後期目次と概要
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6.出雲帝国の形成と崩壊―大国主物語

「小妻国」なんて語句初めて見た、一体どう読むの?という方が多いでしょうね。「さつまこく」と読みます。それなら「薩摩国」でしょうと思いますね。それが『魏志倭人伝』に「投馬国」が出てきますね。

それが下書き段階では草書体で書かれていたので、清書したのが別人のために「殺」を「投」と見間違えたという井上悦文さんの解釈があるのです。ですから「投馬国」は間違いで、「殺馬国」が下書きだったということです。魏の使いが倭国で聴いたのが「さつま」だったわけで、「殺馬」は音だけ表しているのです。
『民族学伝承ひろいあげ辞典』というサイトから引用します。

http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16253767.html

それで「薩摩」という地名が使われたの律令国家の成立以降ではないかと思われます。『日本書紀』天武天皇紀10年(六八二年)7月3日の条に、

とあり、「薩摩」と呼ぶ前の「阿多」が使われているからです。この「阿多」は「神吾田津姫(かみあたつひめ)」に由来します。木花開耶姫(木花之佐久夜毘売)の別名なのです。つまり「おおいなる古祖母」という「薩摩」は、木花開耶姫を指しているわけですね。八世紀には古祖母というのは相応しいですが、木花開耶姫が「さつま国」を建てた時は、古祖母を意味するような「薩摩国」という表記はしなかった筈です。

「薩摩国」という表記が八世紀からとすると、『魏志倭人伝』の「さつま国」は別の表記だった筈で、魏の使いが記した「殺馬国」も自称とは言えませんね。それで建国当初から「さつま国」だったとすると、邇邇芸命の可愛い妻という意味の「小妻国」と書いて「さつま国」だったと考えられます。

 小百合という表現は決して小さい百合という意味ではありません。可愛い百合とか、愛しい百合という意味なのです。だから木花開耶姫も可愛い妻と呼ばれていたことになります。それを国名にしたというのはまことにほほえましい限りですね。

 『魏志倭人伝』の「投馬国」が「殺馬国」の誤記で、その意味が小妻国であったとしたら、そこから木花開耶姫が建てた国が中国側の史料から裏付けられたことになります。

この学問的意義は大きいのじゃないでしょうか?だって記紀に出てくる神話的な記事は史実に則ったものというより、天照大神以来の皇統の万世一系を印象づけるための創作が多くて、史料的価値はほとんどないとされてきたわけですから。じっさいに木花開耶姫がいて、その末裔の国があったらしいことが、言えるわけですね。

 とするなら木花開耶姫の曽孫である磐余彦一族の実在の可能性も高まり、神武東征というのも単なる作り話ではないという可能性が高くなります。もちろん神武東征が記紀のいうような紀元前六六〇年はあり得ません。そのころは未だ畿内は縄文時代ですから。神武東征が一世紀末とするとその曾祖母が木花開耶姫なので小妻国建国は一世紀初頭のことではなかったかと推定されます。 

それから学問的意義としては「投馬国」が「殺馬国」だったということで、読みが「さつま国」ならば南九州に比定されますので、「投馬国」を瀬戸内や山陰に比定できなくなり、邪馬台国が畿内大和だという説は破綻してしまいます。邪馬台国九州説に軍配が上がるのです。

 ただし、「邪馬台国」というのは「やまたいこく」と読みますが、これはあくまで魏の使いが書いたものですから、やはり国名は正しくは「やまと国」だったと思います。だからその「やまと国」はどこだったかという形で論争した方がよかったと思います。実際に畿内だけでなく、筑紫にも「やまと」がありますし、筑紫山門とすると『魏志倭人伝』の行程表と矛盾なく読むことができます。

 連続読みで「不彌国から南投馬国に到る水行二十日」と読むか、放射読みで「伊都国から南投馬国に到る水行二十日」かで議論がありますが、不彌国も伊都国も筑紫(九州)北岸には変わりないので、「投馬国」は南九州にあったことになります。ところが畿内大和説の人は、南を東に読み替えて投馬国の3場所を吉備や山陰に比定しようとするわけです。そして邪馬台国はさらにその東にあったという解釈です。

