頸城野郷土資料室学術研究部 研究紀要 Vol.5/No.13 2020.6.26
ディスカッションペーパーより

汎神論と物神論 ―ブルーノ・スピノザ・フォイエルバッハ―
文責 石塚 正英


はじめに

❑近代科学の黎明期や確立期を代表すると思われている人々の中に、研究対象の自然界や自然法則について、それは神の創造になると信じて疑わない面々はたしかにいた。

ポーランドのワルシャワにあるニコラウス・コペルニクスの像。
コペルニクス

❑例えば、ニコラウス・コペルニクス(1473-1543)の地動説を受け入れた〔ノラの人〕すなわちジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)は、ヘルメス主義的な魔術師でもあった。神秘主義的なネオプラトニズムに傾倒するヨハネス・ケプラー(1571-1630)の太陽中心主義は神秘主義の傾向を持っていた。

❑そして、やはりネオプラトニズムに感化されたアイザック・ニュートン(1642-1727)も錬金術師だった。いや、そもそも天体研究の元祖コペルニクス自身からしてネオプラトニズムに感化されたカトリックの聖職者だった。

アルマゲスト - 恒星社厚生閣 天文・水産系の学術専門書を中心に発行し ...

❑ネオプラトニズムはルネサンス期の時代思潮だったが、それはそれとして、ここでは単なる天地でなく天地を動かす自然法則を神の創造だと言い放った天体研究者はだれであるか、それを確認したい。管見の限りで、それは古代ローマのクラウディオス・プトレマイオス(83 頃-168 頃)である。彼は『アルマゲスト』の序文にこう記していた。

「もし宇宙の本源的運動の第一原因を求めるならば、それは目に見えぬが恒久不変の神であることを発見するであろう。そして神学の対象であるこの部門は、物質世界の彼方にのみ求めらるべきものである。何となればそれについて我々の感覚に触れるものと全く異なった働きだけしか知らないからである」(☆01)。

(☆01) プトレマイオス、藪内清訳『アルマゲスト』恒星社厚生閣、1982 年、2-3 頁。

❑たとえ動力源が自然であれ神であれ、この地球は自律的に動くという考えはルネサンス期から啓蒙期にかけてのヨーロッパで一つの思潮を産み出す。と同時に、それぞれに見合った神観念も産み出されていく。一神論(monotheism)と異なる汎神論(pantheism)、理神論(deism)、そして物神論(fetishism)である。

❑その諸類型のうち汎神論は、とりわけベネディクトゥス・デ・スピノザ(1632-77)の登場によって輪郭が定まる。理神論は、ジョン・ロック(1632-1704)ほか啓蒙思想家の多くに好まれた。それに対して物神(論)は、特定の神学者・思想家によってでなく、中近世ヨーロッパの農村社会で、農耕儀礼の中に維持された。あるいはまた、アフリカ、アジア、アメリカ諸大陸における先住諸民族とヨーロッパ人との接触によってヨーロッパ人に意識されるようになった。

金枝篇7 穀物と野獣の霊(下)

❑その過程で啓蒙思想家の一人、シャルル・ド・ブロス(1709-77)がフェティシズムという造語を用いて理論的に確定させ、19 世紀ドイツの思想家ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-72)が諸宗教の本源的在り方として理論化した。或いは 20 世紀に至って、社会人類学者ジェームズ・フレイザー(1854-1941)が当該の事例を著作『金枝篇』中にふんだんに収集した。

❑本稿において私は、とくに汎神論と物神論を取り上げて、両者を比較検討することとする。結論的なことがらを記せば、中世カトリック世界においても近代科学的世界においても、民衆の日常世界では、物神(Fetisch)は儀礼を介して、ときに汎神を装いつつ、それを造り出した人々の眼前に通奏低音のごとく可視的に、神霊ではなく形像自体として存在したということである。

1.フェティシズムとアニミズム

西周
若き西周

❑まずは、本稿のテーマとなる物神論(fetishism)と汎神論(pantheism)について、そ の概念を説明する。前者のことを、私はフェティシズムとも表記する。幕末・明治前期の 思想家である西周(1829-97)は、『生性發蘊(せいせいはつうん)』(1873 年)を刊行し、その中に「フェテジ ズム」なる語を記した。

神理学ノ地位ニテハ、人皆万有ヲ以テ、理外ノ者アリテ、之ヲ生造スル者ナリトシ、而シテ其森羅万象ノ、錯出紛起スルハ、皆理外ノ者ノ、製造スル所ナリト謂〔オモ〕ヘリ、故ニ、此天地ハ、理外ノ体アリテ、其生々化ヲ運ラシ、而シテ各箇非常ノ見象ハ、皆何ニテモ、神ト崇メ祭ル者ナリ、好悪ノ徴シナリト謂ヘルナリ、此地位中ノ、最下ナル度ハ夷狄ノ化ニシテ、草木禽獣(フエテジズム)〔ルビ〕ヲ、神トシテ祭ル者ナリ、又此地位中ノ至高ナル度ハ、多クノ神ヲ崇メスシテ、唯一体ヲ神トシ、之ヲ万有見象ノ本トスル也。

❑これには下の原註がついている。

「木石ヲ崇メ蛇虫狐狸等ヲ信シ神トスルノ教、多クハ蛮戎ノ風ナリ」(☆02)。

(☆02) 大久保利謙編『西周全集』第1巻、日本評論社、1945 年、49 頁。

また、そのあとに「草木教(ヘチシズム)〔ルビ〕」という記述も読まれる(☆03)。

(☆03) 同上、52 頁。

フェティシュ諸神の崇拝 (叢書・ウニベルシタス) | シャルル・ド ...

また、この語を創始したド・ブロスは、著作『フェティシュ諸神の崇拝』(1760 年)において、次のように概念を定義している。まずフェティシズムにおいては、

➀フェティシュ信仰者は彼らの神であるフェティシュを自分たちで選ぶ(☆04)。

(☆04) Charles de Brosses, Du Culte des Dieux fétiches, ou Paralléle de l’ancienne Religion de l’Égypte avec la Religion actuelle de Nigritie, Genève 1760, p. 46. 杉本隆司訳(石塚正英解説)『フェティシュ諸神の崇拝』法政大学出版局、2008 年。

自分たちの神を自分たちで選ぶのである。神より以前に人間が存在している。フェティシュは、その信仰者が自ら選び取った生物・無生物の自然な神であって、超自然の能力はない(☆05)。

(☆05)フェティシュに超自然の能力がないことは、原始のフェティシストに超自然という概念が欠如していたことと関連する。例えば、岩石フェティシュにおいては、聖なるものは岩石のなかに住むのでなく、岩石そのものなのである。だがそれは、他方で人間と同列である。岩石フェティシュの有する力は自然的な力であって、けっして超自然的なそれではない。物から引き離された力であれば超自然だが、岩石フェティシュの力は奇跡でもなんでもない。フェティシュとそれを信仰する人間との違いは、ただ、人間には発揮できない力をフェティシュは持っているということだけである。石塚正英『フェティシズムの信仰圏――神仏虐待のフォークローア』世界書院、1993 年、参照。

②フェティシュ信仰者は、フェティシュそれ自体をじかに拝むのであって、フェティシュは何かいっそう崇高な、霊的・抽象的な絶対者、真に崇敬の向けられている別物の象徴とか形代とかではない(☆06)。そして、

(☆06) C. de Brosses, ibid., p. 64. なお、原初的生活者は象徴という観念とは無縁であったことに関し、神話学者の松村武雄は、シュタイネン(K. v. d. Steinen)の著作『中央ブラ ジルの自然民族に伍して(Unter den Naturvölkern Zentral-Brasiliens)』を例にして、次のように述べている。「(シュタイネンは)ブラジル森林地の原始的インディヤンとの永い年月に亘る共棲の実際経験に基づいて、自然象徴観の誤っていることを指斥したあと、『文明』の眼鏡をかけた人々が、低層文化民族の神話を解して、そのすべてが当然象徴的な意味を持っているものとなし、それで問題が解決済みになっているように心得ていることの馬鹿らしさを嗤笑して」いる。松村武雄『神話学原論』下巻、培風館、1941 年、34 頁。

③フェティシュはその信仰者を保護ないし支持しなければならず、その能力を失うや信仰者に打たれるか、棄てられるかする(☆07)。

(☆07) C. de Brosses, ibid., p. 102f. p. 229.

