教職倫理学講義 目次とリンク

1、コロナ禍での通信講義ついて

遠隔授業、大学手探り 通信環境整備費の支給も 北九州市|【西日本新聞ニュース】
本格的なオンライン授業

□いよいよ最終講義です。一応全体をまとめて、21世紀をいかに生きるべきか倫理学的に説くつもりですが、そう体系だって話すとなると、途方もなく長くなってしまいますので、私が今考えている倫理的な問題について、雑談的に話すことになりそうです。

□今年の講義はもちろん対面して講義するつもりだったのが結局前期は一度も皆さんの顔を拝見することなく、終えてしまいました。後期はなんとか対面講義ができましたが、ZOOMで参加されている方もいます。こんなことは全く予想もつかなかったことです。人生、明日は何があるか分からないというのを今年ほど実感させられたのは、私の75年の人生になかったことかもしれません。

□「しれません」というのは、過去のことは記憶が確かではないからです。記憶というのは不思議なもので、若い頃のことは鮮やかに覚えていても、成人してからのことは何があったのかなかなか思い出せないものなのです。ですから人生長いようで、ほとんどスカスカですから、今、この時がすべて、《この刹那が永遠だ》と思って、ハイデッガーの「死の先駆的決意性」に立ち返って、全身全霊で今を生きるというのは、後から悔いのない人生にするためには絶対に必要です。

□それにしてもこんなことかつてなかったので、まるでフェイク(嘘)のような話ですね。それでアメリカでは「新型コロナが人から人に伝染するというはフェイク」だという人が本当にいて、それで「コロナパーティ」を開き、最初に感染した人が賞金をもらうのがあちこちで行われたのです。感染しても軽症で済む人が若者には多いですからね。それで30歳の男性でコロナなんてデマさとうそぶいて参加したら、感染で済まず、重症化して、「フェイクだと思っていた」と言って、死んでしまった例もあります。

2、三つのL(光・命・愛)を信じること

三つのL(光・命・愛)と人間 – ウェブマガジンプロメテウス
三つのL(光light,命life,愛love)

□自分の命も人の命も粗末にしてはいけません。絶対に賭けの対象にしないでくださいね。命があるからいろんな素晴らしい体験もでき、生まれてきてよかったとも思えるわけです。命を大切にするということは自分を大切にし、人を大切にし、生きとし生ける者を大切にするということで、それは愛するということですね。愛するから大切だと思い、それで愛しているから命が尊く感じられるのです。

□しかし命と言い、愛と言い。その当事者が存在することが前提ですね。存在するということをどう捉えるか、これが一番難しいですが、当事者つまり存在者のことをいくら語っても、存在を語ったことにはならないとハイデッガーは言って、存在者と存在の区別にこだわりましたね。存在者を存在させている存在そのものをいかなる言葉で表現すべきか一番難しいことです。でも「存在の明るみ」と言っていますから、彼はやはり存在を「明るみ」つまり「光」のイメージで捉えているのではないでしょうか?

□光と言ってしまったらそれも存在者なのですが、イメージとしては光は物質の根源であると共に、光明として希望であり、光の濃淡で物事を明るみにする認識の働きつまり理性でもあります。主観と客観が分かれる前の状態でもあり、また主客が合一して一体化し、エクスタシー(脱我・忘我)状態をも意味します。つまり「光」には存在者と存在を股にかけているようなイメージがあるわけですね。この光を我々は生きている限り信じていて、頼っているわけです。

□それで私は光・命・愛の三つはだれもが信仰し、頼らざるをえないのではないかと考えています。【光light・命life・愛love】だから「三つのL」です。これはどんな宗教者でも無宗教者でも生きている限り、フロイトの言葉でいう「無意識」に信仰しているわけです。だから人類はすべて三L教徒だというのが私の持論です。そのことを自覚できれば、同じ三L教徒なのだから理解し合える筈で、何も大切な命を奪い合うほど憎しみ合って戦争などする必要はないわけです。

3、グローバル化は不可逆である。

Amazon | The Global Village: Transformations in World Life and Media in the  21st Century (Communication and Society) | McLuhan, Marshall, Powers, Bruce  R. | Basic Science

