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第五講 実践的唯物論から唯物史観へ


1、剰余価値説の意義と限界

 マルクスは資本主義体制を資本家(capitalist)が賃金労働者(wage labor)の労働(labor)を搾取する体制として構造的に説明しました。その理論が剰余価値説(surplus value theory)です。つまり資本家が労働者を働かせて価値を生み出させ、労働者が作った価値を搾り取って、その価値を増殖していくのです。そのせいで強大な経済機構が出来上がっていき、ますます搾り取られて労働者は追い詰められます。そしてとうとうこの資本主義体制を打ち壊して、労働者たち自身で経済を運営するように革命を起こすしかなくなるという筋書きに沿って組み立てられた理論です。

 もちろんマルクスが勝手にそんな理論を組み立てたのではなくて、実際に厳しい搾取体制になっていて、労働者階級の窮乏化の現実も深刻だったのでそういう理論になったのです。そこには現実の反映という面があり、だから説得力を持ったといえるでしょう。

 搾取理論は、鵜飼の比喩でよく説明されます。鵜飼の鵜はよく訓練されていて魚を上手にとりますが、長い首にひもが結ばれていて、食道に魚はとどまって、鵜匠に吐き出されます。せっかく獲物をたくさん獲ったのに、そのうち鵜が食べられるのはほんの数尾の魚だけです。

鵜飼を使った剰余価値説の講義

 鵜が食べられる魚は鵜にとって生きていくのに最低限必要な魚です。労働者に置き換えたら最低限度の生活費です。でも自分に必要な魚を獲っても、吐き出されて鵜匠に取り上げられるので、鵜はたくさん魚を獲り、後から必要最低限度の魚を与えられます。鵜にとって剰余の魚は鵜匠のものになるわけです。

 鵜が10尾魚を獲り、3尾だけ餌としてもらえたら、7尾は搾取されたわけです。
 労働者が1時間に2千円分の価値を生み、8時間労働だと16000円の価値を生みますが、日給8000円だと、1日に8000円搾取されているということです。その場合、賃金分の価値を生むのに必要な必要労働時間と資本家に搾取される剰余労働時間は両方とも4時間ですね。

 資本家の資本はこの剰余価値が増殖してできてものだから、結局労働者の労働の搾取によって資本家は富を得ているとマルクスは説きます。本来労働者の働きなのだから、この搾取は不当だというのが、マルクスの搾取論です。しかし資本家にしたら、労働者に働く場所を与えてやって、事前に約束した賃金を支払っているのですから、不法ではないし、工場や機械や原材料を買い集めたのは資本家の資本ですから、それらの働きの成果もあるのだから、剰余労働分の価値は資本家の正当な取り分だと主張します。

 そこでマルクスは不変資本(constant capital)と可変資本(variable capital)という用語を使って剰余労働時間分の価値も労働者の労働の塊であるとします。不変資本というのは価値を増殖しない資本という意味です。労働力以外はすべて不変資本だというのです。例えば1億円の機械を導入します。この機械が買い替えるまでに1億2千万円の価値を生むとしたら、1億2千万円出して買っても損はないわけで、市場価格は1億2千万円を標準に決まります。だから偶然買った以上に価値増殖に貢献することはあっても、平均的には価値を生みません。ところが労働力商品は賃金を価格と考えますと、買った価格の二倍以上の価値を毎日生むわけです。だから資本は不変資本の姿では、労働者とは対極の機械や原材料などとして現れているけれど、実は価値としては労働者の労働の塊なのだということです。

 それにしても機械などは減価償却分だけは生産物に価値を与えている筈ですね。それを労働者の労働だけが価値を生むというのは詭弁だと資本家は思うでしょう。そこでマルクスは主体と手段の区別に拘ります。生産の主体は労働力であり、それ以外は生産手段だということですね。だから機械が生産しているのではなく、機械を使って労働力が生産しているのだというのです。だから機械や原材料は価値減耗する分だけ価値を生んでいるわけではないということです。

 マルクスは価値移転という言葉で説明します。機械や原材料も生産されるときに労働者の労働によって価値を与えられています。その価値を自分が生産の時に働いて生産物に与えているのではなくて、労働者が機械や原材料に働きかけて生産物を作るときに、機械や原材料に含まれていた価値を生産物に移転させるのだというのです。