❑以上の 3点が、ド・ブロスによって定義され、ド・ブロスによって始めて命名された原初的信仰、フェティシズムの内実である。或る原始信仰を観察した場合、それがこの 3 点のいずれか一つでも欠いておれば、それは厳密な意味ではフェティシズムと規定できない。前 2 者が必要条件で、第 3 のものが十分条件である。西の説明は、第 1 点に関わる。

ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ - Wikipedia
フォイエルバッハ

❑次に、汎神論(pantheism)についてだが、私はこれを 19 世紀ドイツの哲学者フォイエルバッハが「哲学改革の暫定的命題」(1843 年)で記した以下の内容に従う(☆08)。

(☆08) Ludwig Feuerbach, Gesammelte Werke 〔 LFGW. と 略 記 〕 , hg. v. W.Schuffenhauer, Akademie-Verkag, Berlin, Bd.9, 1969, S.244. 舩山信一訳「哲学改革のための予備的提言」、『フォイエルバッハ全集』第 2 巻、福村出版、1974 年、31-32 頁。
□ここで、私なりの持論を記す。スピノザにおける実体は神だとされるが、神=自然(Deus sive Natura)なのだから、何のことはない。スピノザの実体は霊的・精神的でなく肉的・物質的であることになる。スピノザの立場は厳格な一元論だとされるが、融通の利く一元論で、内部における二元論を含んでいる。人類学における2分組織に似ている。その特徴はこうだ。2つのクラン(氏族)でもって1つのトライブ(部族)、氏族を単位とすれば族外婚、部族を単位とすれば族内婚。

❑汎神 論 は多 神 論とい う述語 を もっ た一神論 で ある ( Der Pantheimus ist der Monotheimus mit dem Prädekate des Polytheimus)。すなわち、汎神論は多神論の 独立な諸本質を一つの 独立な本質(存在者)の諸述語または諸属性にする。こうして スピノザは、思惟する諸事物の総体としての思惟と、延長している諸事物の総体とし ての物質とを、実体すなわち神の諸属性にした。神は思惟する事物であり、延長して いる事物である(Gott ist ein denkendes Ding, Gott ist ein ausgedehntes Ding)

❑一読のみでは、なにか訳のわからない、判断のとっかかりがない説明である。汎神論は多神論と同じか、それとも一神論と同じか。主述の関係で推し量ると、主語は汎神論で述語は多神論だ。繋辞の観点で推し量ると汎神論=一神論だ。これを、私は繋辞の関係でなく、主述の関係でとらえたい。汎神(論)は多神(論)するのである。汎神論の本質は一神論であれ、現象としては多神論的に機能するのである。

❑また、最後の一文に繋辞の関係を読むと、神は事物である。それから、フォイエルバッハがここで述べる汎神論は、スピノザ思想のことと読める。「思惟する諸事物の総体」を思惟(Denken)とし、「延長している諸事物の総体」を物質
(Ding)とし、その二つは「神の属性」になっている。その二つのうち、思惟の側面を強調すると一神論に近づき、物質の側面を強調すると多神論に近づき、それをさらに強調すると物神論(フェティシズム)に近づく。

❑ここに記した多神論に、私はアニミズムを含める。そうであれば、スピノザ思想を評価してフォイエルバッハが定義する汎神論にはアニミズムとフェティシズムが含まれることになる。多神論に、あるいは汎神論にアニミズムを含めることにした理由として、ルネサンス期のネオプラトニズムないしその影響下にある思想に〔事物に宿る神〕というとらえ方があるからである。また、ケプラーにアニミズムの発想があるとみることもできるからである。

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❑研究者のフランセス・イエイツは『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』(2010年)において、以下のように記述している(☆09)。

(☆09) フランセス・イエイツ、前野佳彦訳『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』工作舎、2010 年、316 頁、641 頁。

❑ブルーノの『勝ち誇る野獣の追放』(1584 年)の基本的なテーマは、エジプト人の魔術的宗教の讃美である。彼らの崇拝の内実は「事物に宿る〈神〉」の崇拝であったとされる。(中略)惑星の楕円軌道を発見したこの卓越した数学者(ケプラー―石塚)はしかし、その一般的な世界観においては、決してルネサンス的思潮の影響を脱していたわけではなかった。例えば彼の信奉する太陽中心説は、神秘的な背景を伴ったものである。惑星楕円軌道の発見もまたピュタゴラス的な天球の音楽を実証するものとして、彼に忘我の歓びを体験させたのだった。

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❑さらに彼の理論にはアニミズムの痕跡も観察される。アニミズムという術語・概念は 19 世紀イギリスの進化主義的社会人類学者エドワード・バーネット・タイラー(1832-1971)が創始した。タイラーは、1856 年にメキシコやキューバなどアメリカ大陸を旅行し、現地の先住民文化を見聞し、ほどなくイギリス人類学の礎を築くこととなる。そこで彼が主唱した「アニミズム(animism)」は、著作『原始文化(Primitive Culture)』(1871 年)によく示されている。

「魂(soul)とその他の霊(spirit)とのよく似た性質は、実際のところ、最も粗野な段階から最も開化した段階まで、アニミズムに通常みられる点の一つである」(☆10)。

(☆10) Edward B. Tylor, Primitive Culture : researches into the development of mythology, philosophy, religion, language, art, and custom, Vol.2, London, 1871,

❑タイラーにすれば、人間の魂と諸物の霊とは似通っている。両者を媒介する術語として、タイラーは「アニマ(anima)」を持ち出す。アニマは、大きい括りでは精霊であるが、アニマを介して人間は諸物と相互交流する。その社会現象をタイラーは、1850 年代に中米を旅行して得た知見の中に見通した。このアニマというラテン語概念のヨーロッパにおける積極的活用を、私はルネサンス期のネオプラトニズムに見いだす。

2.地中海神話に読まれる mater

□さて、フェティシズムとアニミズムには、物質が絡む。ちょうど天空で水蒸気が雨粒に結晶するときに必要な塵のように、物質が介在するのである。その物質(動物)が神として登場する場面が旧約聖書に記されている。

□例えば、レビ記 17-7 には、イスラエルの人々が「かつて、淫行を行なったあの山羊の魔神に二度と献げ物をささげてはならない」(☆11)とある。

(☆11) 新共同訳・聖書、日本聖書協会、1989 年、189 頁。

□ここに出てくる「山羊の魔神」は、ラテン語訳旧約聖書(マドリッドで現在発行されているビブリア・ウルガタ)ではdaemonibus となっている(☆12)。

(☆12) Biblia Sacra iuxta Vulgatam Celementiam, Madrid 1977. Leviticus 17-7.

□その意味は「魔神」「悪霊」であろう。さらに、この語をヘブライ語原典(キッテル編『ビブリア・ヘブライカ』)で確認しラテン文字で記すと「セイリム」(seirim)となっている(☆13)。

(☆13) R. Kittel(hg.), Biblia Hebraica Stuttgartensia,1906(1937, 51)

□ゲゼニウスの『ヘブライ・アラム語(・ドイツ語)辞典』にこのヘブライ語の意味を問えば(☆14)、

(☆14) Wilhelm Gesenius’ Hebräisches und Arämisches Handwörterbuch über das Alte Testament, Berlin, 1962, S.173.

