教職倫理学講義 目次とリンク
第三講 イギリス功利主義

 はじめに

 三大現代思想と言えば、マルクス主義、実存主義、プラグマティズムです。今日から三回ほどでマルクス主義について講義します。1985年に冷戦が終焉しまして、社会主義世界体制が崩壊していくことになりました。それでマルクス主義の衰退は著しいのですが、現存の体制の矛盾を暴き、それを根底から変革して、新しい世界を作り出すという思想には普遍性があり、学ぶべきところは大いにあると思います。

マルクス主義と言いますが、カール・マルクス本人はマルクス主義を名乗っていたわけではありません。盟友フリードリッヒ・エンゲルスと共に科学的社会主義を表明していたわけです。つまり空想的社会主義(ユートピアリズム)ではダメで、科学的に社会主義を実現させようという運動なのです。それはエンゲルス著『空想から科学への社会主義の発展』で解説されています。


 彼らが空想的社会主義という場合に念頭においていたのは、フランスのサン・シモン、フーリエ、イギリスのロバート・オーエンです。彼らは資本主義の中でコミュニティ(共同所有の社会)や協同組合の連合体などを作って、社会主義・共産主義にした方が搾取がなくて、みんなが幸福に暮らせることを実証しようとしたのです。でも社会全体が資本主義ですから、そういう実験に投資する人は少なく、社会から孤立して実験を成功させるのは極めて困難なのです。その結果失敗したら、社会主義や共産主義は理想論に過ぎず、現実性がないということで、かえって社会主義実現の道を閉ざしてしまうことになりかねません。

 マルクスやエンゲルスは、資本主義は発達すればするほど、富は不均衡になり、一握りの資本家階級と大多数の労働者階級の両極に分かれ、労働者階級は窮乏化して、ついには革命を起こさざるを得なくなる。つまり歴史の発展によって必然的に革命がおこるのだから、下手に資本主義の下で社会主義の実験などして社会主義を非現実的だという固定観念を民衆に刻み込む必要はないというのです。それより労働者階級の運動を組織し、革命の準備をした方がいいということですね。

つまり当時は産業革命がフランスにも普及して資本主義の矛盾が激しくなり、労働者の窮状がひどくなって、革命に立ち上がらざるを得なくなっているという実感が強かったのでしょう。

 ではマルクス主義の理論である科学的社会主義、歴史観である唯物史観、経済学説である剰余価値論の説明に入る前に、若きマルクスの疎外論を説明しておきましょう。

  マルクスの学生時代     

Johanna Bertha Julie Jenny Marx (von Westphalen) (1814 - 1881 ...
イェンニー

 カール・マルクス( Karl Marx1818年5月5日 – 1883年3月14日)は今年で生誕202年です。資本主義の根本的な矛盾を解明し、それを克服する共産主義の思想を構築したので、近代を代表する思想家の一人です。19世紀はマルクスとダーウィンの世紀と呼ばれ、20世紀は戦争と革命の世紀と呼ばれたのですから、マルクスの影響は甚大でした。マルクスの一家はユダヤ教のラビ職を世襲していたのですが、父ハインリッヒ・マルクスは自由主義者で、弁護士資格を得るためにキリスト教のプロテスタントに改宗していました。

 カール・マルクスは、1935年にボン大学に入学、法学を中心に勉強、歴史や文学の授業もうけていました。当時ハインリッヒ・ハイネに憧れて詩人が志望だったという話もあります。マルクスはどうも浪費癖があり、酒癖も悪く問題を起こしたりしたので、厳格なベルリン大学に翌年から父に転校されられたようです。そんなマルクスがプロイセン、トリーアに帰郷の際に近所の貴族の娘イェンニー・フォン・ヴェストファーレンと婚約しました。マルクス18歳、イェンニー22歳の時です。結婚したのは7年後ですが。