□21世紀は長期的にみればグローバル化がすべての方面で深化して、世界がマクルーハンの用語では地球村(グローバル・ヴィレッジ)に成っていく時代です。その過程で相互理解が進んでスムーズに融合できればいいのですが、ハンチントンが『文明の衝突The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order』と言い、イデオロギー対立による東西冷戦に代わって、文明間の衝突が激しくなることを警告しました。マクルーハンの地球村もお隣さんになって仲良くなるという楽観的な見通しではありません。一つの村にたくさんの異質な文化が隣接するので、離れていたら尊重し合えていても、隣接したらどうしてもトラブルが多発することになると警告していました。

Amazon | The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order |  Huntington, Samuel P. | 20th Century

□それでグローバル化すること自体に反対する反グローバリズムを叫ぶ人もいますが、グローバル化というのは科学技術や通信輸送技術が発達して、今まで何か月もかかって行っていて地球の裏側に半日で到着し、映像や音声の交信なら瞬時にして可能になったからですね。いわぱ不可逆的なプロセスなのです。

□その意味で今年の新型コロナのパンデミックはグローバル化の産物だったわけですね。それで止む無く国際交流は遮断し、国内ですら人的移動は大幅に制限され、世界経済も日本国内の経済も深刻な打撃を受けて危機的状況にあります。パンデミックが収まり次第、以前にも増してグローバル化を促進し、外国人観光客に来てもらい、労働力も国際的に補給しないとますます日本経済はじり貧になってしまいます。

□だから一番怖い勘違いが、新型コロナの流行でグローバル化の傾向は息の根が止められて、これから「my nation first自国第一」の分断時代だという捉え方です。そうして民族間、異文化間の憎悪を煽って国民の心を捉えたポピュリストの政治家が大統領になり、国際協調を壊して、世界を破滅に導くシナリオが怖いですね。ゾッとします。

□倫理学は良好な人間関係、あるべき社会の姿を追求する学問ですから、世界を破滅に導くような傾向には大いに警鐘を鳴らす役目を担っているのです。21世紀は北朝鮮のような経済的には弱小国であっても、軍事技術に特化して核兵器を開発すれば、世界を破滅に導けるような時代なのです。

□オウム真理教のようなカルト宗教団体が全人類相手にハルマゲドンを計画し、全人類を絶滅させるだけの毒ガスを製造していていたのが1995年の地下鉄サリン事件で露見して、衝撃を与えましたね。これに刺激されたのかイスラム原理主義のアルカイダがアメリカの中枢であるニューヨークの摩天楼やワシントンのペンタゴンに飛行機で突っ込んで自爆攻撃を仕掛けました。つまり超大国アメリカだからと言って、21世紀は絶対的優位であるということはなくなっているのです。

□そこから日本も負けずに核武装しようとなったら、世界中が核火薬庫になり、何時地球が吹っ飛ぶことになるとも限りません。今こそ全世界から核兵器をなくすように、すべての国や団体や個人が核兵器全面禁止に動かなくてはならないわけです。科学技術の発達は究極、国家だけではなく、宗教カルトや国際マフィアや最終的には個人の資産家が人類を絶滅させる能力を保有して脅迫する時代に成りつつあるわけです。その意味で日本国および日本国民には憲法第九条がありますから、徹底した平和主義で核廃絶の先頭に立つ責任があります。これは倫理学的にも最優先の課題ですね。

憲法第9条』 - YouTube

□日本政府は日本国憲法前文や憲法第九条に掲げた徹底した平和主義に立って、世界平和の先頭に立つことよりも、日米安全保障条約に基づいて、アメリカの核兵器で日本を守ることを最優先にして、国連で核兵器禁止条約が決議されてもそれに反対しています。これは優先順位を取り違えているのです。まあ政府自民党の立場からなかなかそうもいかないということもあるのでしょうが、我々は地球市民としての自覚、平和憲法を掲げている国民としての自覚に立って、核兵器廃絶に動くことはできる筈です。

□マルクスのところで「人間の本質は現実的には社会的諸関係のアンサンブル(総和)」だという捉え方を学びましたね。我々は様々な社会関係を取り結んでいて、そこから様々な利害や望みが生じ、考え方も生まれるわけですが、科学技術が発達し、世界が一つの村になった現実において全人類に突き付けられている地球温暖化などの環境問題に真剣に取り組まなければならないのは言うまでもありません。

□ところがこの問題でも地球温暖化はフェイクだとトランプ大統領は叫んで、国際条約から脱退してしまいしたね。全人類が一丸となって協力し合わなければ到底叶えられない課題まで、炭鉱労働者の雇用などで人気を得るために無責任にも放棄してしまうわけです。そんな大統領が悪いというよりも、そういう人を大統領に選んでしまうアメリカ国民は、人類の一員としての自覚に欠けていて、恥ずかしいとは思わないのでしょうか?

