「日本古代史像の再構築ー論争に触れながら 」目次とリンク
第九講,仏教伝来とパンデミック

1「俀国伝」は「倭国伝」の書き間違いか

「もし『魏志倭人伝』の下書きが草書体だったら『邪馬臺国』を『邪馬壹国』と書き間違えたとしてもおかしくない、井上悦文さんの問題提起である。古田武彦さんは『臺』と『壹』の書き間違えは他にはないことを証明したのだから、話は噛み合ってないけれど、検討には値する。

 正史を書くのは国家事業だから写し間違いのないように万全を期す筈で、下書きが草書だったら楷書にする時に間違える可能性大なので、著者自らが校正した筈だとも言える。しかし「投馬国」は里程から言って「薩摩国」ではないかという説が有力だ。「投」と「殺」の草書体はどうか。

 話は『隋書俀国伝』に飛ぶが「倭」ではなく「俀」になっていることで大問題になっていた。それも草書体が下書きだったための書き間違いということも考えられることになるかもしれない。正史はそんないい加減なものではないかもしれないが、こういう問題提起も安易に無視するべきではない。」

 以上の文章はFacebookに私が書き込んだものですが、『魏志』「倭人伝」や『隋書』「俀国伝」の下書きが草書で書かれていて、清書段階での錯誤があったとすればそれで説明がついてしまうことですね。「投」でなく「殺」だったとしたら、薩摩国だったことになり、邪馬台国大和説は万事休すですね。

草書体で解く 邪馬台国の謎 書道家が読む魏志倭人伝 | 井上悦文 |本 ...

 それに『隋書』「俀国伝」には「阿毎多利思北孤」問題があり、「比」と書くべきところが「北」になっています。これも下書きが草書体で清書をした人が倭語の教養がなくて、校正が杜撰だったとしたらあり得る間違いだったことになりますね。つまり両方同じ説明がつくということは、ますます草書下書き説は無視できないということです。

 それはしかしあまりにも杜撰な話なので、中国の正史に限って、そんないい加減なものだったというのはにわかには信じがたい気もします。

 ただ「俀国」が「倭国」のことだというのは『後漢書』「東夷傳」と『隋書』「俀国伝」を読み比べてみると分かると塚田敬章さんは『隋書』「俀国伝」の注釈で説明しています。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gokan_wa/gokanzyo_waden.htm

『後漢書』「東夷傳」倭国
『隋書』「俀国伝」

 確かに『後漢書』には「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀」とあり、『隋書』には「漢光武時遣使入朝自稱大夫 安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国」とありますから、『隋書』を書いた人は「倭奴國」と「俀奴国」を同一視していたと考えられます。塚田さんは『隋書』ができた頃には「倭」を「俀」と書く習慣があったのではないかと解説しています。それを指摘するなら、当然別の例を示さないと説得力はありませんが。

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 もちろん古田武彦先生がこの『後漢書』と『隋書』とから「倭奴國」と「俀奴国」を同一視されていたことを知らなかったわけではありません。『失われた九州王朝』では305頁にそのことを触れられています。「倭奴國」と「俀奴国」は同一だけれど、『隋書』では「倭国」と「俀国」は別国だというのです。

 つまり『隋書』「俀国伝」では「俀国」は出てきますが、「倭国」はでてきません。しかし『隋書』「帝紀三、煬帝上」には「倭国」は出てきますが、「俀国」は出てきません。

(大業四年三月)壬戌,百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物
(大業六年春正月)己丑,倭國遣使貢方物

 これは「俀国伝」の著者と「帝紀三、煬帝上」の著者は別人で同じ対象に前者は「俀」を後者は「倭」用いただけのようにも解釈されるでしょうが、古田さんはその解釈は無理だとします。というのは『日本書紀』の推古紀によれば大業四年三月には隋の使いの裴世清はまだ倭国にいたのです。