ブルーノ―・バウアーとカール・マルクス

 ベルリン大学では主に法学関係の講義を受けていましたが、関心はヘーゲル左派の哲学に向かい、「ドクトルクラブ」というヘーゲル左派哲学者の酒場の集まりに参加するようになったのです。そこで特にブルーノ―・バウワー(1809-1882年)にかわいがられ、哲学者になろうとします。バウワーは自由な自己意識にとって神への信仰は邪魔だとして無神論に立ちます。その点マルクスも共感したようです。マルクスは1838年の父の死後、法律家ではなく哲学者に成ろうと決め、1841年博士論文「デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異」を執筆し、審査が甘くて迅速と言われていたイェーナ大学に提出、23歳で哲学博士になったのです。ところが哲学講師の口利きをしてくれるはずのバウワーがプロイセン王国政府の検閲で講師資格を剥奪されて結局職業哲学者にはなれませんでした。

『ライン新聞』の編集長

 バウワーが書いたのがが匿名のパロディー本『ヘーゲル この無神論者にして反キリスト者に対する最後の審判のラッパ』という題名で敬虔なキリスト教徒がヘーゲルは実は無神論者だと告発する内容でした。そのころマルクスもバウワーを頼ってボンにいたので、ふたりは一緒に書いたのではという人もいます。 

ライン新聞

 しかし博士号をとったのは無駄ではなかったようです。後に革命運動の理論家の中には博士号を持っている人はいなかったのです。ドクターと呼ばれて一目置かれていたのでマルクスにとって有利に働いたようです。マルクスはジャーナリストとして立っていこうとし、寄稿していた『ライン新聞』の編集長が治安当局の圧力で辞めさせられたので、代わって編集長に収まりました。

 マルクスは当局を刺激しないように穏健な編集をしていたのですが、当局が無神論だけでなく、自由主義や人権尊重を訴える新聞雑誌まで取り潰しにかかり、結局マルクスも編集長を辞めざるを得なくなったのです。皮肉にもイェンニーの兄がプロイセンの内務省に勤める極反動だったようです。1843年に結婚し、新妻と共にマルクスはフランスで発刊予定の『独仏年誌』の共同編集長になるためパリに行くことになります。

フォイエルバッハのヘーゲル批判

 その頃マルクスが最も惹かれたのはフォイエルバッハのヘーゲル批判と自己疎外論でした。つまりバウアーは、ヘーゲル哲学は絶対精神の自己展開であることで、真理の体系である学になっているけれど、それは実は自己意識の展開だから、絶対精神の正体も自己意識に他ならないとして無神論だとパロッタわけです。それを神だとしたら、欧米の神は超越的な神だから、自己意識とは絶対の他者になってしまう。しかも神は絶対者だから自己意識は圧倒されてしまう。自我の自覚、自己意識の立場が成り立たないから、神を否定しようということです。

 フォイエルバッハはその構造を自己疎外論で説明したのです。ヘーゲルは若い頃に労働外化説を唱えていました。つまり労働とは、頭の中にあった観念を事物に実現して、事物に自己を実現して、事物を人間の現存にすると活動だと捉えたのです。個々の事物は作った労働主体の現存だと言えるかもしれませんが、個々人が作れるのは一つの生産物でしかありませんが、生活にはたくさんのものが必要で、それで市場で交換しなければなりません。

 つまり人間全体として類としては全ての種類の財やサービスを作り出しています。そのためには市場や交通や様々な産業があって、それらを統合する国家などが必要ですね。そういう巨大な機構は個々人の思い通りにはなりません。むしろ疎遠な厳しい権力や現実として個々の人々にのしかかり、支配するわけです。ヘーゲルは知の発展によって、それらを克服する哲学体系を樹立し、最終的には絶対精神に到達するとしました。

 しかし現実には人間と神は絶対的に断絶しているというのが、ユダヤ教、キリスト教ですね。カントの場合、人間が意識し認識できるは人間の意識に現れた現象界にすぎないとしました。人間の意識に現れない物自体は認識できません。それでは知の体系は部分的で、主観的なものになってしまい、真理の体系ではないので、ヘーゲルは意識の真の主体は絶対精神だとして、絶対精神の自己対象化として意識の発展を捉え返したわけです。

