「日本のあけぼの:古代史再構成」目次とリンク
4、筑紫倭国の発展と女王卑弥呼

1、景行天皇架空説について

大の名や帯の称号けちつけて架空と決めつけ大人げなしや

星野遼子:第4講は邪馬台国の話で三世紀でした。第5講は景行天皇の九州遠征ですから、四世紀ですね。戦後暫くは英雄時代とも呼ばれたのですが、その英雄譚はどうも作り話じゃないかと言われ、同時代史料がほとんどないので、「空白の四世紀」と呼ばれています。

やすいゆたか:敗戦後、日本はGHQに占領されて独立を失いました。国際法上の独立を回復した後も、対米従属の傾向が強かったので、日本共産党は民族独立の旗を掲げてきたのです。それで四世紀の倭国はバラバラになりがちだったので、それを何とか一つにまとめようとした景行天皇や倭建命、神功皇后などは英雄視されたわけです。英雄時代論を打ち出したのは石母田正です。ところが四世紀の話は英雄譚になっていて、創作色が濃いわけですね。『古事記』や『日本書紀』は7世紀末から8世紀初頭の天皇家や藤原氏によってほとんど創作されたもので、潤色が多く信用できないというのが、戦後歴史学の立場です。戦後歴史学は科学的な歴史学を掲げ、科学的に実証された歴史的事実に基づいて歴史を語るべきだというわけです。

星野:戦前は皇国史観が有力でした。高天原の主神である天照大神の子孫が建てた国で、天皇は天照大神の御子として神々と人々を支配してきたとしたのです。それで日本は神の国だというようなイデオロギーで国民を洗脳しました。ついには天皇の命令は絶対だという事で、侵略戦争に駆り立てられたのです。その苦い経験から、戦後は記紀に書かれていることは信用してはいけないという反省があったわけです。

やすい:ええ、その反省は大切です。確かに、時の権力者の意向によって、記紀には改変された部分、創作された部分があるわけです。たとえば天空に神々の国「高天原」があるというのは、事実ではありません。そういうあり得ない部分は、信じてはいけません。また紀元前660年に倭政権が建国されたというのも、畿内は縄文時代ですから、あり得ません。しかし高天原ではなく、高海原が朝鮮半島の南端部にあって、倭人通商圏の宗主国的な役割をしていた可能性は、高天原の話から逆に推察できます。また紀元前660年に磐余彦が東征したことはなかっても、二世紀初頭に筑紫倭国の豪族である磐余彦一族が東征して饒速日王国を倒して建国した可能性は大いにあり得ます。

星野:今日は四世紀の話だから、高海原が伽耶だったとか、磐余彦が実在したかどうかの議論を蒸し返す余裕はありません。問題は景行天皇が実在したかどうかです。先ず、畿内政権の大王が筑紫まで自ら遠征するというのは、画期的な大事件ですから、歴史書を書くにあたって取り上げないわけにはいかない筈なのに、『古事記』では触れていません。『日本書紀』で大々的に取り上げられています。これではやはり『日本書紀』の記事は創作ではないかと疑われることになりますね。

やすい:重大事件でも触れないことはあります。例えば大国主命について、絶対に悪く書けないというのが記紀の制約になっています。社会学でいう「タブー」だったのです。大國主命は筑紫を除いて、あらかた大八洲を統合したのですが、畿内に侵攻した記事はありません。つまり饒速日王国を倒し、饒速日一世を死なせたことはふれていません。武御雷命は奇襲作戦で大国主命の出雲帝国を崩壊させましたが、その決戦についても書かれていません。大国主命は、自分と一体の大物主命や倭大國魂命として祟りました。五世紀の初頭崇神天皇の時代にです。それからは祟りを恐れて決して大国主命を悪くは言わないことになっているのです。

星野:仮に景行天皇の筑紫遠征が史実だったとします。それなら『古事記』で景行天皇の筑紫遠征をカットしたのは、何かタブーに触れたのでしょうか?

