教職倫理学講義 目次とリンク
第六講 剰余価値説及びマルクス思想の意義と限界

 1自由の哲学

何々と規定されたるその前に吾自由なり己を選ぶ

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                        ゼーレン・キルケゴール  フリードリッヒ・ニーチェ

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    カール・ヤスパース マルティン・ハイデッガー ジャン・ポール・サルトル

❏では実存主義(じつぞんしゅぎ)に入りましょう。実存主義を分類するのは先ず神への信仰を前提にする有神論的実存主義か神が存在しないことを要請する無神論的実存主義かが問われます。

❑有神論的実存主義者は、19世紀にはデンマークのゼーレン・キルケゴール(1813~1855年)で、20世紀ではドイツのカール・ヤスパース(1883~1969年)です。無神論的実存主義者は19世紀後半はドイツのフリードリッヒ・ニーチェ(1844~1900年)です。20世紀になりますとドイツのマルティン・ハイデッガー(1889~1976年)とフランスのジャン・ポール・サルトル(1905~1980年)です。

この分類はサルトルの『実存主義とは何か?』の分類ですが、ハイデッガーの場合、晩年まで神への信仰を示唆する言葉もあり、キリスト教的な超越的な人格神への信仰はなくても、存在者の根底にある存在の捉え方などは宗教的ともいえます。

❏よく欧米ではキリスト教を信仰していて当たり前で、無神論者はよっぽど異端だと思われがちですが、19世紀、20世紀は近現代ですから思想界では別に珍しいことはありません。この時代をそんなに古い時代だと思ってはだめですよ。

❏では実存主義というのはどういう思想なのでしょう。産業革命以後、資本主義と官僚制が急速に発達しました。それで巨大な社会組織の下で諸個人は個性や主体性を喪失し,物化・商品化・部品化・画一化・平均化されるようになったといわれています。

モダンタイムス
チャップリンの『モダンタイムス』

❏近代市民社会の形成に伴い、人間を主体的な人格的存在として捉えていた人々は、このような状況を人間疎外の状況だと告発し、人間性の回復を叫びました。「疎外」には本来の在り方を見失っているという意味が込められています。つまり主体性や個性を失ったらもう人間とは言えないじゃないかということですね。

 マルクス主義はその原因を資本主義体制に求め、社会変革によって人間性の解放を実現しようとしました。一方その原因を主体性の喪失に求めた実存主義はあくまで主体性の回復を追求したのです。

❏ではどうして主体性の回復の思想を実存主義と呼ぶのでしょうか。そもそも「実存(existence)」という言葉が聞きなれないですね。「本質」という言葉と対極的で「現実存在」という意味なのです。本質づけられた存在だと、個的存在である以前に同じ本質のものの集合に帰属していますね。それに対して実存は本質付けられる前の個別の立場なのです。

❏つまり何々と本質づけられ、規定される以前の生の個の立場に立って、本質に囚われずに、自由に主体的に決定し、行動しようというわけです。

❏事物存在は本質的な規定において存在していますね。例えば机だとか薔薇だとか太陽だとかのように。それに対して人間存在は自ら何であるかを主体的に選び取る存在です。中世と近代を比較しますと、中世では身分や職業が固定し、大工の子は大工と自分が何であるかは選択の余地はあまりなかったのです。近代になって人々は、多くの職業の中から自分の職業を自由に選択することがかなりできるようになったのです。

❑もちろん人間も人間としては本質的存在ですね、猫や犬と同様に。でも人間の場合は、自分が何かと考える場合に、自己のアイデンティティは何かを問い掛けます。ですから人間一般であることをいくら確認しても、自分が何か分かったことにはなりません。その前に規定されていない現存在あるいは実存であるというのです。

❏例えば教師だとか生徒だとかに決まっていますよね。そういう意味では本質づけられているようにも見えます。よく学生は学生の本分を弁えて行動すべきだと諭されます。

われら青春

❏それでも「教師」や「生徒」とは何か事細かく決められていて、すべてマニュアル通りやらなければならないということになりますと、教師はティーティングマシン、生徒はラーニングマシンになってしまいます。あとはいかに効率的に教え込むかということになってしまいますね。そのためにいろいろ創意工夫をしなければなりません。

