毎日文化センター連続講座 『人間とは何かー古今東西から学ぶ」目次とリンク7、シンボルを操る動物ーカッシーラーの人間観


はじめに

 さて、人間とは何かを考えるときについ、人間というと身体とそこに宿る人格を思い浮かべてしまいますが、それは生物の一種としてあるいは、個体としての人間の捉え方ですね。

 人間の行動とか、社会とか文化を抜きに人間とは何かは分かりません。身体や人格より、人間が生み出した諸集団・諸組織・諸機構、建物や都市や田園や様々な道具や芸術作品や生活用品などに人間の何たるかは示されていますから、それらも包括した人間の捉え方が必要です。人間を諸個人の身体と人格に限定せずに、社会的諸事物や環境的自然も含めて捉える人間観を包括的ヒューマニズムと私は呼んでいます。

 この包括的ヒューマニズム的な発想は、いろんな哲学者によって感覚論や身体論として展開されます。つまりジェームズや西田幾多郎の純粋経験論は、人間の意識経験にすべての実在を還元しますから、人間の意識経験こそ人間だとすると、すべての実在が人間だと捉えていると解釈することができます。

 バークリーは事物は感覚の束だと言い、カントは人間は自らの意識に現象するものしか人間は認識できないとし、現象している世界が人間の意識に他ならないとして、認識論にコペルニクス的転回をもたらしましたが、人間の意識を人間として捉えれば、カントも現象界の全体を人間学の対象にしていたことになります。

 フッサールの現象論やメルロ・ポンティの議論では、身体の延長として社会的諸事物や環境的自然を位置づけるところがあるようですから、人間を身体とそこに宿る人格に限定する既成の人間観を克服しようとしているという解釈も可能なようです。 

猿が人間になるについての労働の役割

 元々は、道具は手の延長であるとエンゲルスも『自然の弁証法』という論集に「猿が人間になるについての労働の役割」という論稿があり、そこで言っています。ハンマーや弓矢などは手の延長だというのは理解しやすいですね。包括的ヒューマニズムの場合は、必ずしも社会的諸事物や環境的自然を身体の延長として捉えるだけではありません。身体とそこに宿る人格にだけ人間を限定せずに、必要に応じて、社会的諸事物や環境的自然も人間の範囲に含めようというのが、包括的ヒューマニズムですから、身体のいずれかの器官の延長になっていなくても、人間社会を構成して、人間の一部分に成っていれば、それは身体器官の延長だと無理に規定してしまわなくてもいいわけです。

 ところがどうしても人間は身体とそこに宿る人格として捉えられてしまいますので、それ以外のものを人間に含めようとすれば、どうしてもいずれかの器官の延長だと説明したくなるわけです。つまり身体の延長として事物を説明しようとする議論には、身体とそこに宿る人格に人間の範囲を限定してしまう、既成の人間論から抜け切れないところが残っていると言わざるを得ません。これから紹介しますマクルーハン(Herbert Marshall McLuhan, 1911年7月21日~1980年2月31日)も、残念ながら身体論的人間学から抜け切れなかった限界を持っています。

マクルーハンは、主にメディアを人間の器官の延長として捉えたのです。彼の代表作が一九六四年の『UNDERSTADING MEDIA:THE EXTENTION OF MAN』(『メディアの理解:人間の拡張』)なのです。私は若い頃は恥ずかしながら英米の動向には疎く、マクルーハンの本もメディア論と思い込んで、読んでいませんでした。

 彼の議論は包括的ヒューマニズムの先駆けであり、アメリカやカナダでは一世風靡の感があって、メディア論でもあったので、マスコミでも取り上げられ、賛否両論が渦巻いたということです。私は2012年になってやっと気づきまして、こんな強力な味方がいたのなら、よく読んで、援用して論じていれば、私の議論も説得力が出て、もっと広がっていたかもしれないと反省しているようなわけです。

 今日は、マクルーハンの文章を引用読解していく形でその意義を考えていきたいと思います。

 1、感覚麻痺の原則と身体の拡張

 「感覚麻痺の原則は、他の場合と同様に、電気技術とともにも働き出している。今日のようにわれわれの中枢神経が拡張し曝らされているからには、われわれはそれを麻痺させなくては、死んでしまうだろう。従って、不安の時代、電気メディアの時代は、また無意識と無関心の時代でもある。