4、グローバル政府の樹立へ

□しかし倫理的な価値観から非難しても埒があきません。倫理的に正しいということを人類は必ずしも選択してこなかったから、現在様々な問題を抱えているのです。環境問題の深刻さは、北極の氷が解けて白熊が生きていけなくなっているだけでなく、既に温暖化で海水温が上昇して水蒸気が多くなり、そのために気象が荒れて、豪雨被害、台風などの強風化被害が出て、甚大な被害を被っているわけです。しかしトランプ大統領などは、そんなことよりも自国の経済的地位の低下、貿易の赤字の方が問題だというわけで、無責任にも地球温暖化などフェイクだというわけです。

人間の学としての倫理学 (岩波全書 19) | 和辻 哲郎 |本 | 通販 | Amazon

□倫理学ではより良い人間関係を構築することが目的なので、そのためには人間とは何かを知らなければならないということで、人間学が中心的な問題です。和辻哲郎は『人間の学としての倫理学』という立場です。近代の人間は考える我を出発点にしたデカルトとか、「人間は考える葦である」と言ったパスカルなど、人間の本質を理性と捉えたり、その理性で自然に働きかけて、人間のものにする労働を人間の本質に置いてきました。しかし人間は理性的、合理的に動くとは限らず、しばしば不可解な衝動的で破壊的な行動にはしり、社会を混乱に陥れたり、戦争でおびただしい殺戮を行います。環境問題ではこのまま放置していれば人類は破滅的なことになると分かっていても、あえて協力を拒もうとします。

□「コロナパーティ」を開らくなどまさに狂気ですね。「京アニ」事件などでも盗作されたという怒りがあすこまでの憎悪になり、大量殺害に駆り立てられるというのは想像を絶するものがあります。フロイトは第一次世界大戦でおびただしい殺戮があり、毒ガスという最終兵器まで登場したことで人間には「エロス」だけではなく「タナトス」もあるのだと知って愕然としたわけですが、ナチスは数百万人のユダヤ人を収容所で毒ガスで殺してみせたのです。日本軍の南京大虐殺も理性では説明できません。

□それは過去の話では済まされません。数年前に中三の少女が鶴橋で在日朝鮮・韓国人に対して「南京大虐殺ではなくて鶴橋大虐殺を実行しますよ」と叫びました。目の前にいた警官たちはそれを制止しないのですね。殺人予告、殺人教唆なのに。戦後70年間の平和教育が厳しく問い直されているのです。

❑核兵器に手が届きそうな政治指導者が狂気に駆り立てられて、南北対話のために建てられた平和の象徴のビルを爆破するなどを見ると背筋が寒くなりますね。

□しかし人間の闇のパトスに目が眩むからと言って、我々までも狂気に駆り立てられては、それこそ世界は狂気に支配されてしまいます。我々はやはり理性を信じ、命の営みを守り、愛を育んで調和ある世界を積み上げていくしかありません。自らの存在の底に抱えている狂気や闇から目を逸らさずに、闘争本能は格闘技などのスポーツに、破壊衝動はカーニバルの祭典に昇華するなどしながら、文化の創造によって、戦いを競争と協力に転化するなどして平和な世界を構築していくのです。

□ただし、いつまでも近代の主権国家の原理に固執し、国家単位の安全保障体制でいこうとすれば、核兵器は拡散し、今後も文明間・国家間の対立で緊張が高まることは考えられるので、人類の存続は覚束なくなります。国連大統領を設け、基本的には安全保障は国連の平和維持軍にまかせ、各国は警察力にとどめ、自治体化していく方向を目指すべきです。

□いくらそういう理念を叫んでも現実にグローバルな市民運動を起こして、グローバル憲法を掲げグローバル・デモクラシーを掲げたグローバル政党を起ち上げるとかしていかなければならないでしょうね。倫理学はより良い人間関係、より良い社会の原理を考える学問だと言いながら、その形成に向けて具体的に動き出さないならば、単なる机上の空論です。

