の言葉を信じなかったために天皇は急死し、その夜に皇后と住吉明神が性交したとなっています。文脈からいって、一日でも早く妊娠させないと、仲哀天皇の子だと言い繕うことができなくなるので急いで性交したということが分かります。本当なら夫が死んだばかりで喪中なのに、セックスするなんてとんでもない不倫行為ですが。これが2月で生まれたのが12月なので、やはり住吉明神の子である可能性が高いですね。 

住吉大社は二人が愛人関係にあったことを認めています。それで住吉大社の本宮配置を第三本宮上筒之男と第四本宮息長帯媛を横に並べているのは、息長帯媛が上筒之男の側にいたいからということで気を遣っているのです。

 しかしそれは表向きで実は第四本宮は元々は息長帯媛ではなかったのではと思います。と言いますのが『帝王編年記』によると神功皇后が住吉大神を住吉の地に鎮斎したことになっています。つまり元々は神功皇后の新羅遠征に力を貸した神々を、神功皇后が祀ったものです。ですから自分自身を本宮に祭るのは相応しくありません。もし神功皇后死後に住吉大社が神功皇后も祭祀するとしたら、縁の神として本宮とは別に摂社の形で祀る筈ですね。

 真っ先に天照大神があげられていますね。それで『日本書紀』では伊勢神宮に祀られている天照大神の別名を答えています。「神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉。」「神風(カムカゼ=伊勢の枕詞)の伊勢国の百伝う(モモヅタウ=何度も行き交う=度逢縣の枕詞)度逢縣(ワタライアガタ)の拆鈴五十鈴宮(サクスズイスズノミヤ)に居る神、名を撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)だ」と勿体ぶった言い方ですね。これは問われて、七日七夜経ってから答えています。

 私たちは、天照大神が高天原に上げられたというのは、七世紀以降の改竄であることを知っていますから、天照大神が倭国西朝の大王に新羅侵攻を命じることなかった筈だと思いますね。では誰でしょう。高御産巣日神は隠れた筈なのに登場していますから、天照大神に置き替えられることはありません。記紀では消されてしまった高天原の主神だった筈の神つまり天之御中主神が天照大神に差し替えられているのです。

 だから住吉大社は創建時には天之御中主神と住吉三神を祭祀していた筈です。しかし七世紀以降に隠れたことにされたので、住吉大社にも天之御中主神ではなくて天照大神を祭祀するように朝廷から要請されました。しかし住吉大社としては、それでは天之御中主神に祟られて、大変なことになると考えます。でも断ると、歴史の嘘がばれて朝廷が正統性を失う恐れがありますから、難しいですね。そこで妥協案として住吉大社の創建者の息長帯媛を第四本宮に祭祀することにしたのではないかというのが私の解釈です。

 もし息長帯媛(神功皇后)が生んだ品陀別命(誉田別命)の実父が住吉明神だったとしたら、ここで天皇家の祖先の血統は紛れているわけです。男系遺伝子説を採用するのなら、天皇家の先祖は天照大神でも月讀命でもなく、住吉明神だということになります。その意味で住吉明神は「もののまぎれ」の神でもあるのです。

 しかしあくまでも足仲彦大王(仲哀天皇)の子だったことにしたから、大王家が継続したわけですから、住吉明神に簒奪されたわけではないのです。むしろ住吉明神は住吉大社に祭祀されることによって、大和政権(河内王朝)に海原(対馬・壱岐)ごと絡めとられることになります。つまり大八洲統合まで成し遂げた大和政権の水運中心は当然難波津ということになり、そこに住吉大社を造営して、その周辺に壱岐・対馬の海人たちの拠点を遷させたわけです。ですから住吉大社は海原勢力を釣り上げる大きな餌だったわけですね。

 そのことによって、高海原(伽耶)の海原水運に対する制御力は失われ、伽耶も半島における大和政権の出先機関に実質的に成っていきました。当然、半島の国家として大和政権と切れるか、大和政権に従属的な地位で満足するかで路線対立が起き、内乱になったのです。放置しておくと百濟や新羅に侵攻されるので、四世紀末に結局大和政権が出兵して統合したわけです。

 倭国東西分裂仮説を立てますと、その再統合がどのようになされたか説明する必要があるのですが、なにぶん記紀は東西分裂がなかったようにしているので、その再統合がどのようになされたかその歴史は消されているのです。 

 ただ息長帯媛率いる倭国西朝は、新羅遠征の翌年には畿内に戻ろうとします。その時には既に倭国東朝はありません。月延石の話などがあるので、誉田別王子は父足仲彦大王の子ではないと疑った麛坂王子、忍熊王子は息長帯媛と赤子の誉田別王子の畿内入りを播磨赤石に陣地を築き阻止しようとします。

 ところが菟餓野(大阪市北区兎我野)で反乱の成否を占う祈狩(うけいがり)を行った際、兄の麛坂王は猪に食い殺されたのです。父足仲彦は享年52歳ですが、倍年暦だと26歳ですから、まだ12歳か13歳ぐらいだったかもしれませんね。

 でも弟忍熊王は決戦を挑みます。かなり善戦したようですが、相手は新羅まで出向いた兵士たちですから歯が立ちません。というより誉田別王子は既に亡くなったから、喪船で遺体を運ぶというデマを飛ばしたり、決戦中に息長帯媛が死んだから戦争は終わりだと、自ら武装を解き相手を油断させて、踊り出すほど喜ばしておいてから、髻から隠してあった弦を取り出し、弓につがえて騙し討ちをしたのです。

 この話も参考に考えますと、倭国東朝は西朝の新羅侵攻の成功を機会に麛坂王子、忍熊王子を擁して決起した叛乱軍を鎮圧しに出兵した稚足彦大王(成務天皇)が、狭い谷間かなにかに誘い込まれて、あえなく射殺され、和謌奴気王も宮中で毒殺されて後継者がいないので、士気も上がらず、倭国西朝にシンパシーを感じていた人も多かったので、結局麛坂王子、忍熊王子を迎い入れて、倭国再統合を図ろうとしたのでしょう。

 しかし麛坂王子、忍熊王子の側近たちから、どうも誉田別王子血統が疑わしいということで、息長帯媛への反撥が強まり、倭国東朝の多くが叛乱側に味方して倭国西朝軍も苦戦したということらしいです。

 ですから倭国東西分裂というのは、376年から384年までのわずか8年間だったことになります。そして東西の再統合を成し遂げた息長帯媛は、住吉大社を餌に海原倭国を釣り上げ、高海原(伽耶)の支配権も掌中にしたのです。これは後の豊臣秀吉や徳川家康でもできなかったことで、大和政権は極東の強盛国にのし上がったわけですね。しかし半島に大和政権の兵を常駐させることはなかなか大変で、持続するのは難しいようです。それでも七世紀まで半島での権益にこだわったのは、そこが元々は大八洲の倭人諸国を纏め上げていた、倭人の母国のような存在だったからでしょう。