 しかし、加うるに現代は、目立って無意識を意識している時代でもある。われわれは戦略的に中枢神経を麻痺させたので、意識的な認識と秩序を立てる仕事は、人間の肉体的生命に譲渡されるようになり、人ははじめて、自分の肉体の拡張として技術を知るようになった。明らかにこのことは電気時代になって、瞬時に全体領域を認識する手段が与えられてはじめて可能になったことである。

 このような認識のおかげで、個人的にも社会的にも意識されていなかった生活が一挙に全貌を明らかにし、その結果われわれは、「社会的意識」をもつようになったのであり、この意識があればこそわれわれは罪悪感をもつのである。実存主義は範疇の哲学ではなくて構造の哲学であり、個人の独立とか自己の見解というブルジョワ精神ではなく、全面的な社会関与の哲学を提起している。電気時代にいたって、われわれは初めて全人類を自らの皮膚とするにいたったのである。(同63頁)」

電気メディアというのは電気通信技術です、無線電信から、電話、ラジオ、テレビなどですね。最近のパソコンのWEB通信も電気メディアです。そこで情報の洪水に見舞われているわけですね。今までは会話とか書物を通して情報を得ていたので、体内の脳髄が感覚中枢だったわけですが、電気メディアは拡張された脳髄として膨大な情報をもたらしてくれるので、体内の脳髄は、感覚麻痺させて、必要なものだけをえり分けなければならないのです。

 しかも、膨大な情報に身を委ねると、身が持ちません。そこで意識的に無意識になり、知識を自分なりに秩序立て整理する仕事を自分の体や自分の脳がするようになったので、自覚的に電気メディアを脳髄の延長だとか、ハンマーを手の延長だとか、家を皮膚の延長だとかとみなせるようになったのだというのです。

 以前の封建社会などでは、それぞれ自分の携わる仕事やそこから得られる情報は極めて限定されていて、世の中全体を見渡すような学問は特定のエリートしかできませんでした。それが電気メディアの時代になって、国家や民族や階級の運命が、さらには人類の運命すら個人の生活と密接につながっていることが分り、全人類に対する責任を背負って決断することを求めるような実存哲学が現れたわけです。

 「実存主義は範疇の哲学ではなくて構造の哲学」というのはちょっとびっくりな捉え方で誤訳か誤植と思って、原書に当たりましたが、間違いではなかったのです。おそらくサルトルを念頭おいて、認識を論じる哲学ではなくて、社会の構造的な矛盾を抉って、それと対決する哲学というようなイメージではないでしょうか。

 ここで「全人類を自らの皮膚とする」という詩的な表現が出てきましたが、皮膚というのは身体的自己の外部との境界ですね。ですから全人類を自らの皮膚とするというのは、全人類を自分自身として捉え返すということになります。

ラジオ受信機
テレビ受像機
ノートパソコン

電気メディアももちろんそうですが、新しいメディアを手に入れたら、それ以前と以後では全く人間の在り様が変わります。人間がその新しいメディアを包括した人間になるからです。人間としては変わらない面は残るとしても、新しいメディアによって変容した人間とは何かを見据えないと、新しい時代を生き抜くことは難しいでしょう。

 マクルーハンの時代にはまだパソコンやWEB文化はなかったし、携帯電話もそれほど普及していなかったわけですが、地球が一個の村のようになるという地球村(グローバル・ヴィレッジ)という概念を打ち出しています。

 そうなれば、近代国民国家のような枠は必然的に自治体化しますし、安全保障体制も全く現在とは違った発想に成らざるを得ません。各国民国家単位の防衛というのもナンセンスになります。ですから、かえって『日本国憲法』第九条が現実味をおびてくるのではないでしょうか。

 本講座のテーマは人類的危機を踏まえてということですから、当然電気メディアによる人類の統合という事態を見据えた議論が必要で、地球村になっていくプロセスで、安全保障上の破綻や、大震災や原発事故の再発なども視野に入れて考える必要があるわけです。

 その意味で今年2020年の新型コロナ禍のパンデミックが起こり、経済のグローバル化が未曽有の困難に直面しています。今まで私は75年近く生きてきましたが、初めての体験でした。グローバル化が進展していただけに世界への拡散が防げなかったようです。三密を避け、ステイホームを徹底し、営業を自粛するということになり、緊急事態を乗り切ったわけですが、感染を防ごうとしたら、戦前の世界大恐慌を上回る経済の停滞に落ち込んでしまうことになります。