5、21世紀の主体概念

□しかしいざ実践に動き出すとなったら大変なエネルギーや知識や能力が必要で、個人ではできないので、組織作りとかが伴い、組織での人間関係も複雑です。必然的に路線対立が伴いますし、主導権争いということもあり、疲れますね。マルクスは「哲学者たちは世界についてあれこれ議論してきたにすぎない、肝心なのは世界を変革することである」といい、実存主義者も状況に対して主体的に決断して投企すべきだと叫んできましたが、他人を動かすのはもちろん難しいですが、自分を動かすのもなかなか難しいものです。

□単なる自由で主体的な個人としてだけ存在しているのではなくて、どう動くかは歴史や伝統や文化によって、意識は顕在的にも潜在的にも規定されていて、自分の育ってきた家庭環境や取り結んできた組織や集団や企業などとの関係、様々なしがらみによって、雁字搦めになっているわけで、決断できること行動できることはそれらによってほとんど決められているとしたら、主体としての自分は本当に存在するのか怪しくなります。ほとんど構造的に決まっているとしたら「主体としての人間」など幻想ではないかとなってきます。サルトルはだからこそ、人間を取り戻すために「ノン」と叫んで、そういう状況に陥っている自分ごと否定し、人間を取り戻せと言います。

□その場合に主体は自由な意識でしかなく、事物や世界の「有」に対して意識の「無」ですね。無に帰って否定のエネルギーとして暴走することになりかねません。実際はそうはいかないので、世界を引き受け、歴史や伝統、現実の社会を担って、その中に組み込まれつつ、自分の場所から再構築に乗り出さなければなりません。単なる抽象的な主体ではだめで、現実の世界の主体に成長していかなければならないわけです。そのためには自己を身体とそこに宿る人格に閉じ込めるのではなく、「包括的ヒューマニズム」で展開したような社会的諸事物や環境的自然、様々な組織体を包括した人間の主体に脱皮していかなければなりません。

□アメリカ大統領だからと言って、「アメリカ ファースト」ではダメですね。世界経済の発展を考えるならば、アメリカばかりが得する体制をつくって、他国が衰退したら、結局アメリカ経済も将来的には衰退します。世界をリードする責任あるアメリカの大統領だからこそ、自国第一主義は抑えて、どうすれば世界が繁栄できるかを打ち出して、協調的な世界経済秩序を作り上げるべきなのです。それと同じで、我々も自分の個人的な身体の欲望や個人的な利害ばかりに拘っていたら、自分の活動の幅を狭め、みんなから与すべき相手だと見なされなくなってしまいます。

金八先生で成迫政則を演じた『東新良和』の今が気になる! - Middle Edge(ミドルエッジ)

□もちろん個人としての立場や利害なんかどうでもよいわけではないし、組織や企業の立場も考慮すべきだし、独りで何重もの主体が折り重なるわけだから、その調整に苦渋し、自分のアイデンティティにとって大切なものを犠牲にしなくてはならない場合もありますね。どの立場を最も重視すべきかは一概に言えません。社会人として活躍できてこそ家庭でも良きパパに成れる場合もあれば、家庭を犠牲にしなければ社会人として成功しない場合もあります。教職科目を選択されている諸君の場合は、教師としての仕事と家庭の両立に苦しまれることと思いますね。ただ親の背中を見て育つと言いますから、教師の仕事に生きがいや誇りをもって全身全霊で打ち込めば、それを見て教師の子も親を誇りに少々のしわ寄せは我慢できるかもしれません。もちろん教師の家庭に問題児という場合もよくありますから育児放棄に近いところまでいったらだめですよ。

6、脱労働社会化の顕在化

□ただ時代の変化は予想を超えて早く進んでいく場合もあります。地球温暖化という場合は海面上昇がどれぐらいで、21世紀の末は大変なことになるといわれていたのが、今年などは梅雨入りからずっと豪雨で、これも温暖化で水蒸気量が増えているからだと言われます。今後台風の強風化の被害も深刻になることも予想され、既に温暖化の被害は深刻になっています。それでも温暖化はフェイクだという大統領もいますが。