十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。

 結局、古田先生によれば、裴世清が唐に戻ったのは9月です。だから大業四年春三月の倭国遣使の倭国は小野妹子の俀国ではなかったということになります。

其後淸遣人謂其王曰 朝命既達請卽戒塗 於是設宴享以遣淸 復令使者随淸來貢方物 此後遂絶
「その後、裴世清は人を遣って、その王に伝えた。『隋帝に命じられたことは既に果たしました。すぐに帰国の準備をしてください。』 そこで宴を設けてもてなし、清を行かせた。また使者に命じて清に随伴させ、(隋へ)来て方物を貢いだ。このあと遂に交流は絶えてしまった。」

 『隋書』「俀国伝」は裴世清の帰国で交流を絶ったことになっているので、大業六年春正月の以倭国は俀国ではあり得ないことになります。倭奴國が金印の奴国のことだとすると、俀国も筑紫にあったことになりますから、古田説では、隋書の「倭国」は畿内王朝を指していることになる可能性が大だということになりますね。

小野妹子と裴世清

 ただしでは帝紀に倭国のことだけ書かれて、裴世清が遣使された俀国が出てこないのは説明がつきませんね。私も古田史学にそれほど詳しくないので、そのあたりをどう説明しているか、念頭に置いて古田史学の文献に接してみてください。

 それから大業四年の遣使は同日ですから「並んで」ということで「百濟、倭、赤土、迦羅舍國がともに使者を派遣して地方の名物を貢献した」と解釈すれば、裴世清に随伴して渡った遣使は単独で拝謁したので別のことだとも言えます。大業六年のは確かに「此後遂絶」と矛盾しますね。

 それに裴世清は『隋書』に出てくるので隋の遣使だったわけですね。倭国の遣隋使と一緒に倭国に渡ったけです。ところが『日本書紀』で小野妹子は大唐に行ったことになっているので、裴世清は隋の遣使としても来朝し、小野妹子に随伴して大唐の遣使としても来朝したというのが古田史学の解釈らしいです。しかし『唐書』には裴世清が唐の遣使として倭に赴いたことは記されていません。

2、「俀王以天爲兄以日爲弟」の解釈

shoutokutaishinotanjou

 『隋書』「俀国伝」といえばアメタリシヒコの解釈が焦点になるのですが、その前に先に方をつけておきたいのが「俀王以天爲兄以日爲弟」の解釈です。「俀王は天を兄とし、日を弟とする」と現代語訳されます。その場合に天を空に広がる天とし、日を自然の太陽と解釈して、「倭王は空に広がる天を兄とし、自然の太陽を弟としている」という意味に受け止めてもいいのでしょうか。この解釈をしているのが大山誠一さんです。『〈聖徳太子〉の誕生』吉川弘文館1999年刊
より引用します。

「つまり使者が言うには、倭王は頭上高く広がる「天(あめ)」すなわち空を兄とし、そこを照らす太陽を弟としているというのである。」(34頁)

 『古事記』や『日本書紀』のどこに大王(おほきみ)が自然の天を兄とし、太陽を弟とするような信仰を覗えるな箇所があるでしょうか?記紀では天照大神が天皇家の祖先神だということにしてあります。中国では天は天極の意味では北極星とされ、太陽は皇帝のシンボルとされます。もしも倭国の大王の兄が天で、弟が太陽だったら、倭王の方がが中国の皇帝より格上になってしまいますね。

 しかし大山さんの解釈はどうも大山さんが初めてではなくて、一般的なようで、ウェブでは「俀王は天を兄とし、日を弟とする」の訳に対して、「天」や「日」を自然の天や太陽の意味ではないと解説しているのはあまりみかけません。しかしこの解釈はとても現実的な解釈とは言えません。何故なら、夜が明けると、後は弟である日に任せるといって、倭王は下がってしまい、昼間は政治をしないわけです。日は自然の太陽ですから、大いなる恵みをもたらとしても、政治をするわけではありません。これではとても政権は持ちませんね。

