投稿を表示

若きマルクス

若きマルクスの疎外論は21世紀に入って格差拡大が深刻になり、理解されやすくなっている。とはいえ19世紀中ごろのように疎外の原因を私有財産制や資本主義に求め、それらを克服すれば疎外もなくなるという単純な労働疎外論で済ますわけにはいかない。

21世紀には、生産物からの疎外は行きつくとこまで行きついて、ついにほとんどの労働者は生産の場から追い出される脱労働社会化が深化する。人口の一割未満しか雇用がなくなる。

脱労働社会では脱労働者化した人々にどのように所得を補償するか最大の問題になる。現在の制度では生活保護になるが、人口の大部分が生活保護では、大部分の人々が最低限度の生活費で暮らすことになり、経済の低迷は避けられない。

脱労働社会化は技術革新による省力化の結果だから、生産性は発達していて、富は溢れているのだから、無条件に全員に同額の最低限度の生活費を所得として与えるベーシックインカムも導入可能である。しかし大部分が失業者の社会ではこれも最低限度が標準になってしまう。

そこで私が提唱しているのが活動所得の導入である。それは社会的に有意義な活動に対して、量・質・貢献度を算定して財政から報酬するシステムである。これならより豊かになろうとして、競争が活発化し、技術革新も進展して発展的な社会が維持される。

具体的には学習・文化スポーツ・ボランティアが社会的に有意義な活動と認定される。ただしこの制度の導入には強力な反対が予想される。財政赤字が累積しているからとても無理だというのである。

ではどうして累積赤字が膨大になったのか、それは所得が減った階層に手当を回さずに、公共事業や企業の設備投資の補助金に回したので、供給が増えて、需要が減ったので余計にデフレがひどくなったからである。まず省力化で所得が減った人に補填すべきだった。

その上に生産性向上した分、国民全体の所得を増やすべきだった、そうしないと売れ残ってデフレがひどくなる。それで税収も減りますます財政赤字が累積するということになった。だから累積債務を減らすためには、所得を国民に回す必要があるのである。

MMTではインフレにならなければ財政支出は増やしてもいいというが、それには生産性が向上が前提だ。それも国際競争力がないと、日本製品が売れ残ることになるので、苛烈な技術革新の競争に勝ち残っていく戦略と抱き合わせでないと成功しない。

だから社会全体が発展的で常に技術革新を競い合う構造になっている必要がる。その前提となるのは文化水準の高さと、社会的に有意義な活動の諸領域で常に活発な競争が行われていることである。そこに所得を回せば経済が循環的に発展するのである。

平成30年間は累積債務を理由に、そこに所得を回さずにサプライサイドに回そうとしてデフレを深刻化させる構造だった。これこそ財政の自己疎外である。21世紀の疎外論は、企業や自治体・国家などの組織体の自己疎外もテーマにしなければならない。つまり個人だけが人間の在り方ではなくて、企業や国家などの組織体も人間の在り方なのであり、それ自体意志を持ち主体的に行動しているから当然自己疎外にも陥るのである。

資本主義企業は、省力化の技術革新を進めざるを得ないが、それは脱労働者化した人々の所得をなくすことだから、需要の減退になって、結局デフレ不況となり、企業自身の衰退を招くことになる。これは資本主義企業が利潤追求を本質にしているので、なかなか脱却できない疎外構造である。

リヴァイアサン』 : 関本洋司のブログ
ホッブズ『リヴァイアサン』国家自体が生きた人工機械人間

そこで国家が財政から所得を補填することになる。所得減少分を補填し、生産性向上分を国民に分配してもインフレにはならない理屈である。そうしないと停滞するから、国家は財政政策を取り違えてはならないのである。

その意味で国家は累積債務を抱えたことで、次世代に負担を回すことになるのを恐れ、緊縮財政に回り、その枠内で景気刺激して、その結果として一般国民の所得も増えると踏んだが、完全な誤算であったことは平成30年の歴史が証明した。