 では経済のグローバル化をやめて、ローカル経済に完結するようにすればいいのでしょうか?もちろん流行期には臨機応変にローカル経済中心にも回るようにするなどの対応も必要ですが、グローバルな協力体制で築き上げて、人類の総力が動員できるようにする必要もあります。

 そして生身の人間の活動を抑制するとなれば、それでも生産・流通・消費の循環を発展させるには、よりAI化、ロボット化を促進して、脱労働社会化を加速させる必要が生じます。

2、電気メディアの発達と人間の情報化

「電気メディアによってわれわれは、自分の身体を、拡張した神経組織の中に入れて、一つの原動力をつくり上げる。その原動力によって、手、足、歯、体温調節器官の単なる拡張であった従来の技術(都市も含めてみんな身体の拡張であった)は、すべて情報組織に移しかえられることになるだろう。

 電磁気の技術は、いまや頭蓋骨の外側に脳を持ち、皮膚の外側に神経をそなえた人間に相応しい、人間の完全な素直さと瞑想的静かさを要求する。

 人間はこれまで、網代舟、カヌー、活字、その他の身体諸器官の拡張に接した時、自動制御装置のように忠実だったが、それと同じように忠実に電気技術にも接しなくてはならない。しかし、そこには重大な相違点がある。従来の技術は部分的で断片的であったが、電氣技術は全体的で包括的である。

 いまでは個人の自覚が必要であると共に、外部との通じ合い、あるいは良心というものが不可欠になってきている。しかし、この新しい媒体をもってすれば、なんでも受け入れることができるし、移しかえることも可能である。その速度については問題はない。光の速度はもうこれ以上速まることはないからである。

 物理学や化学で情報が高度の水準に達すれば、そのときは、あらゆるものを燃料や繊維、あるいは建築材料に用いることが可能となる。電気技術を用いれば、すべての固体は、オートメーションと呼ばれる有機体的機能を有するものに組み込まれた情報回路と情報検索によって、固体の商品となって姿を現すことが可能になった。電気技術のもとでは、人間の仕事全体が学ぶことであり、知ることであるようになる。いまだにわれわれが「経済(エコノミー)」(もとのギリシア語の意味は家政)と考えているものについて言えば、雇用の全形態は「給料を支払われる学習」となり、富の全形態は情報の移動からもたらされるということになる。一方、職業や勤め口を見つけることは富を得るのが容易なのと逆に困難になるだろう。(6 移しかえるものとしてのメディア75~76頁)」

 元々マクルーハンという人はカナダ出身の英文学者でした。それで文芸評論的な晦渋なところもあり、すんなりとは意味が通じないことがありますが、それだけに啓示的にも受け取られ、嵌った人も多かったようです。

 この文章は電気メディアのお蔭で、産業や行政機構なども巨大な情報組織になり、あらゆる技術は電気技術によってまとめられ、身体諸器官の延長である道具や機械は、身体の外部で情報装置の指令で自動的に作動したり、造られたりします。要するに工場は無人化していくということですね。

 ただし無人化しても、人間の延長である機械や工場が生産しているのですから、人間の生産であり、造る機械も造られた製品も人間の拡張なのです。

 だから狭い意味の人間つまり労働者の仕事は、そういう自動情報システムについて学び研究することであり、機械を動かしたり、手作業をしたりではなくなるということです。

 そうするとそういう仕事につけるのは知的エリートだけですから、雇用は減ってしまいますね。他方生産力は飛躍的に発展するので、富は安くなり、手に入りやすくなるのです。

 でも失業していたらいくら安くても買えませんので、無理にでも雇用を作り出さなくてはなりません。諸星大二郎という人の漫画で、会社が大量にアルバイトを雇って、広告の看板を持たせて街を歩かせるのがありました。

 それはいくらなんでも惨めですね。ですから企業に社会貢献の義務を課して、さまざまな奉仕活動や、文化行事を企画し、そのために雇用するようにすることでしょうね。ただその企業がエクセレント・カンパニーで、巨大な利潤を溜めこんでいたらできるけれど、競争企業とコスト切り下げ競争をしなければならなかったらそういうわけにもいかないかも。