 それで倭国はまだその程度の未開国ということで、大山さんは600年にそんな状態なのに603年に現代人でも感心するような『憲法十七條』など作れる筈がないということになるのです。しかし倭国は四世紀に新羅侵攻に参戦し、五世紀には伽耶を領有していましたし、世界一の巨大古墳群を有する強盛大国になり、六世紀には仏教も導入しました。とても未明に星を眺めて天意を伺うだけで、昼間は大王は太陽にまかせて、無為自然というようなわけにはいきません。

 それで開皇二十年の記事は、実際あった歴史的事実を記録したものではなく、隋の天下統一を讃えてはるか東海の彼方の未開の地から祝賀の使いが来たことにした飾り記事だという解釈もあります。だって『日本書紀』開皇二十年の遣隋使なんて出てきませんね。ですからこれは歴史書をどう評価すべきかという問題でもあります。

 中国の正史を書く場合、史家は歴史から教訓を学ぶために書くのですから、冷静にできるだけ客観的に書くことを身上にしていました。ですから飾り記事などとんでもないという人もいます。でも唐は隋の天下統一の成果を引き継ぐという形をとりましたから、隋による天下統一には高い評価をしています。その唐の時代に書かれた『隋書』ですから、隋の天下統一を奉祝する記事を捏造してもおかしくないという解釈も成り立ちます。

 もちろん飾り記事だと断定する前に、「俀王は天を兄とし、日を弟とする」を合理的に解釈できたら、した方がいいわけです。倭国にはヒコ・ミコ制という夫婦あるいは兄弟による統治がありました。伊邪那岐・伊邪那美の夫婦神がその典型です。二人は成り出でた神なので両親はいませんが、兄妹関係だとされています。姉の卑弥呼が巫祝を行い弟がそれに基づいて政務を執るというのが邪馬台国の形でしたね。六世紀末から七世紀初頭にかけては、実権は蘇我馬子にありましたが、形式的には大王は額田部大王(推古天皇)でもっぱら祭祀を行い、実際の政務は厩戸王が行っていました。実は叔母ー甥の関係でしたが、兄弟統治制に合うように兄弟の契りを結んだのかもしれません。

 兄弟統治なら額田部大王は女帝なので、合わないということはありません。姉妹だと女性に限定されますが、兄弟は女性でも問題ありません。兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)という言い方もありますから、大丈夫です。それで倭王は二人いて兄王を天、弟王を日と呼ぶと解釈すれば、天も日も人間だということになります。

3、「天未明時出聴政」の仰天解釈

 ではどうして兄王を天と呼ぶのか、それは未明の真っ暗な時に庭に出て、天意を伺うからです。「天未明時出聴政」は「兄王天は夜が明けない時に朝廷に出て政を聴く」ということです。大山さんたちの解釈だったら天は自然の天ですから、「天つまり空がまだ明けぬ時に(倭王は庭)に出て政を聴く」という解釈になりますね。

 聴政すると言っても未明の暗い庭で会議を開くわけではありません。「跏趺坐日出便停理務云委我弟」とあります。結跏趺坐しているわけで、天に向かって天意を伺っているということでしょう。難しい問題などがあれば、天意を伺うのですから、最終的な決定権は未明に天意を伺っている倭王にあるということです。

 でも実権は当時は蘇我馬子にあったでしょうから、推古女帝は結跏趺坐していただけかもしれません。それで「日出れば便(すなは)ち理務をやめ、云ふ『我が弟に委ねむ』と」なっていますから、大山さんたちの解釈では太陽が弟なので、後は太陽である弟に任せると言って退出するわけです。しかしそれでは本当に未開国ということになってしまうのであり得ませんね。

 私の解釈では明るくなってくれば天意は伺えないので理務をやめるということです。天意というのは中国では天帝の意志です。天帝は北極星なのです。倭人神話では天極の北極星が天之御中主神で、最初に現れた神ですから、高天原の主神だったわけです。記紀ではすぐに隠れたことになっていますが、それは主神を七世紀になって天照大神に差し替えたので、その差し替えたことを隠蔽するために、産巣日三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)はすぐに隠れたことに改変されたのです。
 