やすい:記紀では磐余彦(神武天皇)は筑紫倭国の大王であり、筑紫倭国がまるごと東征して畿内に中心を移したのが磐余彦大王の東征ということになっています。それでその時に筑紫から畿内大和まで一つに統合されたという事に成っていました。

星野:それが木花咲夜媛は邇邇芸命の一夜妻なので、燃え屋で子を生んで認知されたけれど、子供たちは王宮で王子として育てられたわけではありません。地方豪族に過ぎなかったわけですね。

やすい:それで前回『魏志倭人伝』の「投馬国」というのは実は「殺馬国」の見間違いでした。その意味は「小妻(さつま)(こく)」で木花咲夜媛(このはなさくやひめ)の建てた国らしいということが分かりました。だから小妻国という筑紫倭国に属する地方国家の王族だったということです、磐余彦一族は。ということは、東征後も筑紫倭国はそのまま残りましたから、大和政権は畿内とその周辺の国家であって、12代大帯彦大王(景行天皇)の時にはじめて統合国家になったということです。

星野:ということは景行天皇の筑紫遠征を大々的に扱うと、磐余彦東征で統合国家が出来たということが危うくなるので、景行天皇の筑紫遠征を無視したのが『古事記』の叙述だったということですね。それならどうして『日本書紀』では景行天皇の筑紫遠征を大々的に取り上げたのですか。

やすい:神武が西日本の統合を成し遂げたとしても、景行天皇の筑紫遠征は筑紫の熊襲による支配を覆し、内乱を制圧した意義は大きいわけですから、それを無視するのは正しくないということでしょう。そうすると大帯彦大王が英雄として復権しますから、その英雄が『古事記』のように倭建命を熊襲や蝦夷に殺させようとするような恐ろしい敵役ではいけません。それで筑紫遠征や蝦夷討伐に際して、『日本書紀』では軍勢をつけて送り出します。そして日本武尊が亡くなってから、景行天皇はその行跡を辿る旅をしています。

星野:しかしそうなるとそれぞれが後世の歴史観に相応しく書かれているという事なので、ヤマトタケルはますます創作上の人物だという印象を受けます。

やすい:確かにヤマトタケル説話は創作的な要素が濃いわけで、様々な英雄たちの出来事を取り混ぜて、ヤマトタケル像を作り上げたのでしょう。ただその中で、大帯彦大王(景行天皇)の王子の活躍も入っていて、その王子の御子が帯中彦大王(仲哀天皇)になった可能性はあります。

プレビューの表示

星野:ヤマトタケルと呼ばれた小碓王子の弟の若帯彦が大帯彦大王の後継者になります。若帯大王(成務天皇)ですね。それで直木孝次郎さんの議論では、大帯彦、若帯彦、帯中彦などの名前は、帯彦というのは「貴い支配者」という意味なので、「大」「若」「中」が名前の核心になるが、あまりに個性が感じられないので、実在の人物の名前らしくないとして、架空説の根拠にしています。

やすい:単純な名前というのは今も昔もいくらでもあります。大帯彦というのは、筑紫併合をしてはじめて西日本全体を統合する偉業を成し遂げたので、「大なる偉業」を讃えて「大帯彦」は全く不自然ではありません。「若帯彦」は大帯彦が崩御にして大王位を継承した際に、高齢で崩御した父に比べてまだ若かったので「若帯彦」ですね。帯中彦はどうして「中帯彦」でなかったのか謎ですが、ヤマトタケルと誉田別尊(応神天皇)という二人の英雄の中継ぎをしたので、後世そう呼ばれたと解釈されています。ですからそれぞれ由緒ある名前です。語り伝えられた説話上の人物ですから、名前も在世時の名称だったか、後世に付けられた名前かの区別がつかなくなっているわけです。

星野:それから「タラシ」とか「タラシヒコ」などの王位を表す称号は七世紀のものだから、七世紀以降に、七世紀の称号を四世紀の架空の大王の称号にしたというのも直木孝次郎さんの解釈ですね。