 これはあくまで主体は意志を持ち考えることができる人間だけで、機械や原材料は手段にすぎないという図式に拘って、労働者の労働だけが価値を生むという論理を貫徹させているのです。ところが資本主義によって確立された機械制大工業は、それ自身が巨大な物質的な機械的メカニズムとして機能し、個々の労働者はマニュアル通りにまさに機械の部品として意志も思考も停止して動かされているだけで、とても主体とは感じられません。つまり「労働から疎外」されているわけですね。むしろ何をどう作るかは機械の仕組みの中に組み込まれていますから、労働者はそれに合わせた動作をするだけです。だからあたかも機械が主体で、人間がその部品に過ぎないように見える、そう見えるのは倒錯だとマルクスは言いたいのです。

 だからマルクスは、機械がいかに意志を持ち、思考を宿しているように見えても、人間の意志であり、思考である以上、それは機械という事物の意志や思考ではないから、あたかも機械が意志を持ち、思考を宿しているように見えるのは倒錯なのだということになります。だから機械がいかにすごい何百、何千人分の仕事をしても、それは機械を使って人間がしたのだから、労働者の労働であり、そう見えないのは労働からの疎外のせいだと考えていたのです。

 しかし、最新鋭の機械が発明され、それによって生産性が百倍に飛躍したとして、それを使う労働者の労働は極めて単純な労働でしかないとしたら、それでも労働者は単純な労働のまま百人分の労働をしたと言えるのでしょうか?マルクスは労働者のみが主体で機械は手段に過ぎないという立場に固執しますから、改良された機械によって労働者の労働は強められたと捉えます。だからマルクスに言わせれば、この特別剰余価値を生むのも機械ではなくて、労働者の労働の方だということには変わらないのです。

 マルクスの労働者の労働のみが価値を生むという労働価値説をあくまでも貫きたい気持は分かりますが、果たして説得力があるかというと疑問ですね。労働者の労働時間が価格の標準としての価値の実体だというのは、他の条件が同じだとすればという前提条件の上で成り立つ論理です。その前提の上で、労働力の価値が最小限の生活費にまで押しとどめられるから、剰余価値が生じて搾取されるという構造的な説明は納得がいきます。

 その際に生産手段の価値が減価償却分だけ製品に生み出されるのは生産手段が、生産過程で有効に働いたからと考えてもいい筈です。また特別剰余価値の生産も、新鋭機械が何百人分の仕事をこなしたからということで説明がつきます。生産主体と生産手段という言葉で手段だから働かないというのは、生産手段が大いなる働きをしていることを無視しすぎです。価値生産が労働者の労働だけで行われているということをマルクスは定義的に断定していますが、機械が動かないと価値は生まれないことも事実ですね。

 ですから特別剰余価値は機械が減価償却費の何倍もの価値を生みだしたことによって生じたという解釈もできると思われます。そのためには機械も包括した包括的ヒューマニズムの立場に立つ必要があります。若きマルクスには機械や田園も人間の非有機的身体と捉える包括的ヒューマニズムがみられた筈なのですが。この事は、21世紀の脱労働社会化ということを考える際に決定的に重要になります。

 それからマルクスに対する誤解で、資本家の利潤を労働者の労働からの搾取の蓄積と捉えているのに対して、経営者がいろいろ生産手段を集めたり、取引先と交渉したり、様々な経営的な仕事をしているのに自分は働かないで、搾取だけしていると批判しているように受け止める人が多いですね。それは資本家と経営者を混同しているのです。経営するのにはハードな労働が必要なこともありますね。それはもちろん経営労働で、その分単純労働者の何倍も働いている経営者もいます。またその分の価値は生んでいるわけです。だったら剰余価値を資本家が経営しているから分け前として獲得しても正当じゃないかと資本家は考えます。

 経営者が経営労働に対して報酬をもらうことは搾取ではありません。マルクスのいう搾取は労働者の労働時間のうち剰余労働時間分の価値が搾取されていると言っているわけで、経営者は労働者の労働を搾取しないで、自分の経営労働で生み出した価値の中から俸給をもらえばいいということです。ところが資本主義企業では資本家が経営者である場合も多いので、混同されやすいということでしょう。