 兄王は天を祭祀するから天と呼ばれたということですね。では弟王は日が昇って来て、日を祭祀するから日と呼ばれたのでしょうか?それは違いますね。弟王は祭祀王ではなくて、政務王ですから、日常の政務を執行するので「日」と呼ばれたと捉えるべきです。これなら昼間無政府状態になりませんから安心ですね。

 ところで隋の文帝(高祖)は「これはなはだ義理なし、ここにおしえてこれを改ましむ」となっています。これは兄王が祭祀王、弟王が政務王というシステムをダメだと言ったのでしょうか?それとも大山さんと同じように大王が夜明け前に天に祭祀し、夜が明けたら後はお日様に任せてしまうと受け止めて、それをダメだと言ったのでしょうか?

 もちろん倭国側は兄弟統治制をダメだと言われたように受け止めたでしょうが、隋の文帝は大山さんと同じように誤解していた可能性もあり得ますね。これはどちらとも断定できませんね。

 「天未明時出聴政」を「兄王天は未だ明けざる時に出でて政を聴く」という私の解釈は、まさしく仰天解釈ですね。それは何故か、天を仰いで天意を伺うという意味でも「仰天」ですが、未明だから天照大神の意志ではなく天之御中主神の意志を伺っているわけです。つまり六世紀末までは主神は天照大神ではなかったということです。そして祖先神も天照大神ではなかった。祖先神だったら祭祀するはずですが、天照大神の祭祀は宮中では行われていなかったわけです。

 ところが記紀では主神であり大王家の祖先神だということになっています。ですから七世紀になってからそういう神道大改革が行われたということになります。そういうことが「天未明時出聴政」から読み解けるということはまさしく仰天ですね。

 ただし一点突破で、「天未明時出聴政」からだけ六世紀末まで天照大神は大和政権の主神でも大王家の祖先神でもなかったというのでは、危なっかしいですね。大和政権では天照大神に対する祭礼は、崇神天皇のときに祟り神としてどうすれば祟りを鎮められのかを聞き質す以外には行われていないこと。その時に朝廷から出た天照大神の御神体は畿内各地を放浪させられて、都を脅かさないけれど、離れすぎない隣国の伊勢に安置されたこと。天照大神の神の花嫁の御杖代がついていたので元々は男神だったことなども勘案しますと、実は須佐之男命と宇気比したというのは月讀命との差し替えだったとわかります。つまり大王家の祖先だったことにするために宇気比の場面を七世紀になってから改変しているのです。そういうことが次々と分かってきますと、「天未明時出聴政」の解釈も説得力が強くなってきたわけです。

4、「阿毎多利思北孤」は誰か?

 ところで倭王の姓は「阿毎(あめ)」、字(あだな)は「多利思北孤(たりしひこ)」とされています。私の仮説の兄弟王だと阿毎多利思北孤だけ書かれているのはどうしてか疑問ですね。ただ兄王は祭祀王なので、遣使したのも弟王だったとしたら、阿毎多利思北孤も弟王の称号ということで、当時は厩戸王だったということですね。「阿毎(あめ)」は天族、天人族のことで倭人の自称にあたります。「たりしひこ」は「君徳を及ぼす、垂らす貴人(まろうど)」という意味で「あめ」と合わせて「アマ族の王」という意味です。ですから名前というよりは称号で、隋側から遣隋使を派遣した支配者の名を尋ねられたのに対して、支配者がどう呼ばれているかで返答をしたら、隋側は「阿毎」が姓で「多利思北孤」が字だと受け止めたのでしょう。

 「比孤」と書くべきところが「北孤」となっているのは、古田史学では「北孤(ほこ)」で覇者的な称号だったということですが、「比」と「北」は字の形がよく似ていますから、これこそ書き間違えの可能性が高いですね。倭人の言葉を知らない人が書いているので、そうなってしまったのかも。