やすい:七世紀にある称号が、七世紀にあったから四世紀にはなかったというのは論証になっていませんね。七世紀の大王は四世紀の英雄時代に憧れて、その称号を使った可能性は否定できません。たしかに説話上の人物の場合、同時代史料で実在の裏が取れないと架空の人物だった可能性がありますが、実在しなかった確かな証拠がない場合は、歴史に穴を開けないために、実在したと仮定しておく方が得策だと思います。

星野:しかし説話は、史料や遺物・遺跡などに裏付けられて初めて史実性をもつわけですから、それがないのに史実だと仮定するのは、歴史を物語のレベルで捉え、科学として捉えていないことになりませんか。

やすい:おっしゃる通りです。科学的な裏付けがない以上、上古の歴史は物語の限界内にあるわけです。ただし、史料や遺物・遺跡などから史実性が確実となった範囲内では、科学的に実証されたとみなしていいわけです。しかし七世紀までは同時代の確実な史料が乏しいので、安易に科学だと思い込むのは避けた方がいいのです。歴史の場合、物語の枠内でも説話内に様々な矛盾があって、どうしてそういう矛盾が生じたのか、色々仮説を立てて、歴史を辻褄が合うように整理し直すことができます。そしてどのように整理した歴史物語が最も信憑性があるのか、議論が成り立つわけです。だから歴史物語の枠内でも、どちらが信憑性が高いかを吟味し合うことで学問が成り立つということです。その意味でせっかく登場した人物を史料の裏付けが少ないことを論拠に架空と決めつけてしまうと、辻褄が合わせにくくなるので、得策ではないということです。

星野:今日のテーマである大帯彦大王が架空としたら、なにかしっかりした物証でもない限り、(ゆかり)の人々も架空だということになってしまうということですか?小碓王子(ヤマトタケル)、若帯彦大王(成務天皇)、帯仲彦大王(仲哀天皇)、息長帯媛(神功皇后)まですべて架空だったというのが戦後史学の主張です。七世紀末に創作された歴史物語だという解釈ですから。

やすい:しかし、科学的歴史学を名乗るのだったら、七世紀末に創作されたという史料が示されなければ、架空説は科学的ではありません。華々しい英雄時代の歴史物語があるのに、西暦四世紀は「空白の世紀」だということにしてしまっているわけですね。

星野:戦後史学では神武天皇と崇神天皇は称号の読みが同じ「ハツクニシラススメラミコト」で同一人物として、二代目から九代目は欠史8代で架空とします。すると崇神天皇は朝鮮半島から渡来したのではというインスピレーションを誘います。元々は騎馬民族だったとするのが江上波夫さんですね。「空白の四世紀」だから応神天皇も騎馬民族征服の第二波という解釈もあります。

やすい:それはやはり景行天皇から神功皇后までが架空であることが実証された上でなら説得力が生じますが、景行天皇から神功皇后までが架空であることの論証は直木孝次郎(画像)さんをはじめ根拠薄弱なものばかりです。そこで私は、『日本書紀』の景行紀を頭から後世の創作と決めつけないで、方法的懐疑の反対の方法的信憑を用いて検証するべきだというのです。その中で矛盾していて虚偽だと思われる部分を明らかにし、それ以外は間違いが明らかになるまでは、歴史物語として方法的に信憑しておくべきだという考えです。

2、神夏磯媛、娑麼に出迎える

素嶓(しろはた)(たて)たる船に三つ寶娑麼(さば)の港に女人(おみな)ありけり

星野:15代応神天皇の即位は五世紀初頭、10代崇神天皇の即位は四世紀初頭ということなら、景行天皇12年は四世紀の前半、330年代だろうと思われます。「熊襲(そむ)きて朝貢せず」となっていますが、前回の講義だと邪馬台国は九州にあったということなので、それだと熊襲は大和政権に対して反乱を起こしたのではなく、筑紫倭国に対して戦争を仕掛けたということですね。それで大帯彦大王は、筑紫倭国を救援に行ったけれど、周芳の沙麼さばに着いた時には筑紫倭国は既に滅亡していたようですね。