 でも社会全体の富があふれているのですから、行政がそういう文化事業にお金を出して、発券銀行がどんどんお金を刷れば、それが賃金になり、つくられた富は売れてしまうまで価格が下がるとすれば、富が行き渡ることになるかもしれません。その場合でも経済がグローバル化している場合は、グローバルな規模で所得再配分ができなければならないので、大変ですが。

 このマクルーハンの雇用が減少するという予測に関連して、文化活動にお金を出すというアイデアで脱労働社会化対策を私は考察していたことが、今2020年になって読み返してみて、分かります。元の原稿は2013年に書いていましたので、社会的有意義な活動に対して参加型所得を量・質・貢献度に応じて財政から支出すべきだという構想が私に生まれたのは、マクルーハンについての考察からだったことが分かります。

3、アルファベットの登場

 アルファベットの登場の意義についてマクルーハンは大胆な議論を展開しています。これを引用すると膨大になってしまうので、やむを得ずダイジェストして語ることにしましょう。

 要するにアルファベットは表音文字の完成です。母音と子音があるので、24文字の記号を覚えればすむわけです。しかもパピルス(紙)の発明と結びついて、文字は聖職者の専有物ではなくなり、帝国の統治と軍隊の指令に使われるようになります。

 マクルーハンは、アルファベットの起源をカドモス神話に求めます。カドモスは竜(大蛇)を倒し、神託に従ってその歯を大地にまくと、そこから武装した戦士たちが生えてきて互いに殺し合いを始め、生き残った5人がカドモスに忠誠を誓い、スパルトイになりました。「まかれた男たち」という意味だそうです。つまりスパルタ人はみんな戦士として訓練され、多くの奴隷を支配したわけです。

 言語は、歯がもっている、つかまえ、噛む力や、その精密さを表現する例がいっばいあって、攻撃的な力と精密さを代表する文字の力を、龍の歯の拡張として捉えてよろしいというわけです。「歯は見た目にもいかにも線形に並んでいる。文字は、見た目に歯のように見えるばかりでなく、その力は、歯から帝国建設の仕事にまで及ぶということは、西欧の歴史に明らかなところである」としています。

 歯が言葉を発する時に、役に立っていることは認めますが、文字に関係あるというのは、ちょっとこじつけのような気もしますね。こういう議論には、賛否両論あったようです。

 歴史上には多くの種類の象形文字や表音文字がありました。アルファベットの画期的なところは、なんら意味をもたない文字が、なんの意味も表わさない音と対応して用いられるところです。意味や観念の世界を犠牲にしているのです。

カドモス神話

 漢字のような表意文字や象形文字の方が文化的にはより豊かな文字形態です。いろんな観念や呪術的な力が表意文字にはありました。白川靜の漢字学の世界では漢字は霊性にみちた存在です。マクルーハンは、家族や部族の共同観念の世界に表意文字は人々を閉じ込めていたというのです。

 24文字の記号の連続を視覚的に追っていって意味を読み取り、言語としてコミュニケーションするわけです。それまではすべての感覚を使っていたのが表音文字では連続的な視覚だけが特別に使われるので、視覚だけが強くなって、聴覚の比重が下がったと言います。

 つまりアルファベットという無意味な文字を連続的に追うことで、声に出す会話や表意文字の世界にあった聴覚や呪術的な観念から解放され、部族や家族の束縛から解かれて、血族の網から個人が解放されたというのです。

 この論法も強引ですね。部族や血族からの解放は様々な経済的文化的要因が考えられますが、表音文字の登場が特に大きな役割を果たしたと言えるかどうか、もっと説明が必要な気がします。

 それはともかく、アルファベットという表音文字の使用が、それを止揚する人間の感覚の比率を変えたということです。発達した感覚もあれば、衰退した感覚もあるということですね。つまり人間が自然を作り変えただけでなく、作り変えた自然によって身体も変容するということです。自然が身体の器官の拡張であるだけでなく、身体の拡張となった自然から身体が制約されるわけです。三木淸の用語では交渉的存在として、身体と自然が互いに変容させ合っているということですね。

 インドや中国のような部族的文化では、個人あるいは個々の市民という存在は考えられないと言います。部族的文化では相互に感応し合う、濃い密度をもったものであって、連続的でも画一的でもなかったのですが、アルファベットの「伝えるもの(メッセージ)」は、その視覚上の画一性と連続性という特質を拡張しますからもろもろの文化はこれに感化され、部族的文化が解体して個人が独立するというのです。