比と北の草書体

 ところで號が「阿輩雞彌(あはけみ)」となっていますが、これは「大王(おほきみ)」のことだろうと言われています。それで当時大王なのは額田部大王で、厩戸王ではないという人もいますが、王一文字でも「おほきみ」と読みます。「額田王(ぬかたのおほきみ)」という歌人がいましたね。

 しかし阿毎多利思北孤が弟王日で、厩戸王に当たるというのなら、倭王から隋の皇帝に対して「日出処之天子」を自称しているから、厩戸王も天子だったことになってしまいます。天子は二人いてはおかしいから、やはり天子は天意を伺って最高意思を決定する兄王のみと考えるべきではないのかという反論があります。念のために当該箇所を引用しておきましょう。

大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
「大業三年(607)、その王のタリシヒコは使者を派遣し朝貢した。使者は『海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。』と言った。その国書にいう。『日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々』 帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に『蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな』と言った。」

 天子を名乗っているのは国書の中だけですね。派遣したのは阿毎多利思北孤なのですが、兄王つまり額田部大王が遣隋使に国書を託したと解釈できます。しかし阿毎多利思北孤が天族の支配者という意味なのだとしたら兄王も阿毎多利思北孤と呼ばれたのではないかと思われますね。ただし兄王が女帝だとしたら「あめたらしひめ」と呼ばれたかもしれないし、政務王は「あめたらしひこ」だけれど祭祀王は別の呼び方があったかもしれません。

 「阿毎多利思北孤」に裴世清は倭国に来て会っている筈ですが、『隋書』「俀国伝」では女帝だったという話はありませんし、倭国に来て、倭王が二人いたという記事もありません。『日本書紀』では裴世清が隋に戻るにあたって、天皇がことばを贈っていますが、おそらく手紙に認めたものだったでしょう。

「爰(ここ)に天皇、唐帝を聘(とぶら)ふ。其の辞(ことば)に曰はく、「東の天皇、敬みて西の皇帝に白(もう)す。使人(つかい)、鴻臚寺(こうろじ)の掌客(しょうきゃく)・裴世清(はいせいせい)等、至りて久しき憶(おもい)、方(みざかり)に解けぬ。季秋(このごろ)、薄(ようやく)に冷(すず)し。尊(かしこどころ)、何如(いか)に。想ふに淸悆(おだひか)にか。此(これ)は即ち常の如し。今大礼(だいらい)蘇因高(そいんこう)・大礼乎那利(おなり)等を遣(まだ)して往(もう)でしむ。謹みて白(もう)す。具(つぶさ)ならず」といふ。(『日本書紀』・推古紀十六年)」

 そういう手紙を寄こすのなら、推古女帝が裴世清に会わなかったことに対して、『隋書』にも何か触れる筈だと思いますが、そのあたりは釈然としませんね。ともかく隋に対しては兄王天は祭祀王に徹していて、世間に顔も出さないし、外交でも一切接見しないとものだと思い込ませ、倭王との接触は阿毎多利思北孤に限定したということになります。

5、「阿毎多利思北孤」と「天皇」号

 アメタリシヒコを天人族の支配者あるいは天人族の王という意味に解しますと、「天皇」の源流ではないかという気もしますね。つまり天は天人族を意味し、皇は支配者つまり王を意味するとしたら、天皇は「天人族の王」という意味だったことになり、その称号化の可能性が出てきます。そうだとしますと、唐の高宗が天皇と呼ばれたので、それを模倣したという説には拘る必要はなくなります。

 天皇号はだれから始用されたのかについて、記紀には天皇とされていても、神武天皇を初代にするとされて天皇号が書かれていただけで、在世時代から天皇と呼ばれていたのは物証を伴う必要があるということで、法隆寺薬師如来像の光背銘から1960年代までは推古天皇からだとされてきました。