やすい:筑紫倭国が滅亡したと聞いて、筑紫全体を熊襲に抑えられると朝鮮半島との水運、交易が脅かされるので、出兵したということかもしれません。記紀では神武以来筑紫も含めて大和政権の版図ということになっていましたから、あたかも大和政権に背いたような表現になったわけです。

星野:狗奴国が熊襲の中心だったとしたら、以前から邪馬台国連合つまり筑紫倭国に属さず、筑紫倭国と対立していました。卑弥呼は魏に救援を求めていましたから、筑紫倭国が熊襲に滅ぼされたのは十分考えられますね。『魏志倭人伝』を引用します。

「その八年、太守、王頎(おうき)官に到る。倭女王卑弥呼は()()国男(こくだん)(おう)卑弥弓呼(ひみここ)(もと)より和せず、倭は載斯(さいし)()(えつ)等を遣はし、郡に詣いたり、相攻撃する(さま)を説く。塞曹掾史(さいそうえんし)、張政等を遣はし、因って、詔書、黄幢(こうどう)(もたら)し、難升(なし)()(はい)()し、(げき)(つく)りてこれを告諭す。」

やすい:筑紫倭国は三世紀には山門に中心を移していて筑紫山門国連合だったわけです。そして狗奴国というのは恐らく熊国でしょう。卑弥呼と卑弥弓呼は、〈ひめみこーひこみこ〉に由来します。だから媛―彦つまり貴女ー貴人ということで〈みこ〉は巫術を行う人という意味でしょう。熊襲との戦いでは、倭人通商圏の宗主国である伽耶(狗邪韓国)や海原(対馬・壱岐)の支援も受けていたでしょうが、やはり魏の支援も受けたいということで、帯方郡に使いを送って、筑紫山門国連合に味方して欲しいと訴えたら、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政が遣わされて魏の(のぼり)を掲げて戦うことになったということです。

星野:邪馬台国は狗奴国をやっつけるのに、薩摩や宮崎にまたがる投馬国があってこれが邪馬台国連合のメンバーですから、狗奴国を挟み撃ちにしようとしていたわけですね。しかし投馬国も狗奴国に滅ぼされたのですか?

やすい:投馬国は「殺馬国」の見間違えで、「さつま国」は元々は「小妻国」です。狗奴国は「小妻国」は侮れないとして、山門国に総攻撃をかける前に南下して「小妻国」を先に滅ぼしたようです。ですから景行天皇の征討経路でも南下しますが、南九州も既に熊襲勢力の支配下にあったのです。

星野:古田武彦さんの解釈では、筑紫遠征に出かけながら、筑紫の一番先進地である北岸地帯には入っていません。それでこの征討経路は、畿内からやってきたのではなく、筑紫倭国ができた頃に博多湾などの本拠地から筑紫全体の統合のために征討した経路ではなかったかとされています。

やすい:しかしそれは景行天皇の筑紫遠征がなかったことが前提ですね。なかったとしたら、これは筑紫倭国の初期の大王の遠征伝承があって、それを景行天皇の筑紫遠征という歴史物語の創作の際に参考にしたということです。もちろんその可能性がゼロではないけれど、景行天皇が架空の天皇だという根拠は極めて薄弱です。

星野:それに筑紫倭国は熊襲に滅ぼされた可能性は高いですね。景行天皇の遠征した際には筑紫倭国は影も形もないし、筑紫の倭人勢力らしきものは登場しません。それで筑紫の伝承は磐余彦一族の伝承しか残っていないわけです。邇邇芸命の次の大王(おほきみ)だとか、107年に後漢の安帝に倭国王(すい)(しょう)らが生口160人を献上したのですが、帥升についての伝承もありませんし、女王卑弥呼の伝承も残っていないわけです。ですから初期の大王の筑紫統合の遠征譚だけ残っている可能性は少ないでしょう。