❏もちろん人間も職業をもち、与えられた社会的任務を決まり通りに果すという面をもっていますから、そうするわけですが、しかし教師は自己の頭脳内に記憶した知識をコピーさせるだけの仕事なのでしょうか。実存主義は、そこで簡単に教師はこうだと決めつけないで、苦悩するわけです。

❏常に新たな教師像を打ち出し、既成の教師概念を壊していこうとするのが実存主義的な教師像です。常に既成の本質規定に囚われることなく、新たな人間存在の可能性を打ち出していくのが実存的な生き方なのです。また教師や生徒である枠組に囚われすぎるのも実存的ではありませんね。

❑画像は1970年代の青春ドラマ『われら青春』です。主人公沖田俊は新任教師で、生徒たちの上から教え導こうというのではなく、一緒にラクビ―の球を追いかけて、走り続けます。

主題歌「帰らざる日のために」山川啓介作詞・いずみたく作曲
生まれてきたのは なぜさ 教えてぼくらは だれさ 遠い雲に 聞いてみても
なにも 言わない だから 探すんだ きみと でかい青空の 下で
この若さを すべてかけていい なにかを

 この歌詞でも「自分がだれか」わからずに「自分探し」していますね。本質づけられる前の、まだ何ものでもない生の実存に戸惑いながら、体ごとぶつかっていきます。

❏つまり実存主義者は、まだ規定されていないので、自分で選び取るという意味で、人間存在を自由だと捉えているのです。「実存」という言葉の意味も個々の実存哲学者によって個性がありますから、具体的にキルケゴールから入りましょう。

ゼーレン・キルケゴール

2キルケゴールの大地震

神呪い不義犯したる父なれば、吾呪われし罪の子なるを
張り裂けし思いも知らで咎むるや乙女心を弄びしと

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若きゼーレン・キルケゴール

 キルケゴール(1813~1855年)はファーザー・コンプレックスだったという話から入りましょう。

❏ゼーレン・キルケゴールの父は毛織物商で商売に成功して大変な資産家でした。同時に大変敬虔なキリスト教徒だったのです。ゼーレンはそんな父を尊敬していました。でも父はゼーレンに打ち明け話をしました。それでゼーレンは大変ショックを受けたようです。このショックを「キルケゴールの大地震」と言います。キルケゴールという苗字は貧しくて墓場にすんでいたからついた「墓場」を意味する言葉だそうです。

❏父は少年時代は貧しかったので牧童をしていましたが、デンマークですから緯度が高くて、大変寒い上に落雷に襲われ恐怖と寒さでガタガタ震えていました。子供の自分をこんな目に合わせるなんてと、神を呪ったものだと打ち明けました。それに父は苦労して商売に成功し、資産家になりましたが、奥さんに先立たれて淋しかったので、女中だったゼーレンの母にゼーレンたちを産ませてしまったというのです。

 父はゼーレンの母を正式に入籍させましたから。ほほえましいエピソードと捉えてもいい話ですね。ところがゼーレンは神を呪うのは悪魔の血を引いているからだと思い、しかも結婚もせずに子供を造ったので、自分たちは不義の子だと考えたのです。別段そのせいではなかったでしょうが、兄たちが次々病死してしまったのです。それで神に呪われていると感じたのです。

デンマークの牧場
デンマークの牧場

❏お父さんにすれば、自分が神を呪わなければならないほど惨めな境遇から這い上がってきたことを息子に知って欲しかっただけで、ゼーレンの母との逸話も懐かしい思い出て、後で籍を入れているので罪の意識なんてなかっただろうと思いますね。私もそういう解釈だったのですが、最近読んだ本にはどうも父が神に呪われていると感じていたらしいのです。