 ところが1970年代からは法隆寺薬師如来像を筆頭に、推古天皇から天智天皇に至るまでの光背銘などの天皇号が入った物証はすべて後世の偽作とされて、結局天皇号の成立は唐で高宗が天皇号をつけられた後のことなので、天武天皇からだという説が有力になっています。

天皇号推古朝始用の資料には以下のがあげられます。
推古十五年(607)の作とする法隆寺薬師像光背銘
元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す丈六仏光背銘(609)や塔露盤銘(656)
推古三十年(622)の作とする天寿国繍帳など

その他の天武までの使用例には以下があります。
天智天皇七年船氏王後首の墓誌銘
中大兄称制西暦666年に作られたのが「野中寺弥勒菩薩半跏像台座銘」

 そのうちどれか一つでも本物だったら天武始用説は成り立ちません。どれもそういう偽作を行わなければならない特別の事情は考えられません。偽作はそれによって寺の格を上げて国家の庇護を受けようとしたとか、偽作の資料を高くその寺に売りつけようとしたということですね。いずれも国家と天皇を欺く詐欺で重罪ですから、簡単にはできません。特に法隆寺や元興寺などがそんなことをするとはよっぽどですから、確かな証拠がないと偽作という決めつけは信用できませんね。

 それに偽作で天皇号を入れるのはその時代に天皇号が使用されていたと偽作者がみなしていたからです。当時天皇号が何時から始まったかで論争があったわけではなく、天皇号をまだ使用されていない時代のものを偽作するのに天皇号を刻印すると、偽物だとばれてしまうわけです。偽作説で、天皇号の始用時期を否定するのは藪蛇みたいなところがあるわけです。

 天皇号始用問題は棚上げにして、ここでは「アメタリシヒコ」が「天皇」号の源流の一つではという問題に戻ります。つまり「天(アメ)皇(タリシヒコ)」という捉え方です。実は欽明朝に天皇号が百済から倭王に対する尊号として使用されたという説があります。古代朝鮮史の三品彰英さんは「日本国号考」(『聖徳太子研究』三、1967年)で、『日本書紀』に引用されている『百済本紀』の記事を論拠に、欽明朝の時期に百済が倭王に対して天皇号を使ったのが始まりとしているようです。しかし元の百済の本が残っていて、そこに書いてあるのならともかく、『日本書紀』の記事では書紀の編者が「大王」を「天皇」に書き直した可能性が強いというので、三品説はほとんど取り上げられていませんね。

 ただ百済が倭国の大王を「天皇」と呼ぶのは合理性があります。つまり百済は倭国に従属していたので「倭」を蔑称としたら「倭王」とは呼べませんから、「天王」とか「天皇」つまり「天人族の王」という意味の称号で呼んだことが考えられます。しかも天皇が天帝の意味も兼ねると知っていたので、「天皇」と呼んで神聖化したとも考えられますね。

 もっとも記紀では神武天皇から天皇号だったことにしていますから、百済の聖明王が「日本天皇」と呼んだと書いてあっても、証拠にはなりません。ただ百済の立場を考えれば、欽明天皇から天皇と呼ばれた可能性があるとしか言えませんね。

 それで私は七世紀初頭に天照大神を元々高天原の主神だったことにする神道の大改革があったとして、その際に主神の座を降ろされた天之御中主神の祟りを恐れて、大王が天之御中主神の現人神として「天皇」号を称号にしたという解釈を打ち出しました。つまり中国の道教では北極星は天皇大帝と呼ばれ、最高神でした。天之御中主神も北極星ですから、「天皇」として大王の称号化したのです。

 ただし天皇は中国では天帝の意味なので、皇帝より格上になってしまいます。それでクレームが出たら「天皇」は「天人族の王」という意味で昔から使われていたと言い繕っていたのです。

6、小野妹子は遣隋使か遣唐使か

 小野妹子が遣隋使だったのは、小学生でも知っている歴史のイロハですが、では『日本書紀』に小野妹子は遣隋使だったと書いてあるでしょうか?