やすい:大帯彦大王(景行天皇)は実在したと仮定して話を進めましょう。それで周芳の沙麼におそらく海路で着いたのでしょう、沙麼の港から南の方を見ると煙がたくさん立っているといいますから、船団で迫ってきたということでしょう。沙麼の港から南の方は海ですからね。

星野:では続きを読みましょう。

(ここ)女人(おみな)あり、曰く(かむ)夏磯媛(なつそひめ)と、其の徒衆(ともがら)(いと)(さは)なり、一國の(かい)(すい)なり。天皇の使者至るを()きて、則ち磯津山の(かしは)()を拔き、上枝に八握劒(やつかのつるぎ)()け、中枝に八咫(やたの)(かがみ)を挂け、下枝に八尺瓊(やさかにのまがたま)を挂け、また(しら)(はた)を船の(へさき)()て、」

となっています。大帯彦大王の使者が来てから、香春(かわら)(たけ)の近くの磯津山まで戻って、賢木を抜いて来たのですか?

やすい:いや文章表現が不自然になってしまっていますが、恭順を示す(しら)(はた)を船の舳に樹てて近づいてきているので、その船に三種の神器を賢木につけて運んでいるのでしょう。ですから大帯彦大王に帰順して、味方につけ、筑紫での支配権を確保する狙いがあってのことです。賢木を抜いたのは船に乗り込む前ですね。だから「磯津山で抜いた賢木の上枝にー」と言いたいのではないでしょうか。

星野:恭順を示す慣習として三種の神器を捧げるという儀礼があったのですか?

やすい:そういう解釈をする人もいますが、そういう例が他にもたくさんあれば別ですが、そうではなく、これは熊襲勢力の首領として筑紫倭国を倒した際に分捕った戦利品です。倭人諸国にとっては大八洲を統合支配する王権のレガリアとなるものですが、熊襲にとっては必要がないので、大帯彦大王に献上したわけです。

星野:ということはそれまでは筑紫倭国が三種の神器をもっていたということですね。何時手に入れたのですか?そうだ、邇邇芸命は天下りの時に天照大神から授けられたのが、それが磐余彦は分家なので持ってなくて、そのまま卑弥呼や台与まで伝わっていたということでしょう。

やすい:この講座は三貴神が三倭国を建国したという仮説に基づいています。ですから天照大神は、高天原には上げられず、河内・大和倭国を建国したことになっています。月讀命が博多湾周辺に筑紫倭国を建国しました。邇邇芸命はその孫ですから、八尺瓊勾玉を継承しています。天照大神の八咫鏡は饒速日大王に引き継がれました。それを八千鉾の神つまり大国主命が奪いました。それを後に武御雷神が奇襲して、奪った可能性があります。そして武御雷命は饒速日大王の王子ウマシマジ命たちに撃退され、這う這うの体で筑紫に逃げ帰ったのですが、その際に筑紫倭国に世話になったので、八咫鏡を置いていったのかもしれません。ともかくそう言った事情で筑紫倭国の朝廷にあったのを熊襲に奪われたわけです。

星野:その話はうまくできすぎで信用できません。

「參ゐ向ひて啓さく「願くは兵下すなかれ。我之属類(わがうがらともがら)、必ずや違ふことあらざれば、今将に(のり)(したが)はむとす。」

彼女は恐らく熊襲の中でも最有力だったのでしょう。それで三種の神器まで持っていた。本来なら、大帯彦大王を迎え撃つところだったでしょうが、だれが筑紫熊襲国の大王になるかをめぐって内戦になってしまったのでしょう。それで形勢不利になった神夏磯媛は、自分を裏切った熊襲たちを大帯彦大王に討たせて、自分は筑紫の君に収まろうということでしょうね。

やすい:ただ『日本書紀』は熊襲は筑紫倭国に対して戦って、筑紫倭国を滅ぼしたという歴史観は否定しています。『日本書紀』は磐余彦東征で、筑紫国家から大八洲全体を統合支配するようになったという立場です。だから熊襲は畿内大和政権に貢租を納めず、皇命に従わないから征伐するという書き方になっています。ただしだからと言って、景行天皇の実在や筑紫遠征それ自体が後世の捏造ということにはなりません。『日本書紀』の立場からの歴史の改変ということです。