□21世紀に生きるという場合に、脱労働社会化の問題に今から取り組まなくてはいけなくなってきたようです。平成30年間の停滞を振り返って、バブル崩壊後何故累積債務が肥大化したのか考えますと、それは省力化によって収入がなくなったり、減少した人々に所得を回さないで、公共事業や設備投資の補助金に回して供給を増大させたので余計にデフレが深刻化し、その結果税収が減り、累積債務が肥大化したのです。それで私は、脱労働化した人々に、AIやロボットが生み出した所得を回せば、経済がうまく循環するということに気づいたわけです。

□つまり既に脱労働社会化は進行しているということです。その前提に立って経済政策を考えないと、デフレが深刻化して日本経済は衰退してしまうのです。ただし、国際競争もありますので日本の科学技術の水準が停滞によって低下すると国内産業が空洞化してしまいますから、教育水準を引き上げ科学技術の振興に力を注ぐ必要があります。

□省力化によって雇用労働の対人口比は2045年~60年の間に1割未満になってしまうようですが、脱労働化した人々の所得がなくなれば経済循環がストップします。省力化を伴う合理化で生産性は上昇し、富は全ての人々が豊かな生活を送れるだけ溢れているのですから、それに見合って通貨を増やし、所得の減少を補填し、生産増に見合うだけ、全国民にも通貨を配分すればいいわけです。

7、活動所得の導入

□ただし経済が循環すればいいというのではありません。経済活動が活発になり、発展するためにはそれだけ需要が膨らんでいかなければなりません。それで人々の社会活動が活発になり,文化が発展するように学習・文化スポーツ・ボランティアに対して報酬する活動所得システムを構築する必要があるのです。

□まだBI(ベーシックインカム)すら真剣に議論されていません。しかし脱労働社会化が進展すれば所得を給付しないと、大量の餓死者がでるわけで、国民の大部分が無所得になれば、いちいち所得を審査して生活保護を給付するより、BIを実施する方が合理的で経費も安くてすみます。しかしBIではどうしても最低限度が基準になるので、発展的な経済にはなりません。進歩や発展は近代のパラダイムだといって、これからは定常化とか言って専ら調和を目指そうという近代資本主義に代替する経済理論が出てきています。

□しかしグローバル化は不可逆的なものですし、技術開発の国際競争は激化の一途です。発展的なシステムにしないと国内産業は空洞化し、人口は減少して、日本は中国や韓国のリゾート地になってしまうでしょう。そうならないためには抜本的に教育革命を起こして、学齢に基づく学年制を廃止し、到達度に応じたクラス編成とゼミの併用にして小中高大の垣根を取り払い、入学・卒業などをなくします。必要な単元を履修したら職業資格試験の受験資格を得れるようにし、一生学べるようにします。そして出席・履修・成績などに活動所得で報酬するようにするのです。そうすれば世界で断トツの学力水準になり、優秀な人材が育って科学技術水準も高くなるはずです。世界中の若者が日本で学びたいと押し寄せるでしょう。そうすると少子高齢化問題も解決し、社会保障体制も破綻を免れます。

□教育・学習の分野で活動所得導入の効果が上がれば、それで生産性も向上するので、スポーツや文化活動にも拡大することができるようになります。それは需要を高め、より高度な技術革新を生んで、経済の成長を促すことになります。もし活動所得が発展しなければ、AIやロボット技術なども需要が伸びないために停滞してしまいます。その意味で人々の活動が機械の技術革新と表裏一体になり、機械体系も包括した人間観がますます説得力をもちます。その意味で21世紀は「包括的ヒューマニズム」の時代になるわけです。

□近代の人間観はデカルトの「考える我」、パスカルの「考える葦」など考える主体としての理性的人間観と、その理性が自然を支配し、作り変えて獲得する「労働人間」が双璧を成しました。21世紀は思考能力によって人間を凌駕するAIによって人間が管理され、また労働も自動機械にとって代わられ、雇用労働の人口比は1割を切るようになると言われています。

□とは言え、人間存在自体が、「包括的ヒューマニズム」的に捉え返せば、身体とそこに宿る人格に限定されず、AIや自動機械も包括したものに成っているわけでAIも人間の頭脳を構成し、機械体系も人間労働を担っているとすれば、理性も労働も人間の本質でなくなるわけではありません。