国家は国民から税金を徴収し、それを財源として行政を行うシステムであるという固定観念に支配されている。従って、財政支出を行うことはすなわち国民の負担を増やすことだと思い込み、生産力が増大しても国民に所得を回さないことになる。企業が回せばいいのだが、資本主義企業も利潤増大を自己目的にしているので、それができない構造になっている。

だから生産力が増大に伴って通貨を増大させてもインフレにならないから、通貨発行権のある政府は税収に頼ることなく、財源を得ることができるのである。そしてデフレが収束して経済が順調に拡大的に循環すれば、税収も増加し、累積債務も解消していく。ところが自公政権は緊縮財政でデフレを深刻化させて累積債務を肥大化させ、経済停滞を深刻化させて、技術革新をストップさせ、やすやすと中国などとの国際競争力で後れをとってしまったのである。

だから自公政権はその誤算を認めて退陣すべきだが、それにとって代わる勢力も財政健全化を掲げ、完全雇用の実現を目指す旧来のパラダイムでは、国家及び国民経済の衰退は避けられない。これは国家の自己疎外である。

特に脱労働社会化が深化すれば、現在の学生は将来深刻な雇用喪失に陥ることになるので、いつまでも雇用所得に頼る社会からの脱皮を今から推進すべきである。その第一が学習に対して報酬を要求する運動である。

脱労働社会になってから急に学習に対して報酬を要求しても説得力はない、今から、いや過去に遡って、学習が価値を生み、経済を支えてきたことを主張し、報酬されないことが不当であったという倫理的立場を鮮明すべきである。

労働が疎外されているということは、もちろん労働以外の活動も疎外されていたのである。いくら学んでもなんの報酬もない。ただ学力や学歴が社会人として能力や地位を保証するだろうという期待だけで、学校教育に縛り付けられてきた。

学級崩壊したことある人教えてください | ガールズちゃんねる - Girls ...
学級崩壊

同年齢は知的発展度が同程度という大雑把な認識の下で、学齢に基づく学年制がとられ、学力差が大きくなると、学校の格差付けや能力別クラス編成で対応してきた。そのために大量に落ちこぼれが発生し、教育が荒廃し、いじめや校内暴力が頻発し、学級崩壊・学校崩壊に陥った。その結果学力低下が起こったのである。これが日本経済の立ち遅れを招かない筈はない。

そして学校で学んだことが社会で通用するはずもなく、進学率が向上すると高学歴が高収入を保証するわけでもない。イリイチは「病院に行けば病気になり、学校に通えば馬鹿になる」と風刺したが、それはもはや風刺ではなく、現実的な批判として受け止められている。これこそ学習の自己疎外である。

社会的に有意義な活動に対して所得を与えよという活動所得の提案は、それ自体、疎外されたものである。なぜなら活動に対して所得を与えることで、所得目当ての活動になり、自己目的的な自己実現活動ではなく、手段としての活動の面を帯びてしまうからである。私有財産制度を今すぐなくすことができない以上、所得が必要であり、脱労働社会では大部分の国民に対しては社会的に有意義な活動に対して報酬する疎外された形式をとらざるを得ないのである。

それで教育学者は学習に対して金銭などの報償を与えると、一時的には刺激になって効果が上がるが、長期的には学問の内容に対する関心を喪失するのでかえって逆効果だと言って反対することが予想される。典型的な類的本質からの疎外である。しかし脱労働社会では雇用所得がなくなるので、学習に関心を向けるゆとりがなくなり、金銭などの経済的な報酬がなければ学習意欲が湧かなくなる。より深刻な疎外に陥るのである。

確かに疎外であっても、労働で雇用所得が得られるからよりよい生活のために、創意工夫して働くように、学習に量・質・貢献度に対応して報酬を出せば、生活のために真剣に学習するから、現在の学生に比べて百倍の学習意欲をもって学習し、驚くべき効果があると考えられる。国際競争力もみるみる回復するに違いない。

このように学習に関する疎外も受験体制での学校教育の疎外と学齢に基づく学年制を廃止し、年齢に囚われない到達度クラス編成にした場合の疎外、活動所得を導入した場合の疎外などの比較しながら、グローバル時代の国際競争も視野に入れて、21世紀の教育の在り方を根本から考え直すべきである。