グーテンベルクの印刷機

「あらゆるメディア、すなわち「人間の拡張」を利用することによって、われわれの全感覚の間の配分比率が変わるように、人間の相互関係の模様が変わってゆく、あらゆる技術は、力と速度を増すための、われわれの身体あるいは神経組織の拡張である」

とマクルーハンは強調します。車輪の発明、速く走れる堅い道路の建設は、情報や軍隊の到達を速め、村落や都市国家を崩壊させ、ローマの世界帝国を建設しました。

 「メディア」という言葉をマクルーハンは人間間の情報のやり取りの媒体だけでなく、身体間、身体と自然間の文字通り「媒介」となるものの意味で使っているようです。乗物やその車輪、道路、紙とかインクなどもメディアに含まれます。

「画一的、連続的で、限りなく反復可能な小単位なるものはグーテンベルク印刷技術上の事実であるが、それがまた微積分という関連概念を吹き込んだ。それによって、いかなる捉えがたい空間も、まっすぐで、平らで、画一的で、「合理的」なものに移し変えることが可能となった。この無限という概念は、論理によってわれわれに押しつけられたものではない。それは、グーテンベルクの贈り物であった。」 

 マクルーハンは、グーテンベルクの時代という表現を使っていますが、ルネサンス以降、さらに連続的で画一的な世界が飛躍的に広がります。どんな曲がりくねっているものでも、金属活版印刷術の影響を受けて生まれた微積分によって、まっすぐな平らな合理的なものに移し変えられるようになったのです。こうして世界が画一的なものになったわけですね。
 

4、ポスト・グーテンベルグの時代

 メディアは情報に接し、情報を扱う能力やスピードを速めるものであり、肝心なものは情報だというのです。有形の生産物は情報の載せ物、付随物だとしています。機械時代はテレビやラジオのような情報の載せ物すら、石鹼やガソリンのように物として扱われて、家電店で売られていたわけですね。

グローバル・ヴィレッジ

 電気メディアの時代に成って、ますますすべての商品がソフトウェア化していくのです。そうすると連続性と均質性を特質とした機械の時代、グーテンベルグの時代の向こうに、電気メディアによってつくられるポスト・グーテンベルクの時代が既に始まっていると言います。

 ポスト・グーテンベルグの時代は、情報の加速が極点まで達しまして、どこにいても、即座に世界に発信でき、世界から受信できます。WEBの世界では既に実現していますね、そこではどこにいても同じですから中心も周縁もないわけです。人間は外に向かって拡張するのではなく、「地球村」というネットワークの中でどこに位置を定めるかで悪戦苦闘するわけです。

 そこでは連続性・均質性と逆のベクトルが求められます。地球村の部族民の中で位置と役割を求めて、視覚に単純化されて喪失していた、聴覚やその人独特の個性を取り戻そうとします。スピュリチュアルなものが志向されるのも、そういうあがきかもしれませんね。

 部族性から解放したのが表音アルファベットだとしたら、再部族化の時代においては表意の漢字のような呪術性のある文字が見直されるかもしれません。マクルーハンは、ポスト・グーテンベルグの時代の幕開け期に登場して、地球村時代を展望しようとしたのです。

 彼は英文学者だけあって、鋭い感性と豊かな想像力で自在に議論を発展させていますので、固唾を呑んで見惚れてしまうところがあり、その魅力にひきこまれますが、実証的にそれを検証できるかというとそこは、我々も慎重にならざるを得ません。でも人間の拡張としてメディアを捉え、その射程がグローバル時代をかなり大胆に展望し得ていることは確かです。

 社会的諸事物や環境的自然を人間に含めるという点ではもちろん包括的ヒューマニズムの先駆というより、包括的ヒューマニズムをかなり前に進めている感じがありますね。しかしあくまでも皮膚や歯や手足など器官の延長としてメディアを説明することにこだわっている点では、身体論的な人間学の限界を超えていないということになります。

 危機論との関連で言えば、機械メディアの時代、グーテンベルグの時代がさらに進展するなかで、電気メディアの時代が始まっており、連続性・均質性が極まりつつあるなかで、再部族化が始まっているという、矛盾的自己同一が現在の危機の本質を言い当てている感触があります。

第九講 小此木啓吾の精神分析―現代人の諸類