❏父の宗派がキリストを殺し裏切った人間の罪を深く追求する宗派だったのです。それで自らの罪を強く意識してこの話を語ったとされています。悪魔とか不義の子だとかいうことで罪の深さを実感して、罪人を救うために人となった神イエスにすがるという信仰のありかたなのです。その話で衝撃を受けたゼーレンは、どうせ神に呪われているのだからと自暴自棄になってしまって、放蕩するようになったのです。

レギーネ2
レギーネ

❏そのゼーレンを救って、気高く生きようとさせたのが清純な少女レギーネとの出会いでした。彼はレギーネを幸せにしようと思い直して放蕩をやめ学問に打ち込みますが、突然婚約を彼の方から破棄してしまったのです。

❏彼は自分は悪魔の血を引く罪の子だ、だから神から罰を受けて悲惨な人生を背負わなければならない運命なのです。そんな自分がレギーネを幸せできるはずがないと考えたのです。不幸に巻き込むだけですね。相手を幸せにできる結婚でなければナンセンスだと考えました。それで本当に愛しているのならば、相手を不幸にさせる結婚なんてできないと思ったのです。

❏恐らく彼は激しく慟哭し、悶え苦しんだと思います。それでも主体的に生きる人間ならば、ここで決断をしなければならないと、一方的に1840年に婚約を破棄したのです。「あれか、これか」を主体的に決断するということが実存主義者の生き方では決定的に重要です。選択しないで成り行きに任せるのなら、自分が主体としての人間であることを捨てていることになります。

❑でも世間は彼の「あれかこれか」の主体的決断の苦しみなんか全く意に介さずに、キルケゴールを乙女心を弄び、一方的に婚約を破棄したひどい男として中傷したのです。それは1846年のことです。「コルサール」という大衆向け新聞が、キルケゴールから低俗だと批判されていたので、興味本位に人身攻撃をかけてきたのです。そこでキルケゴールは、いかに世間が主体の苦悩を理解できないか、水平化された大衆の虚偽性を思い知ったのです。

3主体的真理

そのために死ぬることすら吾願ふ主体の真理吾は知りたし


誘惑者の日記

❏キルケゴールと言えば、客観的真理より主体的真理の方が大切だと言ったことでも有名です。1835年8月1日、彼は日記に、こう記しました。

「私に本当に欠けているものは、私は何をなすべきか、ということについて、私自身、はっきりわかっていないということだ。・・・つまり、私自身の使命が何であるかを理解することこそが重要なのだ。すなわち神は、私が何をなすべきことを本当に欲しておられるのか。これを知ることが重要なのだ。私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生きそして死ぬことを心から願うような主体的真理を見い出すことが必要なのだ。・・・ さあサイコロは投げられた。私はルビコン河を渡るのだ!きっとこの道は私を闘争へと導くだろう。しかし私はそれを拒絶はしないだろう。」

 さて、教職倫理学の受講生のみなさん、君たちには命をかけられるような主体的真理はありますか?(「真理」ですよ「心理」と書いたらダメですよ。毎年「主体的心理」と書く人かいるので注意しておきます)それが見付かっていれば、とっくにそっちの方に突進していたかもしれないですね。あるいはそれは恐らくかなり勉強しないと掴めないから、それで勉強しているのかもしれませんね。でもそれが掴めたら、やはりそれを実現するために勉強しなければならないかもしれません。
 一度きりの人生ですね。だから、何かそのために生き、そのために死ねるようなイデー(理念)を持って生きられるかどうかは、その人の人生が輝いて見えるかどうかということと深く関わっているのかもしれません。そのことと「自己が精神である」というキルケゴールの言葉は同じような意味なのかもしれません。イデーを持って生きるということは、自分をその時代や社会を貫く精神として捉えているということでしょうから。キルケゴールは「自己とは自己自身に関わる一つの関係である」と捉えています。