 ですから社会主義的な企業が実現した場合、経営担当の労働者がいて、経営労働に対して企業から賃金をもらうことはマルクスの理論からも当然だということになります。

2、マルクス思想と現代社会主義

 20世紀になってロシアでマルクス主義の後継者を自称するボルシェビキが政権を掌握し、共産党を名乗り、一党独裁の恐怖政治を行って、一時は社会主義世界体制を作るまでに発展しました。果たして20世紀のマルクス・レーニン主義は、マルクスの思想からみてどのように評価できるでしようか。

ロシア革命の指導者レーニン

 マルクスは「自由人の連合(アソシエーション)」として未来社会を構想していましたから、一党支配の恐怖独裁政治はとてもマルクスの目指したものではありません。しかしそうなったことに対して、マルクスの思想にその原因はなかったとは言い切れません。

 つまりマルクスやエンゲルスが科学的社会主義を掲げたのは、空想的社会主義に対する批判からです。資本主義体制のなかで、協同組合や共産村などの実験によって社会主義や共産主義の方が労働者にとってよいことを証明して社会主義を実現するステップにしようというのが、フランスのサン・シモン、フーリエやイギリスのロバート・オーウェンなどの空想的社会主義でした。ところが資本主義の体制下では、そういう試みはなかなか成功しませんから、かえって社会主義・共産主義は非現実的だと思われてしまい、革命を起こすことがかえって難しくなるわけです。資本主義の矛盾が深まりますと、労働者は窮乏化して革命を起こさざるを得なくなるので、資本主義下での社会主義の実験はすべきてはないことを強調したわけです。

 そうなると革命政権ができて、企業を公有化して社会主義を運営しようとしても、社会主義的な企業運営の蓄積がないので、方針がまとまらず党派争いが激化して経済が低迷してしまうことになり、革命を守るためには、前衛党による恐怖独裁になってしまう傾向があったわけです。

 この革命政権による恐怖独裁を恐れて、資本主義の国家を倒したら、労働者の国家を作るのではなく、協同組合の連合体などの国家でない形態にすべきだという無政府主義の傾向がうまれました。バクーニンやクロポトキンのアナーキズム(無政府主義)の運動です。マルクス派はアナーキズムを革命を破産させる運動として敵視して排除したのです。このように異端を排除する体質が、現代社会主義の共産党一党独裁の土壌を培ったと言えます。

3、疎外論、物化・物象化論、フェティシズム論の意義と限界

 疎外論が現代的意義あるのは明らかでしょう。今このように新型コロナのパンデミックで我々も大変な事態になって、顔も合わせることができなくなっていますが、これは文明の発達でグローバル化し、病原体が世界に拡散するのを防げなくなったからですね。つまり文明を形成し、発達させているのは日々の労働ですから生産物からの疎外と言えます。地球温暖化を止めないと既に台風の強大化とか雨量の増大で毎年大きな被害が出ています。これも産業活動によって温室効果ガスが増えているからですね。

 技術革新が進むと省力化を伴うので、労働力が流動化し、大量の失業が発生します。しかしその技術革新が新たな産業を興して、ある程度失業を吸収したのですが、AIやロボット導入による技術革新では、新産業でも最初から省力化がすすんでいるので、あまり失業を吸収しません。そのために雇用所得の減少が深刻化して需要が減り、デフレーションが深刻化します。これなどは労働者の生産物からの疎外でもありますが、同時に企業が行った生産性向上による利潤獲得がかえって不況を招き、大きな負債を抱えることになる企業の自己疎外です。

 つまり包括的ヒューマニズムに立って疎外論を見直しますと、労働者の疎外だけでなく、企業や学校や国家などの組織体も人間の在り方ですから、組織体の疎外や事物の疎外も取り上げられます。イリイチが「病院に行けば病気になり、学校に通えば馬鹿になる」と警告していますが、ベッドの回転率を高めて利益を出すために治療をネグレクトして患者を死なせる病院や、学校に通っていたために中学の時はできていた数学の問題が解けなくなったり、英単語を忘れたり、漢字が書けなくなったりする高校生も結構います。もはや病院や学校というのは看板だけという場合、事物や組織がその本性を失う類からの疎外にあたります。

 1845年の『フォイエルバッハ・テーゼ』で疎外論が払拭されたというマルクス研究者は、疎外論と物化・物象化論を対極的に捉えますが、『資本論』も疎外論の展開になっているので、物化・物象化も疎外の様態として説明されていると解釈できます。