 主体を絶対精神つまり神と置いた以上、意識に現れない物自体は前提する必要はありません。とすればその意識の発展も神まで到達できるので真理の体系になるわけです。しかしフォイエルバッハに言わせれば、絶対精神は人間の有限な意識が生み出した自己疎外の産物だというのです。

 17世紀のデカルトは、神は無限な絶対者だから、有限な相対的存在の人間が神という観念を自ら作れる筈がないのに、人間が神観念を持っていること自体、神が存在して神観念を人間に与えた証拠だ歳で神の存在証明に使いました。フォイエルバッハは「あらゆる観念は経験から」という経験論を踏まえて、神観念は人間の類的存在に由来すると捉えたのです。

 つまり個々の人間は一つの物しか作れませんが、みんな寄せると実に様々なものを作り出すことができ、それでこれまで巨大な文明を築いてきたわけです。ルネサンスの巨人たちはマルチに才能を発揮し万能人と呼ばれましたが、個々の人間にも何でもできる類的本質が可能性としては存在するわけです。それは個々人が実現できないので、市場や国家を作って調整しつつ分配しています。でもとても個々人は自分自身の能力とは思えないので、その能力を他者として捉え返して、神と名付けているというのです。

 つまり神は人間の類的存在としての万能性を自分から外に出して他者として捉えたものだというのです。これを自己を疎遠なものとして外化するので「自己疎外Selbstentfremdung英語self-alienation」と呼んだのです。

 entが「外へ」でfremdが「疎遠な」です。その名詞化「ung」で「Entfremdung」が疎外です。ヘーゲルにすれば絶対精神の立場で哲学体系を建てているので、哲学自体は絶対精神にまで発展して疎外を克服しているわけですが、それは人間を超えてしまっていますね。それでは人間とは疎遠な存在として神が教会を通して支配することになります。また国家を聖化して国家という疎外された姿で支配することになります。

 フォイエルバッハはあくまで人間の類的存在が疎外されて神の姿をとっているのだから、それを超越的な他者ではなく人間自身に取り戻すべきだというのです。ではどうすれば疎外せずにすむのでしょうか?ヘーゲルは観念が事物として外化されるという形で、あくまでも思考として外化・疎外を展開しました。事物を観念の外化として捉えているので、観念の方が事物の根底にあるので、いわゆる観念論です。

 それに対してフォイエルバッハは身体の働きとして外化や対象化を捉えようとしたのです。人間が作り出した生産物・文化はそれを食べたり、使ったりして身体的に関わることで、人間自身の活動として感じられるので、他者として人間に敵対したり、抑圧する疎外にならないということです。だからヘーゲルの観念論に対して、人間身体の立場から、感性の立場から唯物論を対置したのです。それでフォイエルバッハは「人間学的唯物論」の哲学者だと言われています。

 バウワーはヘーゲルの真意が無神論だという形で自己意識の立場を打ち出したのに対して、フォイエルバッハは身体の立場、唯物論を対置してヘーゲル哲学の外に飛び出したと言えますね。それでヘーゲル左派の限界が破られたので、マルクスたちはすごく感動したわけです。それで『独仏年誌』には是非フォイエルバッハにも書いてもらおうとお願いの手紙を書いたのです。

 マルクスはフォイエルバッハが神は人間の類的存在の自己疎外だという神学的な議論にとどまっていることに不満でした。是非とも人間の疎外の中心である労働者の疎外、疎外された労働について論じて欲しいという手紙を書いたようです。しかしフォイエルバッハは私は田舎にいて労働者の疎外について論じたりできないという断りの返事を返したのです。それでマルクスやエンゲルスは、フォイエルバッハについて非実践的だという限界を感じたわけです。

 マルクスは『ライン新聞』では穏健路線をとっていたのに辞めさせられたりしたわけで、それだけでも急進化するところですが、1843年10月にパリに来て労働者の窮状やフランスの社会主義・共産主義に触れて、次第に労働者階級の解放こそが人間解放につながるという立場になっていったのです。1844年2月に創刊号が出て、後続かなかった『独仏年誌』に掲載された「ヘーゲル法哲学批判序説」の末尾部分を掲載します。