□フォイエルバッハがなにゆえにモーセ以前の、族長たちの神をポジティヴに評価し、モーセ以後の、とくにヘレニズム時代以降の神(ユダヤ教)をネガティヴに語ったかということの根拠が判明する。

❑すなわち、ここに引いた seirim とは、「毛深いもの、山羊」、総じて「有毛の動物(lanata animalia)」という意味をもつ。レビ記の中でヤーヴェがモーセに伝言している戒めは、ヘブライ語にあっては端的に「動物を崇拝するな」ということである。ここにいう動物神の、族長時代における意味は文字通りのものであり、それ以外のいかなる意味も含んではいなかった。悪霊とか魔神とかは、ヤーヴェに対する諸神の、いわば総称として、のちの時代のユダヤ教徒がオリエントの動物神一般に比喩的にあてはめた派生の意味である。

❑ところで、物質のことをラテン語で mater と記す。その意味をいっそう古い概念にまで探っていくと、フェニキア語の mot に行き着く。カエサレアのキリスト教会史家エウセビオス(260 頃-339 頃)がいろいろな逸文・断章を編集してつくった著作『福音の準備』には、古フェニキアの著述家サンコニアトン(前 13 世紀頃?)の著述が含まれている。

□エウセビオスの解説にしたがってそれを読むと、宇宙の始元は「雲と風とをともなった暗闇の大気、いやむしろ曇った大気の突風、およびエレボスのごとき暗闇の、濁ったカオスであったと想像している。(中略)風がそれ自身の両親に魅せられると、混合が起こり、その交わりは欲求と呼ばれた。これが万物生成の開始であった」。

□さらにサンコニアトンによれば、風たちの交わりからモト(mot)すなわち泥(mud)が生まれ、それが破裂して光、太陽、月、星が生成した。また、風コルピアスとその妻バーウとから「いわゆる死すべき人間たるアイオーンとプロトゴノスが生まれた」(☆15)。

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(☆15) Eusebius, tr. by E. Hamilton Gifford, Preparation for Gospel, in 2Vols., I,Michigan, 1981. p.37-39. なお、原文の題名(praeparatio evangelica)はラテン語だが、本文はギリシア語で綴られている。なお、この史料を素材の一つにして 1993 年に行った講演に基づく拙稿を挙げる。
「〔講演〕神話の 3 類型――天地開闢・国産み・天地創造(成る・産む・創る)」、『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』Vol.5/No.1 2020.
□こうして先史のフェニキアでは、まず最初に自然物が文字通り自然に生成したのである。そこに神は介在しない。天地開闢である。神はむしろ自然に備わるものの一断片を素材(mater)にして人間がつくる。自然界にはこうして自然と人間と、その人間がつくった神が共存することになるのだった。

□フェニキア語の mot は、ローマでは mater となった。その語から後世に「素材 material」とか「母 mother」とかの概念が出来上がった。 いずれも大地や身体に関係するが、またそのまま神々(物神・母神)にも関係する。この歴史的な術語展開は、本稿の叙述テーマに深く関わる。

3.神々の形像そのもの崇拝

□土のことをヘブライ語で「アダマー」と称する。ローマ字で綴れば adamah とでもなろうか。女性名詞である。このアダマー=土から「アダム(adam)」が造られた。すなわち、ヘブライ世界で大元は母=女であり、これから人=男=アダムが生まれるのだった。

❑ユダヤ教徒になる以前のプレ・ヘブライ人は母=アダマー神信仰を隠さなかったとみえる。文明時代になってから成立した旧約聖書によれば、始めにヤーヴェが森羅万象を創造しつつアダムをこしらえたのだが、先史のプレ・ヘブライ世界では、始めに森羅万象あるいは大地(アダマー=女)があって、そこから人(アダム=男)が生まれヤーヴェが生まれたのだ。

□いったんヤーヴェが生まれると、今度は事態が逆転して、神が男をつくり、神がその男から女をつくることになった。先史地中海海域に登場する神々には、それを象る像が造られた。天体もその一例だが、ここでは扱わず、地上の石塊や土塊、山岳や樹木に目をやることとする。19 世紀後半イギリスの社会学者・人類学者グラント・アレン(1848-99)は初期のヤーヴェあるいはヤーヴェになる前のヤーヴェについて、それは岩石だったと分析している(☆16)。

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(☆16) Grant Allen, The Evolution of the Idea of God, An Inquiry into the Origins of
Religions, Watt & Co., London, 1911(1st ed. 1897), pp.49-50.

□サウルが王に選ばれたのはミズパの石塚の傍であった。サウルがアンモン人への勝利の後「王国を新に」し『彼処にてヤーヴェのまえに献げ』たものもギルガルの大環列石であった。〔サムエル前書、11-14、15〕

□旧約聖書の此の箇所は甚だ有益且つ重要である。何故ならここで我々は、聖書記者の意見に由ると、少なくともヤーヴェがその当時にはギルガルの聖なる環列石を構成している幾つかの聖石の中に交って、その一員として存在していたことを、知るからである。(中略)ヘブライ人の神にして後代に至って純化され霊化されてキリスト教の神となったヤーヴェは、その起原においては、それが如何に彫刻されていようとも、畢竟イスラエル民族の祖先の聖石以外の何物でもなく、かつまた、恐らくは、これを煎じ詰めれば、或る古代のセム人の族長または首長を記念する為の加工されざる石柱以外の何物でもなかった、という自明なる推論、これは避け得ないものである。

□こうした物質崇拝の痕跡について、次はパウサニアス著『ギリシア記』(後 2 世紀)から拾ってみると次のようである。

「オルモネスでは見どころが、ほんのひとかけらもなかったが、ヒュエットスにはヘラクレス神殿があった。病人はこの神に、病を治してもらえる。神像は刻んだものでなく、昔風に自然石である」(☆17)

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(☆17) Pausanias, Description of Greece, IV , tr. by W. H. S. Jones, The Loeb Classical Library, 1978 (1st printed 1918), pp. 274-275.

□またド・ブロスは、そのパウサニアスを引用しながら、次のように記している(☆18)。パウサニアスいわく、

(☆18) C. de Brosses, ibid., pp. 155-158.

「ボエオティア国ヒュエット神殿のヘラクレス像は何ら人為的な手の入っていない形状で、太古から伝わる粗末な石塊である。テスピアの神クビドの像は極端に古いものだが、それもまた不格好な石塊である。テスピアの神クビドの像は極端に古いものだが、それもまた不格好な石塊である。オルコメヌスにあるきわめて古いグラシア神殿では、エテオクレス王の時代に天から降ってきたと伝えられ
る、その石塊だけが崇拝されている。要するに、いにしえはるかな我らが始祖たちのあいだで、それらの石塊に神の栄誉が施されたのであった」。

❑ほかの箇所で、こうも語っている。

「私はコリント近郊、イストゥミスにあるネプチューンの祭壇わきで、2体の、不恰好な、ほとんど人の手が加えられていない像を見たことがある。一方は慈
善家ユピテルのそれで、錐形をしている。他方はディアナ・パトゥロアのそれで、こちらは打って切り出された柱石である。(中略)パウサニアスは、なおも我々に伝えてくれる、たとえ神がみのために彫像が立てられるようになろうとも、その神がみの名を帯びた不恰好な石塊は、それでもなお、太古に当然帰さるべき原初の崇拝をけっして失うことはなかった。いわく、「不恰好であるほどに、また太古のものであるほどに、それだけにまた崇敬に価するのである」。
、、、、神像は最初、まったくの自然石や野に生える樹木であった。この岩、この樹木といった、眼前の可視の個物が端的に神であった。それに特定の神名はなかった。しかし、それに一度、命名が行なわれると、言魂信仰と相俊って、その神名の方がいずれは自然石それ自体以上に崇拝されるようになる。

□ド・ブロスは、このような古代信仰を称してフェティシズムと命名した。

4.儀礼と呪術

□はじめに私は、物神(論)は、特定の神学者・思想家によってでなく、中近世ヨーロッパの農村社会で、農耕儀礼の中に維持された、とした。あるいはまた、アフリカ、アジア、アメリカ諸大陸における先住諸民族とヨーロッパ人との接触によってヨーロッパ人に意識されるようになった、とした。ここでは、そのような意味での物神をジェームズ・フレイザー著『金枝篇』をテキストにして解説してみる(☆19)。

The Dying God (The Golden Bough: A Study in Magic and Religion ...