「(推古15年608年)秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利爲通事。」
「十六年(609年)夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。爲唐客更造新館於難波高麗館之上。」

 なんと『日本書紀』では隋ではなく「大唐」になっています。推古15年は608年ですから、唐ではなく隋ですね。唐は618年~907年です。では『隋書』ではどう書かれていたでしょうか?開皇20年の第一回遣隋使の記事には遣隋使の名前は書かれていません。大業三年は重複しますが、再掲します。

「大業三年(607)、その王のタリシヒコは使者を派遣し朝貢した。使者は『海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。』と言った。その国書にいう。『日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々』 帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に『蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな』と言った。」

 小野妹子が行ったのは推古16年に大唐についています。それは609年ですから隋には違いないのですが、『隋書』記事と2年ほどずれています。『隋書』には遣隋使の名前が書いていないので、小野妹子が遣隋使だったことは「俀国伝」からは確定的なことは言えないわけです。ただ「帝紀三、煬帝上」に「倭国」からの使者が大業4年608年に他国と一緒に拝謁しています。まあ歴史書は完璧ではないということで、1年ぐらいのずれはいいという人もいますが、それは倭国と俀国は別の国ではないかという古田史学の問題提起がありますから、帝紀の倭国の使節は小野妹子ではなかったことになります。

 それでも推古16年が大業4年で西暦608年だったら小野妹子は遣隋使ですが、子の推古16年というのが怪しいと古田史学では考えます。唐が大唐と呼ばれるのは618年以降なので10年はずれているとします。

推古紀「十七年夏四月」の記事に筑紫大宰(おほみこともち)奏上して言ふに「百濟僧道欣・惠彌を首となす一十人・俗七十五人、肥後國葦北津に泊まる」と。この時、難波吉士德摩呂・船史龍を遣し、以て問ひて曰く、「何して來るや」と。對へて曰く「百濟王命以て吳國に遣ふ、其の國亂有りて入るを得ず。更に本鄕に返すも、忽ち暴風に逢う、海中を漂蕩す。然るに、大幸有りて聖帝の邊境に泊まる、以て歡喜せり。」と」

 つまり百済の船で僧十人と俗人75人が王命で呉の国に派遣されたけれど、呉の国は戦争状態で入れなかったから、百済に引き返したものの暴風にあって、流され、肥後の葦北津に流れ着いたということです。もし推古17年西暦609年だったら、煬帝の権力は中国全土に行き渡っていて、呉の国などできていません。李子通が江都で呉を建国したのは619年です。621年には滅びました。だからこの記事も10年はずれているので、小野妹子の遣使も本当は推古16年ではなく、26年以降つまり大唐ができた618年以降ではなかったかという解釈です。

 確かに隋という王朝名を無視して大唐だったことにしたのも納得できませんし、逆に遣唐使だったのに、聖徳太子の時代の話にして中国との対等外交を開こうとしたということで太子の偉大さを装飾するための粉飾だったのでしょうか?

 しかし600年の遣隋使や608年の遣隋使は隋書にもあるわけですから、アメタリシヒコが厩戸王なら遣隋使もあったわけですから、厩戸王の名誉のために評判の悪い煬帝に遣使したとするのを嫌って、大唐に遣使したと書いてしまったということでしょうか?

 たしかに十年以上後の話が紛れ込んでいたしますし、隋を大唐だったことにするなど、歴史書にとったら致命的なミスを犯していますが、だから小野妹子は実は本当は遣唐使だったとか、倭国と俀国は別の国というような断定するのは、無理があります。それは九州王朝が七世紀まで続いていたとしたら確かにそうなるでしょうが、そのことの証明はできていないと私には思われます。その最大の理由は四世紀の英雄時代、景行天皇から神功皇后の時代をなかったことにする点で、古田史学も戦後史学に追随していて、その点が私には納得できないからでしょう。

 第十一講 蘇我専制と大化の改新