星野:神夏磯媛は鼻垂、耳垂、麻剝(あさはぎ)(つち)(おり)()(おり)の四人の賊を討つように進言したのです。それで大帯彦大王の臣下の多武(おほのたけ)諸木(もろき)らは先ず麻剝の一族を誘い、(あか)(きぬ)(したばかま)及種々奇物を賜いました。しかしいくら豪華な衣装や宝物をあげると誘われても、畿内から筑紫に征服にやってきた敵の陣地にのこのこ釣られていくバカが居たのでしょうか?

やすい:そりゃあ、筑紫倭国が倒れて、筑紫熊襲国ができたので、筑紫倭国同様筑紫熊襲国とも親交を計りに来たといい、その上で是非友誼(ゆうぎ)の印にプレゼントしたいとか、そこはうまいこと言って(だま)したのでしょう。

羽の川(彦山川)上流の「麻剥(あさはぎ)

緑野の川(深倉川・緑川)上流の「土折猪折(つちおりいおり)

宇佐の川(駅館川)上流の「鼻垂(はなたり)

御木の川(山国川)上流の「耳垂」

星野:なるほど、そして従わない他の三人を差し招ねかせました。すると自分のともがらを率いて、やってきたので、悉く捉えて殺しました。これで筑紫北東部の熊襲を騙し討ちして片づけてしまったのです。その後で大帯彦大王は筑紫に入ったわけです。これは八岐大蛇に酒を飲ませて、酔いつぶれた時に首を斬る話や、磐余彦が、戦が終わった後で、敵の兵士らを招いて宴会でご馳走すると見せかけて虐殺したり、小碓王子が女装して熊襲の首領たちが酔いつぶれたところを成敗するなどと同じパターンですから、記紀の作者のアイデアで作り話でしょう。

やすい:そう言えば、梅原猛先生も記紀の物語が良くできているので、その時代にそう何人も文豪が出るものではないので、柿本人麻呂が影の作家だったと仰っていましたね。とはいえ、智略を使って、敵地で少数で圧倒的な多数を騙し討ちするという場合、こういうアイデアになりがちです。だから必ずしも後世のアイデアとは決めつけられません。伝承の段階で既にあった可能性も大いにあるでしょう。

星野:でもあまりに簡単に騙されてしまうので、創作ぽいですね。それで景行天皇の筑紫遠征自体が作り話と思われ、ひいては景行天皇自体も架空の人物とされるのも無理はないでしょう。

やすい:伝承と歴史的事実には大きな開きがあるのは確かですが、実際にどうやって大帯彦大王が筑紫遠征という大事業を成し遂げたかは謎だとしても、だからなかったとは言えません。大帯彦大王は、豊前の主だった敵を騙し討ちにしてから、筑紫豊前に入り、長峽縣に行宮(あんぐう)を興して住み、そこを(みやこ)と名付けたのです。この文章で出てくる高羽川、緑野川、御木川などの地名は七世紀末以降に飛鳥や奈良での創作としたらなかなかここまでは詳細には書けなかったでしょうから、信憑性が高いと言えるかもしれません。

3、碩田國で土蜘蛛を討つ

山中に隠れし土蜘蛛許すまじ血は踝に至りたるとも

星野:豊前国を平定してから南下して(おほ)(きた)国(後の大分県)に到着しますと、また女人が出迎えて、大帯彦大王に帰順し、熊襲を構成している土蜘蛛を裏切って、大帯彦大王に討たせようとします。おそらく碩田国は「大きい田」という意味で農耕中心で、母系制社会だったのかも。山林で狩猟・採集が主産業の土蜘蛛には田畑を荒らされたり、掠奪されたりすることもあり、対立していたのかもしれません。