(☆19) フレイザー『金枝篇』に読まれるフェティシズムについては、逐一引用しない。詳 しくは以下を参照。Cf, James George Frazer, Dying God, in The Golden Bough, A Study of Magic and Religion, Part III, Macmillan, 1990. 神成利男訳・石塚正英監修『金枝篇』第 4 巻、国書刊行会、2006 年、巻末解説「フェティシズムとアニミズム」(石塚正英)参照。
□ブルーノほかルネサンス期の反キリスト教的神学者や思想家を指して、正統派キリスト教徒は魔術師と称する。ところで、ブルーノの魔術的世界観は〔オカルト神秘学〕に括られようと、オカルトに重きがあるのでなく神秘学に重きがある。エジプト主義・ヘルメス主義に象徴されるブルーノの思想は、れっきとした後期ルネサンス的時代思潮、諸矛盾を含んで展開した〔ルネサンス的コスモス〕の帰結であった。ブルーノは、いわば科学的魔術師だった。彼は似非科学者などでなく、当時における紛れもない科学者の一人だったのだ。
□学界ではときおり、フランスの哲学者マラン・メルセンヌ(1588-1648)からルネ・デカルト(1596-1650)にかけて、17 世紀を近代科学開幕の時代とする場合がある。そうだろうか。時代思潮はそうきっぱりと切り替わるだろうか。イギリスの数学者ニュートン(1642-1727)は錬金術師でもあった。当時における個々人のレベルでは脱魔術的・反神秘的思想があっていい。けれども、時代思潮は一朝一夕にして切り替わらない。
□私は歴史の変化については、行きつ戻りつを経る連続説を重視している。歴史の断絶説に、私は与することはない。ブルーノは、前近代でもなければ近代でもない、ルネサンス期を現代として生きた意味で、〔ルネサンス現代人〕なのである。そのイメージから何も引かない、何も足さないことが肝要である。
□なお、ここに記されている「魔術」の原語は人類学などで用いる「呪術」とおなじmagic(英語)magia(ラテン語)であることに注意したい。フレイザーの注目した術語である。

□『金枝篇』を読んでいて、ときに感じることがある。現代人はかなしい。科学的な地平に立って自然法則や社会法則を知っても、それを十分には統御できない。いわんや廃止などできない。2019 年末から生じたコロナウイルスによるパンデミックは、どうすることもできないまま世界中で多数の犠牲者を出した。また、一度経験した恐慌の防止とか戦争の回避とかに関しては、部分的な調整・修正はできても、さらにその先に生じる、法則的ではあるが未知の出来事を察知するのは至難の業である。したがって、21 世紀の人類にとっては、この社会的総和の力をどうにか自己の制御下に回収することが、最重要な課題となっているのである。

□ところが、先史時代や野生社会――総じて非文明社会――では、事情はおおいに異なる。なるほどここでも人は、自らが産み出した力を聖なる力――社会学者デュルケムに倣うならば社会的な力――としていったん手放し、これと向かい合い、これに依存する。しかし野生人は、やがてその向かい合った力以上の力を培うようになり、いままで向かい合ってきた力を見棄てようとする。見棄てられたくなかったなら、いままで向かい合ってきたその力は、これを支える人々の要求に見合うよう自己変革して和解しなければならない。

□野生人は、儀礼(ritual, rite)を通じて、衰弱した古い力を見棄て躍動する新たな力を産み出す。そして、呪術(magic)によってその力を行使するのである。magic は、文明社会では神秘的な魔術かもしれないが、野生社会では生活にリズムを刻む呪術なのである。

□野生人ないし先史人の社会では、資本主義社会でのようにひたすら経済的効率を求めるだけの一方的活動はまず生じない。労働(生産とその過程)と儀礼(人間関係とその取り結び)は相互依存の関係にある。儀礼なくして生産・労働は始まらず終わらない。その儀礼の中核に物神(フェティシュ)がいる。

□フレイザーが『金枝篇』に拾い上げた儀礼・習俗・民俗資料は、その多くが古代世界と非ヨーロッパ世界に関係している。それらの世界は、宗教以前の、あるいは非宗教的な人間精神をもって特徴としている。その精神を、フレイザーは師タイラーに倣って「アニミズム(animism)」という術語で表現する。先史古代世界や非ヨーロッパ世界に存在する儀礼・信仰としては、アニミズムのほか、トーテミズム、シャーマニズム、フェティシズムなどが知られる。そのうち、最初の 3 種は、何らかの意味で神霊と神体とが区別されるが、18 世紀フランスの比較宗教民族学者シャルル・ド・ブロスの命名になるフェティシズムには、その分離が明白には認められない。

□前者は、いわゆる〈宿る神=抽象神=アニマ〉であり、後者は〈物神=具象神=フェティシュ〉である。フレイザーは、アニマを限りなく神体に依存する霊魂とみ、民族の神霊の場合、それを宿す王の身体に大きく依存するものとみた。野生社会で王殺しの儀礼を生み出す精神構造は、このアニミズムにあるとみるのである。フェティシズムでは神霊と神体(王の身体)は分離していなので、王が死
ねば神霊も死ぬ。

□ただし、フレイザーの理解するアニミズムはフェティシズムに近い。フレイザーのそのような理解が生まれる背景・根拠の一つとして次のことが指摘できる。先史古代世界や非ヨーロッパ世界に存在するさまざまな儀礼・信仰、アニミズム、トーテミズム、シャーマニズムなどには、フェティシズムが潜在している、ということである。

□先史世界の神話と儀礼を研究するイギリスのジェーン・ハリソン(1850-1928)は、『金枝篇』に盛り込まれた事例を最大限利用しつつ、神観念の形成についてこう述べている。

❑「神は明白に儀礼から出たのであった(The god manifestly arose out of the rite.)」。
「神は儀礼から出てくる(The god arises from the rite.)」。
「どの祭儀にも二つの要因しかない。すなわち旧態を脱すること、新態をとることの二つである。冬または死を運びだし、春または生命を迎え入れるのである。その中途でこちらにもあちらにもいないという過渡的状態があり、人は隔絶される。タブーのもとにあるのである」(☆20)。

(☆20) Jane Ellen Harison, Ancient Art and Ritual, HomevUniversity Library,
1913.(reprint, Kessinger Pub. Montana, USA, 1996), p. 90-91, 111-112.

□フレイザーが事例収集しハリソンが学術的に論じた儀礼は、ヨーロッパのみならず世界各地の農耕社会で、古代から中世へ、そして近代へと受け継がれてきた。下層的庶民は、おのが神々を儀礼を挙行して造るか呼び出すかした。その素材(mater)は、眼前に備わる石塊や土塊であった。

□それを観察する宗教家や伝道師の目にはどう見えたか。その人物が、キリスト教一神論であればキリストやマリアの代理像に見え、八百万の多神論であればそのうちの一神にみえ、次節で検討するジョルダーノ・ブルーノやベネディクトゥス・デ・スピノザのような汎神論であれば汎神に見えたのだろう。また、術語フェティシズムの創始者ド・ブロスにすれば、下層的庶民が相手にしたのは、物神(フェティシュ)だったのだろう。

5.ジョルダーノ・ブルーノとベネディクトゥス・デ・スピノザ

□宗教界や学界で、ジョルダーノ・ブルーノとスピノザとは汎神論者に区分されている。ブルーノ研究者は、ブルーノはスピノザ的な汎神論ではないと言い、スピノザ研究者はその逆を主張したりする。だが、その二者の外に立つ研究者にしてみれば、大枠ではともに汎神論者に見えたりしている。私としては、ブルーノをアニミズム的な汎神論に、スピノザを脱宗教的な――無神論的とはしないでおく――汎神論に括ってみたい(☆21)。その際、両者の境界に物神論(フェティシズム)を置いてみたい。