 しかし「投馬」が「殺馬」の誤植であったら、「さつま」と言えば薩摩半島以外に比定するのは難しくなります。瀬戸内や山陰に「さつま」らしきところはみつからないでしょう。「邪馬台国論争地図」をウェブから転載しましたが、この地図はまさか「投馬」が「さつま」だったことは想定していませんね。薩摩半島は候補地に挙がっていません。

 宮崎県日向が投馬国なのぱ「投馬(とうま)」と発音が似ている「都萬(つま)神社」があるからです。都萬と当て字していますが、元々は「妻」だったのです。だったら邇邇芸命の妻であった木花開耶姫を祭祀しているのではないかと思いますね。それがドンピシャです。御祭神は木花開耶姫命だとあります。

 木花開耶姫は、薩摩半島の笠沙岬で邇邇芸命に出会ったことになっていますから、小妻国は薩摩半島にあった筈ですね。ところが木花開耶姫を御祭神にする都萬神社は日向にあります。邇邇芸命は南九州の各津も巡幸したので、日向にも妻がいて、その姫を祀る神社だったかもしれません。それが小妻国が日向まで勢力を伸ばしたか、あるいは中心を日向に移したので、御祭神も差し替えられたと推論できます。

 薩摩半島では火山や台風などの影響で暮らしが成り立たなくなることがよくあったでしょう、それで日向に移って行ったことも考えられます。記紀では木花開耶姫の曽孫の磐余彦一族は一世紀後半は日向にいたようで、磐余彦東征も日向から行われています。

 四世紀前半に熊襲によっていったん小妻国も山門(やまと)を中心とした筑紫倭国も滅亡させられてしまったので、小妻の地名も消えていましたが、景行天皇の遠征後、次第に倭人も戻って、薩摩半島も阿多という木花開耶姫(神阿多都比売)の名前の地名になり、律令国家形成に伴う風土記の編纂などで、さつま国を地名にしようということになり、その際に木花開耶姫伝承では、笠沙岬での出会いが強い印象を与えたので、日向よりも薩摩半島が「さつま」になり、さつま国の古祖母として「薩摩」の字が宛てられたということでしょう。

磐余彦大王の東征を筑紫倭国全体の東征と捉えますと、筑紫倭国が饒速日王国を呑み込み、倭国統合を成し遂げ、国の中心を筑紫から大和に遷したように理解されがちです。実際、記紀には磐余彦が筑紫に居た頃から既に筑紫倭国の日嗣(ひつぎ)の王子であり、また大王にも即位していたかに読み取れる表現があります。

磐余彦は第四子ですが、意志が強く聡明であったので、十五歳で立太子したとあります。のちの東征の過程で兄達は亡くなったりして脱落しますから、結局磐余彦が大和政権を樹立したわけですが、説話になるときに磐余彦を美化して子供の時から後継ぎにきまっていたことにしたのかもしれません。

立太子したとしても、小妻国のことで、筑紫倭国ではありません。いかにも自分が瓊瓊杵尊の嫡流で、筑紫だけではなく、王澤を饒速日王国にまで広げて、そこに都を遷すつもりでいます。

天孫降臨のことが書いてありますが、もちろん天空になど国はなく、天下りなどあり得ません。元々建国の使命を以て海を下り、河内大和、筑紫、出雲などに建国したのは、「御宇之珍子」である三貴神(天照大神、月讀命、須佐之男命)だったのです。ですから三貴神が大八洲に居た以上、その孫たちも大八洲で生まれたわけで、饒速日神の哮峯(いかるがのみね)への天下りも、邇邇芸命の高千穂峯への天下りも改作されたものです。