 物化は本来人格存在である人間が、商品や部品として扱われて人格性を無視されてしまうことです。賃金労働者になるということは、労働力商品として機械の部品のように取り扱われることを意味する場合が多いのです。

チャップリン「モダンタイムス」より

 ドイツ語で、物はDingで事はSachです。それで物化
Verdinglichungをと呼び、物象化(物件化)を
Versachlichungと呼びます。人格性の無視という同じ意味でも使われますが、人と人の関係を物と物の関係に置き換える場合に物象化と言われます。

 人間同士の物資の交換関係を商品間の関係に置き換えますと、物象化にあたります。あるいは人間同士の関係であった組織や社会関係が、個々の人格からは自立して物象化(物件化)して自立して、個々の人格を物の力で支配するように見えるときに物象化と呼びます。これも人間が作り出した関係が人間を支配するのですから、疎外に含まれることになりますね。

 フェティシズム(物神崇拝)は、元々は蛇や石ころのような自然物をオカルト的な威力を持つとして神格化して祈願する信仰です。願いが叶えられるとさらに供え物を捧げますが、叶えられないと殺したり投げ捨てたりして攻撃を加えます。マルクスの場合は、人間関係を物が担うことで、物が社会関係を取り結ぶ場合にその物はフェティシュ(物神)とされているという議論です。商品・貨幣・資本などは労働の価値関係なのですが、製品や金属・紙切れ・生産財などの性質とされて社会関係を人間でない物が取り結んでいるように見えるから、それはフェティシズム的倒錯視だというのです。

 つまり『資本論』のマルクスは、人間を身体とそこに宿る人格に限定して、社会的諸事物は人間ではないということに固執していたのです。もちろん身体的な諸個人と社会的諸事物を人間対非人間に区別するのは有効だし、必要な場面もありますが、生産に当たっては、機械は人間の非有機的身体になるわけですから、社会的諸事物も包括した人間観で経済関係は捉え返す必要もあります。マルクスは価値は労働者の労働だけが生むという論理を貫徹することで、搾取構造を説明しつくそうとしたわけです。

 しかし商品の価値は生産手段の働きも含めて形成されていますし、特別剰余価値の場合は新鋭機械が生み出しているという解釈も必要です。それに21世紀になっていよいよ人口の1割未満しか雇用がなくなる脱労働社会になりますと、労働者の労働が価値のすべてを生み出しているという論理は、説得力がなくなるのは誰が考えても分かることです。

 ですからマルクスの剰余価値論を参考に、21世紀の剰余価値論を再構成する必要があります。労働力商品を小型自動機械と考え、最低限度の生活費に当たる賃金を減価償却費と捉えます。そうすれば、減価償却費を上回る価値を生み出した機械は剰余価値を生むことになりますね。

 例えばパソコンとかロボットなどの場合に、価格競争が激しいので、それらが生産現場に導入された場合に生み出す価値は減価償却費をはるかに上回る場合が多いのです。そういう場合に剰余価値を生んでいるとみなすことができます。

 それでそれらの新鋭機の導入で排除された労働者に対しては、機械が生み出した剰余価値を一部税金をかけて、失業者にまわすことで、経済が循環します。そうしないと需要が減ってデフレ不況が深刻化します。せっかく技術革新で生産性が向上したのにそれが不況を生む疎外が起きるのです。平成30年間のデフレ不況はその典型でした。

 ただし何もしない失業者に無条件に最低限度の生活費を与えても、かえって最低限度が標準の停滞的な社会になるだけなので、学習、文化、スポーツ、ボランティアなどの社会的に有意義な活動に対して、量・質・社会的な貢献度を査定して報酬を与えるようにすれば、社会が活気づき、技術革新も持続的に発展していくのではないでしょうか?それを私は活動所得として提唱しています。

 その場合に機械が生み出した剰余価値を搾取して、それで人間が自己実現活動をしているように捉えたのでは、引け目になるので、生身の人間の諸活動も機械が富を生産する場合に必要不可欠な要素として位置づけ、活動価値を生みだしているととらえ、労働価値と活動価値の総和を価値と捉え返す価値観の転換が必要になります。

第七講 実存主義とは、キルケゴールの苦悩