やすい:山の石窟に住む青と白、それから禰疑野高原に住む打猿、八田、国摩侶の五人の首領たちです。速津媛のように進んで恭順を示せば、筑紫倭国を倒すのに参加していても、許して地位も与えるのですが、山野に逃げ隠れしたり、陰で叛意を漏らしていたりしたら、いずれ背くと見なして皆殺しにするというのが、基本戦略です。だからさんざん戦った上で、戦局不利と見て、降伏してきても許さないというのが、大帯彦大王のやり方です。

星野:「椎を作りて兵となす」とあり「兵に椎を授け」とあるので混乱しますね。「椎を作りて兵器となす」という意味ですね。

やすい:椎は兵士の腕となって戦うので、椎も兵士だという意味でしょうね。生身の兵士では山を穿ち草を払うことはできないので、海石榴で作った椎が山を穿てるということです。そうなると生身の兵士は椎の一部ということになりますね。運転手は車の一部みたいなものです。それで土蜘蛛の青と白の一族は皆殺しにされて、その血が流れて川下の田に居る人の踝まで赤く染まったという恐ろしい表現です。ホロコーストですね。

星野:なんと冷酷無比ですね。打猨は勇猛に戦って、その才覚を存分に示したわけですから、帰順するなら、名将を得ることになり、ますます強くなり、筑紫併合も速くなるのではないのですか?

やすい:それは大国主命の戦法です。大帯彦大王は戦いになる前に帰順してこなければ許さない主義ですね。あるいは、熊襲や蝦夷に対しては差別意識が強くて、降参しても自軍に組み込んだりしたら、いつ何時背かれるかもしれないと思っていたのかもしれません。

星野:そりゃあ、自分が騙し討ちにするのが得意な方だから、降参してきても、家臣にしたら何時後ろからブスリと殺られるかもしれないと思うでしょうね。心理学でいう投射ですね。自分自身の悪逆な性格を相手に写して、相手を悪逆だと決めつける心理です。

     4、熊襲梟帥の娘を篭絡する

(いち)(ふ)鹿(か)(や)情けかけられ父殺め不孝の罪で誅せられたり

()

星野:日向国と言えば宮崎県ですね。前回の話では木花咲夜媛が建てた小妻国が勢いを広げ日向国まで支配していたらしいですね。磐余彦が高千穂宮にいたり、日向から東征を開始したのもその流れですが。日向高屋宮は大帯彦にすれば先祖磐余彦一族の国に凱旋したことになりますが、それについての記述はありませんね。

やすい:ええ、『魏志倭人伝』投馬国は殺馬国の読み違えで、小妻国だった。それは薩摩半島が故地ですが、中心を日向に移したか、薩摩と日向に広がる地方国家だったと思われます。大帯彦の筑紫遠征の時、熊襲の国である襲國の中心は鹿児島県の方にあったと言われています。ただ筑紫倭国が熊襲に滅ぼされたという場合の熊襲は、筑紫倭国の支配を覆した広範な連合体だったと思われます。

星野:「()()(こく)」は音から「熊国」だとしたら、景行紀の「襲国」は、熊国の南下か、それとも熊と襲は別の国で連合していたので、熊襲と呼ばれたかもしれませんね。そういう解釈も可能ですか?

すい: ウィキペディアには「肥後国球磨郡(くまぐん)(現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国贈於(そお)(ぐん)(現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされる。」とあり、「くま国」「そお国」が別の国だったという解釈の余地はあります。いずれにしても筑紫倭国や畿内ヤマト国からみれば、熊襲として総称して同一視されていたわけでしょう。

星野:ところで熊襲がなかなか強力なので、少ない軍勢では勝てないし、大軍で攻めるとなったら人々に大きな被害を与えるので、なんとか兵を動かさずに攻略する手はないものかと参謀たちに尋ねると、熊襲梟帥には二人の娘がいるので、その娘たちに贈り物や寵愛などで篭絡したら、なんとかなるのではないかと進言しました。