天照大神は河内湖畔の草香に宮を建て、月讀命が博多湾の草香江の辺に宮を建てました。その逆はありえません。なぜなら河内湖畔の草香は「日下」とも書けます。それは「日下草香(ひのもとのくさか)」という慣用句があったからです。つまり太陽神の支配下の草香という意味です。博多湾の草香江は「日下江」とは表記できないのです。

それで筑紫倭国の中心は博多湾周辺でした。おそらく「中国(なかつくに)」と呼ばれていたのでしょう。だから那珂川(なかがわ)がデルタをつくっています。それで後漢からの金印には『漢委奴国王』とありますが、「なかこく」を「なのくに」と聴き間違えたと思われます。とにかく筑紫倭国は博多湾周辺からはじまり、一世紀中頃までは奴国が中心でした。

だから記紀で邇邇芸命が高千穂峯に天下りし、高千穂宮で政を行ったというのは磐余彦一族を邇邇芸命の嫡流のようにみせかける改竄なのです。

 七世紀以降に邇邇芸命の天下り伝承が造られたと思いますが、その際に、木花開耶姫伝承の強い薩摩と神武東征伝承の強い日向で高千穂峯を地元に近いところに比定しようとして、結局「二つの高千穂」ができてしまいました。

 木花開耶姫は小妻国を立ち上げましたが、自然災害などが原因で日向に拠点を遷したのです。他にも襲(贈於)族の勢いが増して、侵攻されて日向に逃れたという可能性もありますね。熊襲とまとめて呼びますが球磨(くま)川流域に球磨族がいて、襲(贈於)族が鹿児島県と宮崎県つまり薩摩と日向の境あたりにいたようです。その圧迫が強くなって、日向に逃れたことも考えられます。

それに南九州では土壌が火山灰のシラスで覆われ、作物が実りにくいこともあります。それで日向に国の中心を移したのですが、そこで人口が増えてくると、南九州での国造りは大変だということになります。それでその限界を突破するために、思い切ってまだまだ未墾の地の多い東への移動を考えても不思議はありません。

筑紫倭国はやはり邇邇芸命の嫡流が中国(なかつくに)で支配していますので、本家に取って代わるわけにはいきません。小妻国建国で支援してもらっていますし、熊襲が筑紫北岸の倭人諸国を攻めないように、小妻国が南方から挟んでいたわけです。ですから磐余彦東征も小妻国を親族に任せて、出かけたということです。

記紀は邇邇芸命は大八洲全体の統治権を与えられているのに、筑紫から出られなかった、そのために大八洲の大部分に王澤が及んでいないというわけです。本当は饒速日大王こそ天照大神の嫡流の孫ですから、天照大神を基準にするなら、筑紫にこそ王澤が及んでいないことになります。実は三貴神に三倭国を建てさせたとすると、須佐之男命と宇気比をしたのは月讀命だったことになるので、磐余彦も月讀命の血統となり、饒速日王国を侵攻する正当性などありません。

では何故、『記紀』では高天原の実力者のように描かれている高御産巣日神は磐余彦一族の饒速日王国侵攻を支援したのでしょうか。それは饒速日大王の二世になる宇摩志麻治命が饒速日王国再建に当たり、建御雷神の率いる奇襲軍を出雲帝国の残党を糾合して撃退したからです。つまり饒速日一世は、出雲帝国の侵攻によって亡くなったわけです。ですから宇摩志麻治命にとっては建御雷神は、親の仇を討ってくれた大恩人なのです。だから建御雷神を撃退したのは、恩を仇で返されたことになります。それで懲罰の機会を高海原は伺っていたわけです。やっと百年近く経ってから、磐余彦が饒速日王国に対する懲罰の派兵をするというので、高御産巣日神は支援したわけです。