4実存の三段階

若さゆえ美と快楽に酔いしれどやがてむなしき朝迎へむ
身に負いし荷の重さゆえ甲斐ありき己の非力知りてはかなし
人は皆神より離れ罪にありその絶望にあがき苦しめ

美的実存

❏キルケゴールは「実存の三段階」について論じています。
「①美的実存→②倫理的実存→③宗教的実存」の三段階です。これは人によっては青年期→壮年期→老年期に対応しているかもしれませんが、個々人の実存ですから、若い頃に宗教的実存に達する人もいるでしょう。
❏まず①美的実存ですが、快楽と享楽の中で「④あれも、これも」求め続ける段階です。この段階は絶望を知らない絶望の段階とあります。実存を感じるというのは生きている実感があるということでしょう。それが美的実存では感覚的なもの、享楽的なもの、スポーツ・芸術・学問・技術などや恋愛とかなど何か夢中になれるものにどっぷり漬かって、そこに生まれてきてよかったみたいな納得を得ようとします。

❑しかしこれは「絶望を知らない絶望の段階」だと言います。感覚的なものですから、繰り返していると慣れてしまって新鮮味がなくなり、飽きてしまいますね。それで別の美的なものに取り組みますが、それも飽きてしまい、結局美的実存では生きている手ごたえは得られないことを悟って、絶望します。

❏キルケゴールの絶望は、有神論的実存主義なので、「神から離れていること」をいうわけです。その意味で絶望は罪ですね。快楽と享楽の中で「あれも、これも」求め続ける段階では、神のことなど考えていませんから、即自的に(それ自体に即して)神から離れていて絶望なんです。また即自的ということは、絶望しているけれど、絶望していることに向き合えていないということなので、絶望は忘れられているわけです。それで絶望を知らない絶望の段階というわけです。

❏絶望は意識だから忘れていれば意識されていないので絶望といえないと反論されるかもしれませんが、もし神とのつながりを感じていれば、快楽や享楽の方にいかないわけだから、のっけから神とのつながりはあきらめているので無自覚な絶望ということでしよう。

❑ここで「神」がでてくるので、日本人はひきますね。テニスしたり、研究してたり、恋愛したりするのに神なんて関係ないし、神だのみなんかすると白けてしまうと反発される人が多いのです。すぐ欧米の倫理学だと神を引き合いに出してくるので、倫理学と宗教がこんがらがって、私は宗教嫌いだから倫理学には興味ないという人まで出てきます。しかしこのごろ流行語でも「神対応」なんて言葉もあり、日本人も割と気軽に神という言葉を使ったりしますね。

❑とりあえず、普遍性の意味に神を受け止めて、理解しておくと倫理学の場合は通じやすくなります。「絶望とは神と離れていること」ということを「絶望とは普遍性が感じられないこと」に置き換えて解釈するのです。

❑テニスや卓球やゴルフでもそれをすることで自分が磨かれたり、無限の可能性が開けてきたり、深い感動体験があって、生まれてきてこの競技に出会えてよかったみたいに思えたら、それは普遍性が感じられたということであり、自分の人生をその競技に賭けてもいいと思えますね。高校生が部活で夢中でその競技に取り組んで、そこに生きがいを見出したら、一生その競技に関わりたいと思い、プロになれるだけの才能はなくても、教師になって部活の顧問になろうとする人が割に教員志望者には多いのです。そういう人は絶望しません。普遍性を見出せているからです。キルケゴールの表現では神とつながっているということです。

❏しかし普通はそうはいきません。この快楽や享楽の追及は限りがありませんし、同じ事の繰り返しで感覚的に新鮮味がなくなり、挫折してしまいます。ついに絶望の自覚にいたり、次の実存に飛躍するのです。この絶望による質的飛躍を、ヘーゲルの弁証法の向うを張って、「質的弁証法」と名付けています。

❏第二段階の倫理的実存は道徳的義務に生きようとします。何か社会的な責任や家庭的責任を背負って、それを生きがいにして生きようとするのです。これも絶望を知らない絶望を秘めています。そして責任が重くなって背負いきれなくなるし、完全に道徳的義務など果たせるものではありません。無力感にうちのめされて挫折せざるをえないというのでしょう。そうしてまた絶望を自覚して、次の段階に飛躍するということです。哀しくなりますね。