□もちろん大部分の諸個人は労働現場を離れて、社会的に有意義な活動を行うわけで、その意味では労働から解放されることになります。これは労働を本質とすれば類的本質からの疎外の極致とも言えるでしょう。また自分たちが作り出した自動機械によって労働から追放されているという意味では生産物からの疎外です。

□とは言え、ものは考えようで、社会的に有意義な活動によって社会に参加し、その一翼をになっているから、それに必要な物資も生産され供給されます。その活動がより効率的にあるいはより美しくあるいはより有用になるように、その活動に必要な物資は常に改良され、発展します。何故なら社会的に有用な活動は、量・質・貢献度を数値化され、それに応じて報酬されるからです。

□だから諸個人と機械は分断されたようで、深く結びついていて、機械体系は諸個人の活動のデータを知り尽くした上で、数値が向上するような創意工夫を物資に加えるからです。また諸個人の方も生産する機械体系がどのような限界を抱え、どれだけ改善の余地がある知り尽くして、自らの活動の発展を効率的に図っていくことができ、両者は協力し合って生産を発展させるのです。ですから直接労働に携わっていないとはいえ、活動自体が生産諸力の不可欠な要素として機能することになります。つまり活動の時間が労働時間と共に生産物の価値を構成することになります。労働価値説から、労働も含む活動価値説の成立です。

□かくして人々は活動所得を支給される活動によって、人間の能力の限界に挑戦し、学習・文化スポーツ・ボランティアにおいて最大限の自己実現を図り、充実した人生を獲得できるようになるのです。

□しかし活動所得自体は脱労働による所得の喪失を埋め合せる所得分配ですから、金銭目当てに学習・文化スポーツ・ボランティアをすることになり、それ自体が自己目的的な自己実現活動であるべきそれらの本来の姿からの疎外であることは否定できません。

 その観点から教育業界や文化スポーツ団体、ボランティア団体からの猛烈な非難は予想されます。そして脱労働化で所得がなくなるのなら、BIを一律に支給し、生活できる状態にした上で、無報酬でそれらの活動をすへきだというでしょうね。

□それでは最低限との生活水準が標準となり、活動自体は趣味程度の自己満足に終わり、切磋琢磨して人間の限界に挑戦することにはなりません。すべての国がBIだけでいくというのならともかく、本格的に活動所得を導入する国との間に学力でも文化スポーツで諸行事や社会活動面でも大きく水を空けられ、科学技術や生産性でも大幅に後れをとることになってしまいます。

□もちろん理念的に活動所得を批判するだけでなく、累積債務を口実に非現実的だという形での批判も強い筈です。しかしそれは実は逆で活動所得を導入しないから累積債務が減らないわけです。ともかく最初は四面楚歌から出発しなければならず、道は険しいですが、抜本的な教育改革と活動所得の導入によってしか日本や人類の未来はありません。


8、活動型人間の時代

□もし脱労働社会化へ進んでいるのだったら、完全雇用を目指す既成の経済政策は無効です。平成30年間も基本は雇用を増大させることを最優先に、公共事業を拡大したり、企業の設備投資を補助し、企業の活動を活発にし、景気を刺激することで雇用を増やそうとしてきたわけです。

□ところが省力化の技術革新を進めた方が生産性があがり、国際競争力もつくのだったら、無理に完全雇用をめざすことはありません。政府は国民経済の生産力は増大しているのだから、それに見合って国債を発行して、国民に所得を分配して、その富を消費させればいいわけです。無理に生産性の低い労働力を企業の内部に抱えさせ、企業の競争力を低下させる必要はありません。

□だから小泉構造改革もアベノミクスも完全雇用を目指す既成の財政政策のパラダイムを脱却できなかったので、平成30年間の停滞の元凶になってしまったということです。ですからたとえ反自公の旧民主党勢力が政権に返り咲いたとしても、完全雇用を目指すケインズ経済学の財政政策に固執すれば、自公政権と同じ轍を踏むことに成りますね。

□先ず学習分野から活動所得を導入にして、停滞から脱却し、文化スポーツ・ボランティアに拡大していき、2045年までに国民のほとんどが脱労働化しても活動所得で豊かな生活が送れるようにしなければなりません。つまり21世紀の生き方は社会的に有意義な活動を通して、自己の能力を最大限に発展させ、そのことによって社会や人類に貢献しようとする生き方です。