(☆21) スピノザを無神論者に括る研究がある。そのことに関する最新の文献を以下に引用する。木島泰三「スピノザ『エチカ』における自然主義的プログラムとコナトゥス論」(法政大学審査学位論文、2019 年 3 月 24 日授与、32675 乙第 238 号)の要約(法政大学学術機関リポジトリ内)https://hosei.repo.nii.ac.jp/
スピノザの個物全般に行為者因果を見いだす本稿の解釈には、擬人主義的自然観の嫌疑が投げかけられるかもしれない。
□しかし、これは原則的には「自然の擬人化」であるよりも「人間の自然化」への明確な方向付けを示している。その上でさらに付け加えるなら、スピノザは現代の多くの自然主義哲学者たちと共に、あるいは彼らよりも一層先まで、人間の自然化と自然の脱擬人化を推し進めようとしているのであり、そしてこのような企図の徹底は、何が「擬人的」であり、何が「自然」であるのかの単純な線引きが難しくなるような地点へと我々を導くはずだ、ということである。
□さらに言えば、スピノザ哲学はこのような、〈擬人主義/自然主義〉の境界を絶えず問い直し続けるという問題を避けて通れないというだけでなく、まさにそれに正面から向き合うべき定めにある。すなわちスピノザ主義は、感情、欲求、意志、想像、感覚知覚、それに知性認識といった我々の心的、人間的な経験を、必然的で非目的論的な機械論的因果必然性に貫かれた自然の一部として、それと地続きのものとして捉える体系だからである。
□この問題は「神あるいは自然」(4Praef; 4P4Dem)という定式化に直結する。伝統的に、「神」とは本質的に「行為者」であり、他方で「自然」が「行為者」と呼ばれるとしても、それは「擬人化」または「神格化」によってでしかない。それゆえ「神あるいは自然」という定式化をスピノザが採用した動機の 1 つが、行為者概念の存在論的な原初性、という哲学的真理を保存するためだったのではないか、という想定は大きな説得力をもつ。
□そしてこの想定が妥当なら、この定式は「神概念の保存」であるよりもむしろ「自然概念の革新」であったと見るべきであろう。この点に我々は、スピノザを「汎神論者」よりも「無神論者」と呼ぶ方が適切である、という近年説得力を取り戻してきた見解を支持するナドラーに賛同する理由を見いだす。

無限, 宇宙および諸世界について (岩波文庫 青 660-1) | ブルーノ ...

□まずはジョルダーノ・ブルーノについて吟味する。1583 年から 85 年までのロンドン時代に、彼は対話形式の著作『無限、宇宙および諸世界について』を書き上げるが、その中で、自身の代弁者のようなフィロテオの口を介して、こう記した(☆22)。

(☆22) ブルーノ、清水純一訳『無限、宇宙および諸世界について』岩波文庫、1982 年、64頁。

□私に言わせれば、宇宙は全体、 の、 無限 (tutto infinito)です。なぜならば宇宙には縁へりも 終りもありませんし、これをとり囲む表面もないからです。が宇宙は全的 に無限(totalmente infinito)なのではありません。宇宙から採り出すことのできるその各 部分は有限なものであって、宇宙のなかに包まれている無数の諸世界もその一つ一つ は有限のものですから。また神は全体の 無限(tutto infinito)です。なぜなら神はい かなる制限も属性も帰されることを拒絶する一にして無限なるものだからです。そし てまた神は全的 に無限 (totalmente infinito)なるものとも言われます。神は全世界 にくまなく遍在し、そのそれぞれの部分のなかで無限かつ全的に存在しているからで す。これは宇宙の無限性とは反対です。つまり宇宙の無限性は全体のなかではじめて 全的に存在するものであって、宇宙のなかに我々が認めうるような特定の諸部分(無限と較べてこれを諸部分と呼んでよければ)のうちにはないのです。

□きわめて重要な引用なのだが、さしづめ「神は全世界にくまなく遍在し、そのそれぞれの部分のなかで無限かつ全的に存在しているからです」に注目したい。これは紛れもない汎神論だ。しかし、無限の度合いは宇宙よりも神のほうが強く果てしない。この限りで、ブルーノの汎神論は一神論のバリエーションであることがわかる。では、次の一文を読んでみよう(☆23)。

(☆23) 同上、230 頁。

□したがって、この無限の領域に無数の霊魂が存在しているように、無数の動力が存在し、形相ないし内在的活力をなしていますが、そういうものすべてについて考えたとき、さらにそれらのすべてが依存している一つの原理が存在しています。これが、精神・霊魂・神々・神性・動力に動力を与え、質料・物体・生物より下級の自然・運動体に運動を与える、第一のもの〔根源者〕なのです。

❑この引用からは、霊魂(anima)などに動力を与え(☆24)、質料などに運動を与える〔根源者〕のいることがわかる。それと同時に、〔根源者〕自体は静観していることがわかる。また、彼は、別著『原因・原理・一者について』の中で、対話の一人テオフィロにこう語らせている(☆25)。

イタリア・ルネサンスの霊魂論―フィチーノ・ピコ・ポンポナッツィ ...

(☆24) ブルーノの議論には、単なる霊魂でなく、世界霊魂(anima del mondo)が出てくる。この術語に関連する文章を引用する。「世界霊魂とはいかなるものであろうか。それは、質料とともに、世界、より正しく言えば宇宙の原理である。すなわち、宇宙は世界霊魂と質料の二者によって内から構成されている。同時に、世界霊魂は、自らの最高の能力である普遍的知性をつうじて、宇宙を形成する。(中略)世界霊魂の質料すなわち自然にたいする関係は二重のものである。それは、原理として自然に内在しつつ、しかも自然の起動因として機能しているのである」。加藤守通「ジョルダーノ・ブルーノ」、根占献一・伊藤博明・伊藤和行・加藤守通著『イタリア・ルネサンスの霊魂論―フィチーノ・ピコ・ポンポナッツィ・ブルーノ』三元社、2013 年(初 1995 年)、184-185 頁。
(☆25) ブルーノ、加藤守通訳『ジョルダーノ・ブルーノ著作集』第3巻「原因・原理・一者について」東信堂、1998 年、82-84 頁。

□机も、服も、皮も、ガラスも、それ自体としては生きていません。しかし、それらは、自然の複合的な事物としては、自らのなかに質料と形相をもっています。あるものがいかに小さく微小であろうとも、それは、自らのなかに精神的実体の一部をもっており、この精神的実体は、ふさわしい対象を見つけたときに、植物や動物へと発展し、生きていると言われる任意の肉体の四肢を獲得するのです。なぜならば、精神はすべてのもののなかに見出され、自らのなかにひとかけらの生命ももたない、どんな小さな物体も、存在しないのです。(中略)

□この精神 spirto はすべてのもののなかに見出されるのです。これらすべてのものは、生きもの animali ではありません。これらのものは、感覚的な意味で、現実に動物性や生命ではありません。しかし、それらのなかで動物性や生命の原理が始原的に働いているという点で、これらの物は生きている animate なのです。

□ここに私はブルーノ汎神論のアニミズム的性格を見通す。すでに記したように、アニミズムという術語は 19 世紀にタイラーが用いてのち、概念がはっきりした。したがって、16世紀のブルーノ汎神論には 19 世紀に概念が確定するアニミズム理論の萌芽が結果的に読み込まれる、としておくだけである。アニミズム研究はブルーノから開始した、としてはならない。また、汎神論という術語にしてもブルーノの時代には確定した概念は存在しない。のちの 18 世紀後半に、スピノザを軸に汎神論論争(スピノザ論争)が起こって初めて明確化するのである。

□それでは、次にスピノザの汎神論を検討する。まずは書簡「スピノザからオルデンブルクへ:ハーグ、1675 年 11 月または 12 月」から(☆26)。

(☆26) スピノザ、畠中尚志訳『スピノザ・思想の自由について』理想社、1967 年、134 頁。

□私は神および自然については近代のキリスト教徒たちが通常説いている見解とはまるで異なった見解を抱いております。すなわち私は、神がいわゆる万物の内在的原因であって超越的原因ではないと見ています。私はあえて、いっさいが神の中に生き神の中に動いていると主張しています。

□これはパウロもそう言っておりますし、またおそらくすべての古代の哲学者たちも、異なった表現でではありますが、そう言っているのです。いや、古代のすべてのヘブライ人たちがそう言っていると申してもよいでしょう。このことはヘブライの種種の伝統――それは多くの点でゆがめられて伝わっていますけれども――から推察できるのであります。

神・人間及び人間の幸福に関する短論文 (岩波文庫) | スピノザ, De ...