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キッチンドゥリンカー

❏その例としては、中年になってくると、中間管理職などになって、職場での責任が重くなり、業績もあげなければならないのですが、他方技術革新などで日々変化する仕事についていけなくなって、挫折する人が多いですね。

❑新しい技術は若い人の方が吸収力があって、年配の人は役立たずということで、窓際族にされてしまうことがあります。個人の努力でそうならないようにすることは大切ですが、それはかなり難しいので、企業としては常に従業員の再教育に取り組む必要があります。

❏また家庭の主婦も子育てが終わる頃になると生きがいを失い、孤独を紛らわせるために昼間から台所で一人料理酒などを飲むキッチンドゥリンカーもあげられます。まあ最近は働き方改革の一環として女性の社会進出が奨励され、子育てが終わった女性の社会進出が進んでいますが。

❏そしていよいよ宗教的実存の段階になるのです。自分が絶望つまり神から離れていたので罪そのものであることを自覚して、神の御前にただ一人立つ単独者の実存です。そこではじめて主体性の回復がなされるということです。

キルケゴール

❏神に向かってしまうということは、人生に絶望して、主体性をなくしているからではないのかと無神論からの批判があります。ニーチェはキルケゴールを世界に背を向け天上しか見ていない背世界者として批判しています。でも有神論ではむしろ神に還ることが主体性なのです。

❏神に還るとは、天上に昇りたいとか、死ぬことではありませんよ。もちろん神と共に生きるということです。

ラザロの復活
ラザロの復活

❏『死に至る病』では死の問題が正面に据えられます。『新約聖書』の「福音書」では、ラザロの病気が重く、イエスが見舞った時には、すでに亡くなって棺桶に入れられていました。でもイエスは「この病は死にいたる病にあらず(This  sickness is not unto death,)」と言われたのです。このことを肉体的な病気によってたとえ肉体が滅んでも、精神は滅びないということだと解釈しているのです。本当に恐ろしいのは精神が滅んでしまう病です。それが絶望です。つまり人間が神とのつながりを失ってしまうということです。

死に至る病

❏でもキルケゴールの論理だとみんな神から離れていて絶望しているのだから、どうしてそこから脱却できるのでしょう。それはやはり絶望によってしかありません。人間は神を信じないという罪に落ちているのです。

❑確かに近代は科学技術が発達して合理的精神が浸透しているので、イエスが死から復活したとか、死んだから天国とか言われても、簡単には信じられるものではありません。

❑それに死んだら天国というのは誤解があります。『聖書』には死んでも天国に昇天できるとは書いていません。「塵から生まれたものは塵にかえる」という言葉が書かれているわけで、唯物論と同じですが、それでは宗教を信仰しないので、歴史が終わったら、神が地上に降りてきて裁きを行われるという預言があるのです。その際に生きている時に罪を犯していたらゲヘナ(地獄谷)にやられ、義に叶っていたらパラダイス(楽園)に入れるということです。そこではもう死はないので未来永劫ということですね。しかしそれは本当にそうなるのかあくまで預言であって、そうなってほしいという信徒の願望でしかありません。イエス以前に天に昇ったのはエリシャが見た、預言者エリヤが天上に馬に乗って行く話だけです。モーセとかダビデ王でも土に戻ったままです。

❑近代人は唯一絶対の神がいて世界を創造したという話を信じられません。それで救われないでもがき苦しんでいるわけですね。その人間を神は憐れに思って人類の罪を贖うためにイエスという人間に身を落とし、人類の罪をみんな背負って十字架についてくださった。そのイエスの愛にすがるしかないということです。
でも、現代人はそれも信じられないから厄介ですね。それで絶望しているわけです。その絶望を自覚して、直視し、もがき苦しむ中で信仰がうまれるということでしょうね。あるいは信じきれなくても、もがき苦しむこと自体に生きる手ごたえがあるということかもしれません。

第八講 ニーチェとヤスパース