やすい:倭人が大八洲に進出する時は、極少数の倭人が、先住民がたくさんいる大八洲を統治するのだから、宗教的には現人神として、そして造船や土木、農耕技術、冶金など先進文明で支配します。大帯彦大王の筑紫遠征も、アウェーでの戦いで、圧倒的に多勢に無勢、それをどう智略を用いて攻略するかということです。土蜘蛛に対しては逆らえば皆殺しという強面作戦だったわけですが、熊襲梟帥には戦わずして勝つ作戦が必要で、贈り物と寵愛による篭絡ですね。

星野:土蜘蛛に対するホロコーストで背筋を寒くして置いて、今度は一転好色作戦という展開は、物語の型なので、やはり作り話の匂いがしますね。

やすい:そう言えばそうですが、事実は小説よりも奇なりと言いますし、実際に大帯彦大王の筑紫遠征があったとしたら、そりゃあ波乱万丈だったでしょうから、別に物語の型と一致してもだから架空とは決めつけられません。()

星野: 大帯彦大王は賄賂と色仕掛けで熊襲梟帥の娘を篭絡したわけですね。その結果大帯彦大王に夢中になった市乾鹿文は、大八洲統合の大いなる夢に共感して、頑なに帰順を拒む父を殺したわけです。もしこのお話が大王も市乾鹿文に本気で惚れていたら、まだ市乾鹿文の不孝は、大王には罪がないと言えるかもしれませんが、父と娘を離間して、熊襲を潰そうと偽りの寵愛だったのですから、大王が娘に父を殺させたことになりますね。自分の罪は棚に上げて、娘の不孝を罰するのは倫理的に許しがたいですね。

やすい:ええ、だから『日本書紀』の作者は好色も戦術だと考えているわけで、見事な戦略だったと大王をほめていることになりますね。娘に不孝をさせることは、不孝の罪には入らないという立場ですね。これはどうでしょう。儒学から見てもやはり大王の行為は大問題の筈ですね。

星野:もし七世紀末や八世紀初頭にこの話を創作したとしたら、大帯彦大王を娘に父を殺させるように色仕掛けでしむけたとんでもない悪として描いたことになり、作者が不敬罪に問われるのではないでしょうか。

やすい:そうだとしたら、これは伝承だから書けたことになり、大帯彦大王の実在性の証拠になりますね。文学作品として最大の欠陥は市乾鹿文の父殺しの動機を書いてないところです。大王が熊襲と倭人が戦うのではなく、大八洲を統合して、熊襲も倭人も蝦夷もなくなり、みんなが仲良く暮らせる時代をもたらしたいと熱く語り、理想を語る大帯彦大王に共感して、父を殺したのか、ただ大王の寵愛を得んがために父を犠牲にしたのかがはっきりしません。その結果、大八洲統合という目的のためには、手段を択ばない大王の非情さが浮き彫りになってしまっています。


星野:姉は誅せられたけれど、結局代わりに妹の市鹿文が火国造に成っています。父熊襲梟帥は殺されたけれど、熊襲の勢力は侮れないので、火国造に熊襲から選ばないと、戦争になったら熊襲には地の利があるから、勝利するのはなかなか難しい。それで市鹿文が火国造ですが、火国は熊本ですね。熊襲は当時は鹿児島が本拠じゃなかったのですか。

やすい:句奴国つまり熊国或いは球磨川の球磨で球磨國が元々の熊襲の本拠だったので、南九州に南下していた熊襲を火国に戻したかもしれませんね。

十三年夏五月、悉く襲國(そのくに)(やは)したまふ。(しかるがゆゑ)以ちて高屋宮に居まして(すでに)六年也、於是(ここに)其の國に佳人(よきひと)有り、御刀媛(みはかしひめ)と曰ふ、則ち召して妃と爲す。豐國(とよくに)(わけの)皇子(みこ)を生みたまふ、是れ日向國造之(ひむかのくにのみやつこの)(はじめの)(おや)(なり)


本当はヤマトタケルのお話もする予定でしたが、景行天皇の筑紫遠征の話の山場までしか進めませんでした。筑紫倭国を倒した熊襲を平定して、大和政権が筑紫まで統合支配するようになった画期的な出来事だったと思われます。

第6講、倭国東西分裂と神功皇后伝承