次には、『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』としてまとめられている著作から引用する(☆27)。

(☆27) スピノザ、畠中尚志訳『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』岩波文庫、2005年(初 1955 年)、214 頁。

□自然は自分自身に依って認識され、他の何らかの物に依って認識されない。自然は各が自己の類に於て無限且つ完全なる無限数の属性から成り、それらの属性の本質には存在が属し、従ってそれらのほかには如何なる本質も如何なる存在もない。このようにして自然は、優秀にして賛美すべき唯一者たる神の本質と正確に一致する。両方とも、申し分ない汎神論である。汎神論はやはりスピノザによって概念が定まったとみてよい(☆28)。

(☆28) 汎神論は、日本神道など、キリスト教に限らず古代世界から多々存在する、という場合がある。しかし、それらは多神教である場合がほとんどであり、本稿では汎神論の概念を一神教のキリスト教からの派生か類型かに限定する。

□以後に登場する汎神論者は、大なり小なりスピノザに影響を受けたか、類似した汎神論を展開することになる。ところで、スピノザの議論には、ときおり神が自然から遠のき自然法則が前面に置かれるようなニュアンスが読まれる。スピノザ『神学・政治論』からの引用である(☆29)。

神学・政治論 上巻―聖書の批判と言論の自由 (岩波文庫) | スピノザ, de ...

(☆29) スピノザ、畠中尚志訳『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―』(上)岩波文庫、1974 年(初 1944 年)、202 頁、209 頁。

□自然の中には自然の普遍的法則に矛盾する何事も起らない。(中略)斯くの如くにして我々はこう結論する。我々は奇蹟に依っては神及び神の存在と摂理とを認識することが出来ぬ、むしろそれらは確乎にして不可変的な自然の秩序から遥かによく結論され得る、と。

スピノザ『神学・政治論』には、次のような、或る重大な一節も記されている(☆30)。

(☆30) 同上、84 頁。

□今や我々は遅疑することなく主張し得る、預言者たちは神の啓示を表象力の助けを借りてのみ把握したのだ、換言すれば、言葉或いは像―それらが真実なものであると単に表象的なものであるとか問わず―の媒介に依ってのみ把握したのだ、と。事実、我々は聖書の中にこれ以外の手段は見いださないのであるから、先にも説いたように、これ以外の他の手段を虚構することは我々に許されないのである。

□文脈から察するに、スピノザは、神と人間の接触には表象力が不可欠であるとしているが、その場合、表象力には言葉のほか像も想定されていて、しかもそれには「真実なもの」と「単に表象的なもの」との 2 種が存在すると想定されている。なんと、この区分の仕方は、スピノザから百年後にド・ブロスが行なったフェティシズムとイドラトリ(偶像崇拝・象徴信仰)の区分と符合するではないか。
それでいて、スピノザは民衆の理性を案じ、最良の導きとして聖書を用い、啓示に依存する(☆31)。

(☆31) スピノザ『スピノザ・思想の自由について』、35 頁、41 頁。ところで、スピノザは大衆に神を表象として提示するのに聖書を利用したが、聖書すなわち神の言葉は神自身であって神の表象ではない。神自身である。
□その聖書を再解釈するということは、神を再解釈するに等しい。そのような推論にたつと、信徒の眼前で聖職者によって再解釈された〔この聖書〕は可視の単独神である。

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□〔この聖書〕を手に持って信仰を誓う。そのコンテキストにあっては、〔この聖書〕を物神(fetisch)という。また、スピノザ著作にあっては聖書への言及が多い。その理由は、そうすることで大衆との接点確保を狙ったからだ。
□大衆自体のあいだでは識字率は低いが、文字を読める中間的階層を介して意図を実現しようとした。
□中世まで文化の担い手は教会であり、聖職者はラテン語で知識を独占していたが、やがてイタリア語で印刷された聖書はラテン精神から独立し、スピノザの出番を促した。私にすれば、ドイツ農民戦争においてドイツ語聖書で説教し農民を叛乱に駆り立てたトーマス・ミュンツァー(1489-1525)はその先駆だ。石塚正英『近世ヨーロッパの民衆指導者』社会評論社、2011 年、参照。

□信仰は、物語と言語を基礎としもっぱら聖書と啓示とからのみ導き出されねばならぬ。(中略) 思うに、絶対的に服従するということはすべての人間に出来ることだが、理性の導きによって有徳の状態をかち得る人間は全人類から言って極めて少数しかない、だからもしわれわれが聖書のこの証言を持たなかったとしたら、われわれはほとんどすべての人間の救いを疑わねばならなかったであろうからである。

□しかし、聖書・啓示への言及は優先順位でみると、「自然の普遍的法則」の下位に置かれるようである。以上をまとめると、スピノザの汎神論はブルーノ以上に神から遠ざかっていると判断できる。そのことを強く感じた思想家に 19 世紀ドイツのフォイエルバッハがいる。

6.フォイエルバッハの他我論

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□フォイエルバッハは 1843 年に発表した「哲学改革の暫定的命題」で、「実体」におけるヘーゲルとスピノザの比較について、こう述べている(☆32)。

(☆32) LFGW., Bd.9, S.244. 『フォイエルバッハ全集』第 2 巻、32 頁。

□ヘーゲルはとくに自己活動・自己を区別する力・自己意識を実体の属性にした。(中略)有神論者が実際の意識から区別して神に帰属させる意識は、たんに実在性をもたない表象に過ぎない。しかるに「物質は実体の属性である」というスピノザの命題は、物質は実体的神的な本質性であるということ以上の何事をも言明していない。

□さらに、同年に発表した「将来の哲学の根本命題」において、汎神論をこう断定した (☆33)。

(☆33) LFGW., Bd.9, S.284. 『フォイエルバッハ全集』第 2 巻、90-91 頁。

物質は有神論にとっては純粋に説明しがたい 現存在である。すなわち物質は神学が躓 く限界 (Grenze)であり終結 (Ende)である。(中略) 汎神論は神学的無神論
・神学的唯物論
であり、神学の否定である。しかし汎神論はそ れ自身神学の立場での神学の否定である。なぜかといえば汎神論は物質、すなわち神 の否定を神的存在者の一つの述語または一つの属性 にするからである。

□フォイエルバッハはスピノザ汎神論の特徴を明快に浮かび上がらせた。それは、無神論でない汎神論であり、また唯物論でない汎神論であるという特徴である。

□スピノザ汎神論は、「理性の導きによって有徳の状態をかち得る」人の少ない当時の農耕社会にあっては、紛れもない物神論である。キリスト教批判者がいくら無神論や唯物論を説こうが、そのような声に耳を傾ける暇のない農村民衆は、村の池畔やあぜ道に、藁束や土塊でせっせと呪像をこしらえた。それを「おらが村のマリア様」とか称しつつも神名にこだわることなくオリジナル神と観念し、ひたすら無病息災を祈願するのだった。農民の信仰は石塊・土塊の中に座すキリスト教一神の息吹に向かっている、などという聖職者の解釈は、当の農民に
とって、屁理屈か口実にすぎない。

□スピノザが当時の農村社会をどのように観察していたかは定かでないが、「聖書が咎めるのは不服従のみであって無智ではないこと」(☆34)と考えたということは、民衆の無知を半ば前提に行動していたことを暗示している。

(☆34) スピノザ『スピノザ・思想の自由について』、25 頁。なお、キリスト教における「無知」は、必ずしも否定的な概念ではない。信仰において神を知ろうなどという行為は神の冒涜であり、異端だからである。また、ソクラテスの「無知の知」以来、「無知」に関する逆説的な用法は多々見られる。スピノザがこの引用文で用いた「無知」は、「不服従」との対応関係にあることを考慮せねばならない。なお、スピノザでなくジョルダーノ・ブルーノの場合だが、「無知」に関する論考があるので、参考に挙げておく。岡本源太「ジョルダーノ・ブルーノにおける無知と力能」、『哲学』2011 年 62 号。