でも記紀にはそんなこと書いていませんね。「宇摩志麻治命が饒速日王国再建に当たり、建御雷神の率いる奇襲軍を出雲帝国の残党を糾合して撃退した」を裏付ける根拠は何でしょう。それは大神神社(おほみわじんしゃ)の信仰です。三輪山を大物主命としてお祭りしていますが、大物主神は大国主命と一体のものとして信仰されています。もし宇摩志麻治命が出雲帝国残党を糾合して建御雷神率いる奇襲軍を撃退したのでないとしたら、父の仇の大国主命を三輪山から追放した筈ですね。

ところで磐余彦東征で饒速日王国が滅んでも、三輪山の大物主神と大国主命の一体関係は解消されていませんね。それはどうしてでしょう。もし磐余彦東征が、出雲帝国を奇襲した建御雷軍撃退に対する懲罰なら、饒速日王国の中心である三輪山と大国主命の絶縁が高海原の高御産巣日神の要求になるのではないでしょうか?確かにそうなのですが、なにしろ磐余彦東征軍もそれほど大軍ではなく、できたら畿内にいる出雲出身の人々を敵に回したくなかったわけです。懲罰の対象である饒速日大王も帰順して臣属するなら厚遇しようということですから。

『日本書紀』に

とあります。南九州の小妻国から遠征してきて畿内に国を建てるとしたら、敵に回すのはできるだけ最小限にとどめなければならないということですね。八紘は八つの方位で世界を指しますが、それは同時に諸勢力を指しています。この「掩八紘而為宇」が「八紘為宇」という形で天皇中心の家族国家観や、「八紘一宇」の大東亜共栄圏の精神や世界統合の原理になって、日本軍国主義のスローガンになったわけです。「掩八紘而為宇」というような難しい漢文の教養が当時の小妻国にあったわけではないでしょうから、記紀編纂者による文飾でしょう。

ただし磐余彦一族は遠征して来た侵略者ですから、そう簡単に帰順してもらえず筈はなく、帰順しないものは徹底的に「撃ちてし止まむ」ということです。「掩八紘而為宇」と「撃ちてし止まむ」がセットになっているのです。「掩八紘而為宇」だけみて聖徳太子の「和の精神」の源流のように考えるのはどうでしょう。「和の精神」は話し合いで物事を決めていくということが前提でしたが、磐余彦東征は予め、饒速日王国を倒して、建国するという既定方針に従えば家族にするけれど、叛けば徹底的に「撃ちてし止まむ」だということですから、180度違います。

 また記紀では畿内に政権を建てるという場合に、その版図は筑紫も含むものだったことになっていますが、実際は、筑紫の中心は博多湾にあって、邇邇芸命の嫡流が治めていました。また磐余彦一族の治めていた小妻国も無くなったわけではありません。そのことは『魏志倭人伝』で「投馬国」があり、それは「殺馬国」の誤植だったことから裏付けられます。ですから磐余彦が畿内大和で建国した当初は畿内およびその周辺に版図は限られていたわけです。

 磐余彦東征には『古事記』によれば長い年月を要しました。筑紫の岡田宮に一年、阿岐の多祁理宮に七年、吉備の高島宮に八年いたことになっています。もし筑紫の国を挙げて東征したのなら、大軍ということになり、その間の兵糧は膨大なものになってしまいます。ですから国を挙げて東遷したとしたらもっと短期間の筈だと、『日本書紀』では訂正されています。『日本書紀』では冬十月に日向を発って、翌年春三月に吉備に高島宮をつくり、三年間で兵糧を整え、三年後に難波に到達しています。どちらが説得力があるでしょう。

 私は、邪馬台国筑紫山門説支持なので、三世紀も筑紫に倭国は続いていたことになりますから、筑紫あげての大軍での磐余彦東征はあり得ないと思います。

 としますと、少数精鋭で出発し、筑紫北岸では高海原の高御産巣日神の支援を取り付けるのに1年かけ、安芸や吉備で15年かけて勢力を養い、兵糧を貯め込み、兵力を募って、難波に迫ったということです。ただし当時についての暦は倍年暦の可能性がありますので計16年ではなく8年ということかもしれません。