□近代の資本主義社会、産業社会では何らかの職業につき、労働を通して自己の能力を発揮し、報酬を得て家族を養うということが基本的な価値観であり、生き方だったのです。それが1990年代のバブル崩壊後は、省力化の技術革新によって放り出された労働力を、その技術革新の波及効果で生み出される新産業が吸収するというメカニズムが機能しなくなったので、完全雇用政策が破綻したわけです。だから脱労働社会化に見合う、活動所得の導入によってデフレを克服するというのが基本に転換せざるを得ないということです。

□ただし我々は活動所得が現実にはなかなか導入されないわけですから、自分のやりたい活動で自分の能力を最大限に伸ばし、そのことで社会貢献するという理想的な生き方はまだ絵に描いた餅ですね。しかしそういう社会に変革しないとお先真っ暗なのですから、社会変革に取組むしかありません。

□特に学生は学習活動をしているわけで、これは文化を継承し、社会や産業を継続させるのに最低限必要な活動です。学生が学習しなくなり、文章の読み書きができず、知的な判断力がなくなったら、その国の経済は確実に沈下しますね。つまり学生の学習は勤労者が職場で労働しているのと同様に社会を支え、再生産させているわけです。雇用関係の中で働くということは大変な責任と労苦を伴い、賃金をもらうのは正当ですが、学生はある意味勤労者以上に大変な思いをして学習しているのです。

□この教職倫理学の講義を受けて、いきなり「包括的ヒューマニズム」みたいな議論を吹っ掛けられ、疎外論や剰余価値理論はこうだと言われてもそう二、三回の講義で分かる筈はありません。実存主義の話でも、実在と現存在と実存の区別をしろと言われても頓珍漢ですし、どうして超越者である神が、見るものと見られる物を包括する包括者でもあるのか、存在者と存在の区別とは、あるいは人間は記号で、記号は事物の知的性質だとか、また純粋経験が唯一実在とはどういう意味かも難しいですね。そして極め付きみたいに現象学的還元とはとか言われても、そう瞬時に理解できる筈はありません。まるで韓流時代劇に出てくる拷問みたいじゃないですか。

□そんな苦労をさせられても一銭の収入にもならないどころか莫大な授業料を払わされています。それは結局教養に成って、社会人として役に立つし、就職にも有利であると納得させられてますが、進学率が七割を超すようになりますと、大卒資格の効用も限界があり、必ずしも高収入につながりませんね。

❑それでも親がきちんと職業を持ち子弟の学費・教養費を面倒みれるのだったら、親の甲斐性ということでやってられますが、脱労働社会化の深化で親の雇用所得が減少すれば、とてもお金をはらってまで、学習などやってられないということになります。

❑今年は新型コロナのパンデミックで対面講義もまともに受けられないので、講義内容もなかなか消化できず、授業料を返して欲しいという学生の不満もあるかもしれませんね。立命館大学などは大学側が先手を打って、学生に援助金を支給したようですが。つまり授業料を払って講義を受けることに根本的な疑問が生じているということです。これは脱労働社会化という流れから言って当然の疑問だということです。

❑これからは学生の学習活動に対して活動所得を支給するように学生が要求する学生運動が起こってくる筈です。脱労働社会になれば、雇用がほとんどなくなるのですから、所得を得るために一生教育機関に登録して、学習し、出席や単位履修や成績に対して数字化して報酬を得るようになっていれば、安心して暮らせます。別に怠けているわけではなく、文化を継承し、再生産に貢献しているのですから当然なのです。そして活動所得を支給しないと当然過剰生産になり、経済が停滞します。生産は自動化の進展で発展し続けているのですから、政府の財源も大丈夫なのです。

❑ですからこれからは学習・文化スポーツ・ボランティアなどの社会的に有意義な活動に生きがいをもって生きる活動型人間の時代です。と同時にこの活動所得のシステムを政府に導入させる運動はままことに切実な生活要求になりますが、反対が強くて実現させるのは大変な粘り強い努力が必要で、その活動に邁進するという意味の活動型人間の時代でもあります。もちろんその活動の中心を担うのは学生で、学生運動が世の中を変えていく上で重要な役割を果たすようになると私は予想しています。