□スピノザは、一方で、「無知」な民衆を教化するツールとして聖書を重視し、〔神=自然〕の内在的関係において前者つまり神に重きを置いたが、他方で、〔内在の哲学〕探究という自身の思索においては後者つまり自然に重きを置いて超越神や二元論を否定したと推定できる。

□ところで、神に内在するのでなく自然に内在する物神は、それを造った信徒の請願に応えなければならない。そうできなければ虐待されたり破壊されたりする。フォイエルバッハにすれば「汎神論は多神論という述語をもった一神論である」かもしれないが、フレイザー『金枝篇』を座右に置き、地中海でのフィールドワークを踏まえつつフェティシズムを 30 年ほど研究し続けてきた私からみるならば、汎神論は物神論という述語をもった一神論ということになる。

□さて、ここからはフォイエルバッハの信仰論を炙り出す。彼は論説「ピェール・ベール―哲学史および人類史への一寄与」(1838 年)において、

「ジョルダーノ・ブルーノとスピノザとは、自然の内的生命に関する観念(eine Idee von dem innern Leben der Natur)をもち、かつ、この観念を純粋に維持した唯一の人々だった」と記している(☆35)。

(☆35) LFGW., Bd.4, S.44. 『フォイエルバッハ全集』第 8 巻、50 頁。なお、日本における当代きってのフォイエルバッハ研究者である川本隆は、フォイエルバッハ思想の中にジョルダーノ・ブルーノを見通して研究し、以下の著作を刊行した。『初期フォイエルバッハの理性と神秘』知泉書館、2017 年。
□とくに次の一文に注目したい。「フォイエルバッハは汎神論こそがヘーゲルのイデーを実現するものだという確信(この確信が彼のヘーゲル主義の根幹をなすと考えられるが)をもって、30 年代、哲学的著作の出版に取り組み、その検証にあたっていった。汎神論的理性(思弁的理性)の一性・普遍性という思想を、彼は、特にスピノザ、ジョルダーノ・ブルーノ、ヤーコプ・ベーメから吸収している(一部省略)」(11 頁)。

□その後フォイエルバッハは「宗教の本質に関する講演」(1851 年)で、

「スピノザは自然に神と同じ意味をもたせて(gleichbedeutend)【神または自然(Natur oder Gott)】と言っています」

□と語っている(☆36)。

(☆36) LFGW., Bd.6, S.104. 『フォイエルバッハ全集』第 12 巻、21 頁。

□ここでフォイエルバッハが言及する「自然」は、むろん汎神論にかかわる。ところで、後者の 1851 年著作には、物神論に括ってもよさそうな記述が散見されるに至る。以下に引用する(☆37)。

(☆37) LFGW. Bd.6. S.365-366. 『フォイエルバッハ全集』第 11 巻、366-367 頁。

De Iside et Osiride (Texts and commentaries) (Spanish Edition ...

□プルタルコスは著作『イシスとオシリスについて』(de Icide et Osiride)の中でエジプトの動物崇拝に関連して次のように言っている。

「もし最良の哲学者たちが魂をもたない事物の中にさえ神性の形像を見つけたならば、情感ある生きた存在者中にどんなにか多くの神がみの形像を探求すべきであろう! しかしただ、そうした存在者や事物そのものを尊敬しているのでなく、それらを通して、かつそれらを介して神的なものを尊敬する人びとだけが称賛されるべきなのである(中略)」

しかしそれでもなお、動物への尊敬の根拠は動物そのものの中に横たわっていないだろうか? もし神の本質が動物の本性から本質的に区別されているならば私は神の本質を動物の本性の中で尊敬することができず、また神の本質を動物の本性を介して尊敬することができないだろう。なぜなら、そのとき私は動物の本性の中に神のいかなる形像も神とのいかなる類似性をも見いださないからである。

□1 世紀ギリシアの哲学者プルタルコスはエジプトの神々をアレゴリーで解釈する(☆38)。

(☆38) プルタルコスのアレゴリー解釈については、以下の文献を参照。石塚正英「ラテン語訳旧約聖書における pilosus の解釈をめぐって」、同『フェティシズム―通奏低音』社会評論社、2014 年。

本稿「2. 地中海神話に読まれる mater」で説明しておいた「レビ記 17-7」を想起してみたい。イスラエルの人々が「かつて、淫行を行なったあの山羊の魔神に二度と献げ物をささげてはならない」の個所である。ここに記された「山羊」は「魔神」でなく、そのアレゴリーだった。プルタルコスは聖書や神話のアレゴリー解釈の名手だった。その手腕は、3 世紀前半のキリスト教神学者オリゲネスなどに引き継がれた。

□私は、古代ローマからはるか後代、18 世紀後半に生じた汎神論論争に神と自然のアレゴリー関係を読み込む。自然は神・神霊の形像という読みである。スピノザの言う「自然は、優秀にして賛美すべき唯一者たる神の本質と正確に一致する」(☆39)、ブルーノの言う「諸天体を動かしているものは、それに内在する自然本性たる霊魂であり(後略)」(☆40)は、みなその諸類型とみる(☆41)。ところが、スピノザは、一か所で真逆な説明をなした(☆42)。

(☆39) スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』、214 頁。
(☆40) ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』、225 頁。
(☆41) 言うまでもなく、ブルーノの思想はスピノザの汎神論と同一ではない。スピノザは、聖書の章句を大衆への啓蒙的リップサービスとして用いたとしても、つまり自己の本心〔内在の哲学〕からでなかったにせよ聖書を軸に議論を組みたてている。あるいは神に軸足をおいたうえでの、人間を含めた自然と神の合一を説いている。対して、ブルーノの世界観・宇宙観は、人間を含めた自然・宇宙と神との融合・合一であり、それが〔世界霊魂〕という統合的シニフィアンをもって把握されている。神も内在する〔世界霊魂〕に軸をおいているのであって、けっして神を軸に把握されてはいない。
(☆42) スピノザ『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―』(上)、77 頁。

□「神の霊」又は「エホバの霊」とは或場所では極めて激しい、極めて乾燥した、物凄い風を意味するに外ならない。例えばイザヤ書四十章七節に「エホバの霊その上を吹けり」とあるのは極めて乾燥した物凄い風のことである。

□アレゴリーの解釈では、ふつう逆の説明になる。現象の背後に神霊を見る。現象は神霊のアレゴリーである。しかし、スピノザはここでそれと真逆の説明をしている。なぜであろうか。それは、例えば「奇蹟」に関するスピノザの解釈をみるとわかってくる(☆43)。

(☆43) 同上、210 頁。

□反自然的奇蹟並びに超自然的奇蹟は不条理以外の何物でもなく、従って聖書に於ける奇蹟は、今も言ったように、人間の把握力を超越する或は超越すると思われる自然の業以外の何物をも意味しないのである、と。

□ここまでの説明を踏まえて、私は、スピノザに注目する初期フォイエルバッハは、アフリカやアメリカなど非キリスト教世界の自然信仰に注目するようになった中後期において、汎神論から物神論に関心が移行したと結論する。と同時に、「理性の導きによって有徳の状態をかち得る」ことの少ない民衆に眼差しを向けるスピノザの議論にも、汎神論でなく物神論で見通した方が納得のいく文脈が多いと主張したい。超自然を否定し民衆を前面におく彼の議論は、眼前の物質を儀礼によって霊魂の備わる物神と見なす農民の信仰心にマッチしているからである。スピノザにとって、キリスト教一神は方便なのであろう。自然に隈なく遍在すると聖職者の考える神霊(汎神)は、地主神のごとき在地オリジナルの物神と交々になり、いわば文化相対的な、ハイブリッドな位相にあって信仰を集めたのだろう。

□というよりも、在地の農民にとって、おらが村の神様は汎神か物神か、アニマかフェティシュか、という区別だては意味をなさず、刈り取った藁束に無病息災を祈る農耕生活・民間信仰の外にあったのである。