 それで河内湖の入口のところが急流になっていて入るのに難儀したらしく、難波碕と呼ばれています。一月ほどかかっています。そして河内湖にはいり、草香邑の青雲の白肩津に上陸しま

 要注意なのは西暦一世紀末ですから、河内湖をさかのぼって草香の白肩津に着いたということです。草香江を遡って白肩津に着いたという解釈のサイトがありますが、五世紀になって堀江ができたこともあり、河内湖が狭くなって草香江と呼ばれるようになります。草香は元々は津の名称でしたが、地名になっていて、津の名称は白肩だったということです。それが磐余彦一族の東征で、戦場になり盾津と呼ばれるようになったわけですね。後になまって蓼津になっています。

 この伝承は一世紀末の河内湖のことが伝わっていて、とても五世紀以降の創作とは考えられないということで、磐余彦及び磐余彦東征が歴史的に実在したとされる根拠になっています。

 実はこの台詞は重要な改作があります。「敵」が「吾」に差し替えられているのです。つまり敵は饒速日神で日の神ですし、天照大神の御子の資格があるわけです。実は五瀬命や磐余彦は月讀命の血統だったわけです。それが聖徳太子の摂政期に、須佐之男命との宇気比の場面を改作されて、磐余彦一族も天照大神の血統だったことにされてしまったわけです。

 この場面は相手が日の神だから、日を背に負って、光を利用して攻めてくるので、眩しくて戦えないということです。

 それに白肩津から割に急な坂になっていて、上から矢を雨のように降り注がれると坂の下から攻めるのは難しいでしょう。それで背後を突く作戦というのは、紀国を回って吉野周りに大和を攻める作戦です。しかしこれは熊野・吉野・大和の地理に相当詳しい道案内が必要です。
 
 五瀬命は深い傷だったので、その血が海を染めて血沼海となりました。血沼海がなまって大阪湾のことを「茅渟海(ちぬのうみ)」と呼びます。私が出身の大正東中学校の校歌の二番に

という歌詞がありまして、大阪湾を「茅渟の海」ということを知っていましたが、血沼海とは若い頃は知りませんでした。

さて熊野から吉野を回ってという作戦ですが、狭野で上陸していますが、道が分からず、また海に出たところ嵐に遭い磐余彦の兄が遭難したりしています。稻飯命と三毛入野命です。

 兄弟を失った磐余彦は一人息子の手研耳命と兵を進め、熊野荒坂津別を丹敷浦で丹敷戸畔を殺しましたが、その時に神が毒ガスを吐いて、みんな失神してしまい、動けなくなってしまったというのです。『古事記』では「大熊髮出入卽失」となっていて、巨大な熊が現われたとなっています。

 温泉の近くには硫化水素毒ガスが噴き出しているところがありますから、そこに誘い込まれて気絶したのでしょうね。いよいよ絶体絶命のピンチになったわけです。そういう時には天の助けつまり天祐があるとドラマティックですね。ドラマティックだからと言って作り話とも限りませんが。実際、「事実は小説よりも奇なり」といいますから。

 この高倉下は饒速日神の子と成っていますが、宇摩志麻治命が、親の仇の出雲帝国の残党を糾合して建御雷軍を撃退するのに反対して、建御雷神と内通するようになったのでしょう。もちろん百年近く経っているので、高倉下四世ぐらいと考えてください。画像はかなり高齢になっていますが、初代饒速日神の息子てみなすからです。

 建御雷命は、記紀では天空にいることになっていて、大八洲のどこにでも劔を下せることになっていますが、そんなファンタジーは歴史ではありません。韴霊剣を運んだのはもちろん海原の水運です。もちろん大熊神の毒ガスで気絶してから運んだのでは間に合わないので、高倉下のところには高御産巣日命の命令で支援物資が運び込まれていたのでしょう。

ここで天照大神が建御雷神に参戦を促していますが、天照大神は高海原には居ません、河内・大和に建国したのが天照大神です。『古事記』では天照大神と高木神(高御産巣日神)がふたりで要請しています。天之御中主神を七世紀以降に天照大神に差し替えたと思います。

 韴霊剣で目覚めて、また進軍を再開するのですが、しっかりした道案内役がいないととても無理だということです。それで道案内役として八咫烏が派遣されます。これも『日本書紀』では天照大神が八咫烏を派遣すると言っていますが、『古事記』では高木神です。 

元々は水運を担っていた海原(対馬・壱岐)の海人たちが、高海原(伽耶)のために情報を集めたり、謀略を行ったりする間諜の役割も担っていたと考えられます。それを烏とか雉とか鳥の名前を遣って呼んでいたのではないでしょうか。熊野大社では三本足の烏にしていますが、そうすると三足烏で太陽に棲むと言われるので、天照大神の使いにふさわしいということですね。そういう狙いだと七世紀以降の改作の可能性もあります。

 「頭八咫烏」だと頭だけで1メートルという意味で烏(からす)のお化けですね。『古事記』は「八咫烏」と書いていますので、大きい烏という意味です。ともかく記紀では高天原の主神が天照大神で、その嫡流が天下を支配すべしということで、それを実現するための磐余彦東征ですが、そういう発想は七世紀初頭神道大改革からであり、元々は、饒速日王国に対して懲罰を加えるのが目的で高海原は支援したわけです。ですから磐余彦が建国して大王(おほきみ)になる国が、大八洲を統合支配すべきだと、高海原が考えていたわけではないのです。あくまでも饒速日王国に取って代わる国という捉え方だったわけです。

 このことは畿内以西の統合について、磐余彦東征で成し遂げられたのではないということです。磐余彦東征による政権樹立は西暦二世紀初頭と考えられますから、筑紫倭国はそのまま存続していました。ですから西暦三世紀中頃の「邪馬台国」がどこにあったかという問題も、畿内大和政権の版図は筑紫に及んでいなかったわけですから、「邪馬台国」大和説は成立する筈がありません。

もし西日本を統合支配したというのなら、『古事記』では十七年、『日本書紀』でも,四、五年はかかっているのですから、大国意識があったはずです。それが即位三十一年に国見をして次のように話しています。

姸哉乎(あなにや)國之獲(くにこれをう)矣。木錦(ゆふ)眞迮國(まさきくに)といへども、なほ蜻蛉(あきつ)臀呫(となめ)のごとし。」

「細く裂かれた木綿(ゆう)のような狭い国だけれど、トンボが交尾している豊穣な国」と述べているのですか、磐余彦大王が統治した国は、やはり畿内及びその周辺に限定されると捉えるべきです。

 八咫烏の導きで無事吉野に出まして、そこからさらに山を踏み越えると宇陀につきます。そこの豪族に兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)の兄弟がいます。八咫烏に帰順するかどうか尋ねられ、兄宇迦斯は鳴鏑で射返し、応戦の意を示しながら、兵が集められないので、帰順すると偽り、大殿を作ってそこに仕掛けをして磐余彦を謀殺しようとします。しかし弟宇迦斯は兄の企みを告げ口したので、兄は自分が作った仕掛けに無理矢理掛からされて殺されます。弟は兄を裏切って家督を継いだわけです。

これは東征軍を高天原から認められているので絶対的に正義であるのが前提になっています。それで逆らったら「撃ちてし止まむ」で皆殺しだというやり方です。この恐怖作戦が効いたのか、形勢分あらずということで、饒速日命は、「天つ神の御子天降りましつと聞けり。故、追ひて參降り來つ」と言って帰順します。つまり磐余彦の東征を新たな天孫降臨と認め、その麾下に帰順しますということです。