□1840 年代以降の中後期フォイエルバッハは、ときおり「他我(alter-ego)」という術語を使用して、人間と自然の関係を〔我-汝〕の共生相手として描いた。自然を人間の比喩(擬人)としてでなく、身体を介して共生の存在者とした。

□フォイエルバッハにとって自然は擬人でありえないこと、それは、私の議論においては汎神論と物神論を区分けする重要な概念である。フォイエルバッハは言う。

「人間は、自然が創造したり破壊したりする限り、または一般に自然が人間に対して畏敬の念を起こさせる威力という印象を与える限り、自然を人間化して或る全能な存在者にする」(☆44)。

(☆44) LFGW. Bd.6. S.360. 『フォイエルバッハ全集』第 11 巻、359-360 頁。

□ここに記された「自然を人間化して」は、原語にあたると「vermenschlichen 人間化する、教化する」、名詞形では「vermenschlichung 人間化すること」のほか、「神の人格化」とか「神人同形同性」とかの意味がある。このフレーズから導かれる「人間化」の意味は、実は人間化でなく神格化である。その理解の前提には、人間(a 人間)が身体(b 身体)による儀礼を通じて自然(c 自然)を神格化(c 神)するというフェティシズム的な行為が潜んでいる。また、人間にとって自然は〔もう一人の私 another-self〕であるというフォイエッルバッハ独自の他我〔alter-ego〕思想が潜んでいる。

□総じて、フォイエルバッハは〔身体的存在としての他我〕理論を議論した。〔内なる神〕でなく〔内なる自然〕を見つめたわけである。ただし、フォイエルバッハは、ラテン系の Fetischisums という術語でなく、ゲルマン系の Götzendienst という術語でもって物神論を活発に論じていくのだった(☆45)。

(☆45) 物神論についての詳しい説明については、以下の文献(拙著)を参照。『価値転倒の社会哲学―ド・ブロスを基点に』社会評論社、2019 年。『フォイエルバッハの社会哲学―他我論を基軸に』社会評論社、2020 年。

おわりに

□私は、よもや汎神論論争でなじみの汎神論を物神論でとってかえようとしているわけで はない。聖職者からみれば一神だったり汎神だったりする対象が、身体を介して自然と触 れ合う民衆にとっては物神だったりする。そういう多様な現象を説明しているだけのことである。重要なのは例証の提示であろうが、それにうってつけの事例集がある。本稿で幾 度か言及したJ.G.フレイザー『金枝篇―呪術と宗教の研究』である。私は全10巻からなる この大著の翻訳を2004年から監修・刊行している。

□殺される神とその儀礼、あるいは、殺される老王の身体から若い新王の身体に移って生き抜く神霊・外魂とその儀礼――共感呪術(類感呪術・感染呪術)――を研究テーマにすえた『金枝篇』、この著作に集約されるフレイザーの仕事は、大別して、二つの目的をもっている。一つは理論的なものであり、タイラーが『原始文化』などで披露した進化主義的歴史観――人の考えは呪術的な段階から宗教的な段階へ、そして科学へと進歩する――およびアニミズム的宗教発展説を受け継ぎ発展させることである。

□そして、いま一つはケーススタディにかかわるものであり、世界各地で 19 世紀までに残存してきたさまざまに学術的価値のある資料・史料――その中にはカニバリズムつまり人肉食も含まれる――を、当時においてかなうかぎり広範囲に蒐集することである。

□以上の二つの仕事ないし目的のうち、前者の進化主義的人類史とアニミズム的宗教発展説は、21 世紀初の現在では、もはやそのままでは受け入れられなくなっている。けれども、フレイザーの仕事は、以上の諸問題を考慮してなお、依然として、とてつもなく大きい。

□なぜなら、進化主義の克服にしてもアニミズム説の再検討にしても(☆46)、その作業にとりかかろうとする場合、さまざまな証明の典拠となる基本的資料・ケーススタディの一つとして、第一にこの『金枝篇』が存在するからなのである。

(☆46) 汎神論と物神論の区別においてアニミズムを再検討するに際して、フェティシズムとアニミズムを図解的に整理すると、以下のようになる。スピノザの神学的営為は、デカルトの〔精神と物体〕にみる実体二元論を壊して、〔神=自然〕にみる実体一元論を構築することだった。ところで、ド・ブロスに始まるフェティシズムは〔魂⇄塊〕の一元論である。魂と塊は分けられず、塊の消滅は魂の消滅である。アニミズムは〔魂+塊〕の二元論である。魂と塊は分けられ、塊の消滅は魂の移動をもたらす。フェティシズムとアニミズムは、このように区別される。

□比較文化論や社会哲学の領域における私の研究にとって、この著作は裨益するところ大であるが、そのメリットは、本稿「汎神論と物神論」にあって、申し分なく発揮されている。

□そのような参考資料を駆使して辿り着いた結論、それが本稿「はじめに」で記した以下の事柄である。結論的なことがらを記せば、中世カトリック世界においても近代科学的世界においても、民衆の日常世界では、物神(Fetisch)は儀礼を介して、ときに汎神を装いつつ、それを造り出した人々の眼前に通奏低音のごとく可視的に、神霊ではなく形像自体として存在したということである。


〔主要参考文献〕
☆松村武雄『神話学原論』下巻、培風館、1941 年。
☆大久保利謙編『西周全集』第1巻、日本評論社、1945 年。
☆プトレマイオス、藪内清訳『アルマゲスト』恒星社厚生閣、1982 年。
☆加藤守通「フィチーノの技術論」、『イタリア学会誌』第 39 巻、1989 年。
☆根占献一、伊藤博明、伊藤和行、加藤守通著『イタリア・ルネサンスの霊魂論―フィチーノ・ピコ・ポンポナッツィ・ブルーノ』三元社、2013 年(初 1995 年)。
☆佐藤三夫「ブルーノにおけるコペルニクス―『灰の水曜日の晩餐」をめぐって」、『イタリア学会誌』第 48 巻、1998 年。
☆イルミヤフ・ヨベル著、小岸昭・E・ヨリッセン・細見和之訳『スピノザ 異端の系譜』、人文書院、1998 年。
☆堀江剛「スピノザにおける 《内在》 の論理」(大阪大学審査学位論文、学位記番号第18076 号、2003 年 9 月 25 日授与)
https://ir.library.osaka-.ac.jp/repo/ouka/all/
☆吉田量彦「スピノザの倫理学における「直観知 scientia intuitiva」の問題」、『慶應義塾大学日吉紀要』 人文科学 No.21 、2006 年。
☆フランセス・イエイツ、前野佳彦訳『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』工作舎、2010 年。
☆岡本源太「ジョルダーノ・ブルーノにおける無知と力能」、『哲学』第 62 号、2011 年。
☆川本隆『初期フォイエルバッハの理性と神秘』知泉書館、2017 年。
☆木島泰三「スピノザ『エチカ』における自然主義的プログラムとコナトゥス論」(法政大学審査学位論文、32675 乙第 238 号、2019 年 3 月 24 日授与)の要約(法政大学学術機関
リポジトリ内)https://hosei.repo.nii.ac.jp/
☆石塚正英『価値転倒の社会哲学―ド・ブロスを基点に』社会評論社、2019 年。
☆石塚正英『フォイエルバッハの社会哲学―他我論を基軸に』社会評論社、2020 年。

〔付記〕本稿のもともとの構想は、1990 年に刊行した拙著『フェティシズムの思想圏』(世界書院)を書き終えたころに芽生えていた。その「あとがき」に私はこう記した。

「わが心はいま、なぜか、スピノザと親鸞にむかっている。1990 年 12 月 26 日」

□そのうち親鸞については「親鸞の弥陀と越後の鬼神」と題して論文化し『フェティシズムの信仰圏』(世界書院、1993 年)に収録したが、スピノザについてはその後断続的に補足調査が必要となり今日になってしまった。

□昨年末に中国から生じたらしいコロナウイルス感染禍は、今年に入ってパンデミックの様相を呈した。そのせいで外出自粛のムードが高まり、結果としてホームワークが充実し、2020 年6月に「汎神論と物神論」と題して文章化できた。