 その際に長髄彦はあくまで徹底抗戦を主張したので、饒速日命はやむなく長髄彦を殺して帰順しました。その経緯は『日本書紀』にこうあります。

 この文章でおかしいのは、磐余彦は邇邇芸命の曽孫ですが、饒速日命は邇邇芸命の兄が長命を保っていることになっています。「これ天降りし者なり」となっていますね。しかし饒速日一世は大国主命の侵攻の時に亡くなっていて、息子の宇摩志麻遅が再建饒速日王国の大王になっていて、この時は恐らく四世ぐらいでしょう。しかも『先代舊事本紀』では長髄彦を殺したのは宇摩志麻遅命だとなっています。これらは名前が世襲されているということなのです。

 長髄彦は殺されたけれど、徹底抗戦派は磐余彦には従いたくないと、蝦夷と共に北上して太陽神の国を常陸とか陸奥に建てたという話もあるようですね。天照大神の嫡流が天下を統治するという高天原の決定が正義であることが前提で、兄の謀略を敵に通報して殺させ、家督を奪った弟の行為も正義とみなしているわけですね。記紀が書かれた時期にはそれで通るかもしれないけれど、当時は明らかに東征軍の方が侵略軍ですから、弟の裏切りは倫理学的にみて正義といえるでしょうか。

 その次に忍坂の大室に土雲八十建と呼ばれた文化の低い土着民をご馳走するとだまして呼び入れまして、それぞれに八十膳夫つまり調理人をつけまして、次の歌と共に虐殺させたのです。つまり磐余彦東征軍は歌いながら一斉に斬り殺したのです。

『日本書紀』によると「先ず八十梟帥を國見丘に擊ち、破りてこれを斬る。」とあります。その残党がまだたくさんいるので宴会を開いておびき寄せ、久米の兵士が調理人になって、一斉に殺せということで、残党狩りという設定です。それにしても食事に招くというのは、もう戦いを止めて仲良くやっていきましょうということでないと、敵の宴会にはおめおめと出かけたりはしませんね。それでまんまと騙されて虐殺されたということでしょう。こういうことを正史に堂々と書いていて、戦前はバイブルみたいに見なされていたわけですから、南京大虐殺があってもまさかそんなひどいことはしないとは思われないですね。

 それで紀元前六六〇年に当たる辛酉の年に肇国の詔が出されたことになっていますが、もちろん畿内は縄文時代ですから、これは日本が中国に遜色ないぐらい歴史ある国ということを見せかけるための粉飾です。十代崇神天皇が四世紀初頭、十五代応神天皇が五世紀初頭から逆算して初代神武天皇は二世紀初頭というのが妥当なところでしょう。

 ただ形の上では、九州南部の小妻国から東征した磐余彦が大和政権を樹立したわけですが、兄達は皆戦死しています。当然筑紫から連れて来た一人息子の手研耳命を後継ぎにしたいところですが、大和で政権を維持するためには地元の神事代主神(『古事記』では大物主神)の娘媛蹈鞴五十鈴媛を正妃にし、その息子神沼河耳命に大王位(綏靖天皇)を継承しなければ安定しなかったようです。その辺りは、勢いのある侵略者には武力では勝てなくても、政治では地元の人々も八紘爲宇にうまく乗っかって、侵略に対応したのかもしれません。

 手研耳命は磐余彦崩御後弟たちを暗殺しようとしますが、覚られて逆に殺されてしまいます。

 とはいえ、饒速日王国は倒れたわけで、太陽神の国ではなくなりました。つまり「日本国」は途絶えたということです。だから磐余彦政権の成立は、原「日本国」の亡国だったわけです。そういう重大なことがずっと隠蔽されてきたということです。「日本国」亡国記念の日を日本国の「建国記念の日」として祝っているのは、歴史に対する冒瀆です。

 七世紀初頭に厩戸王の摂政期に太陽神中心に神道の教義を大改革し、天皇家の祖先神を天照大神だったことにして、「日本国」が再建されるのです。

 しかし河内・大和は農業中心なので太陽神の儀礼が不可欠で、そこは饒速日神は、物部氏の族長として政権に仕えながら、太陽神の現人神としての祭祀を継続したのです。だから朝廷の儀礼は夜に行ういわゆる「夜の食国」になったわけです。