若きマルクスの疎外論―四つの疎外を中心に

 『独仏年誌』にはもう一つマルクスは「ユダヤ人問題によせて」を掲載しています。ユダヤ人に対する偏見や差別が激しいのですが、マルクス自身もユダヤ教徒ではないけれど、ユダヤ人の家系です。しかしマルクスは市民社会が守銭奴というユダヤ人の原理が支配しているので、もはやユダヤ人のやり方でのユダヤ人の解放はなされていて、いま為されなければならないのはユダヤ人の原理が支配している市民社会からの人間の解放であると訴えています。要するに私有財産の原理によって人間性が失われているので、私有財産を止揚して人間らしい社会を形成しようということです。ただそれが共産主義だということまでは言っていません。

独仏年誌表題紙
『独仏年誌』

 『独仏年誌』はドイツでの販売は禁止され、マルクスと共同編集者のルーゲとの方針の相違もあり、続かなかったわけですが、この時期にマルクスは『独仏年誌』の掲載したエンゲルスの『国民経済学批判大綱』に啓発されてフォイエルバッハに断られた「疎外された労働」についてノートを書き溜めました。これを『バリ手稿』と呼びますが、これは未発表のままでロシア革命後『経済学・哲学手稿』として1932年に発行されました。まだ唯物史観が仕上がる前の著作だったので、若きマルクスの疎外論はマルクス主義以前の文献とみなされていました。

 それでマルクス主義者はあまり疎外論を使わなかったのですが、実存主義者、社会学者、フランクフルト学派などは現代ヒューマニズムの先駆として高く評価して現代社会の人間疎外の考察や批評に使いました。それでマルクス主義者も使うようになります。ただし社会主義体制の官僚主義批判などにも使えるので、ソ連・東欧では資本主義批判に限定して使用するように枠をはめられていました。

 日本では戦後高度経済成長のひずみで公害問題が深刻になったり、官僚主義や非人間的な労務管理、経済の二重構造など様々な矛盾を人間性の喪失として捉え、マルクスの疎外論で批評するようになりました。だから1960年代に疎外論が盛んになります。私が疎外論にハマったのが1964年大学一年生の時です。

 どうして疎外論があんなに魂を揺さぶったのか、謎なところもありますが、要するに自我の自覚の一種なのです。世界には様々な問題があり、自分たちもそこ巻き込まれます。自分の力はちっぽけで何もできない気がします。学べば学ぶほど問題は単純には割り切れませんね。そこで諦めてしまったら結局何もできずに流されるだけです。ところが疎外論は、その問題を作ったのはお前自身だよと、お前がただうじうじ考え込んでいて何もしないでいるからどんどん世界はこうなっていったんじゃないか、自分で自分の首を絞めているんだよというわけです。

 労働者は搾取されて毎日苦しい生活をしており、常に失業の危機にさらされ、危険な仕事で労災にあっても十分補償されなかったりしました。でもその社会は労働者自身が毎日労働することによって作り出しているわけですね。

 確かにそうせざるを得ないからしているしても、結局自分自身の主体的な営みとしてこの忌まわしい現実は自分自身の営みであり、自分自身が引き受け、自分自身で何とかしなければならない現実なんだということです。それができるのは自分自身でしかないわけですね。

 世界を自分自身が作ったものとして自分自身で引き受け、自分の主体を確立することで実践的に変革していこうとできるわけです。自分一人で無理なら同じ境遇の人々と連帯して力をつけていけばいいわけですね。大切なことは自分を確立し、自分から始めること、起ち上がることなのです。私のような引っ込み思案で、うじうじ考え込むタイプの青白き青年・学生にとってマルクスの自己疎外論は、自分たちの魂に鋭く斬り込んできたのです。

 1960年代末に世界的に学生運動が盛んになりますが、マルクスの疎外論が最大の理論的武器だったような気がします。マルクスの場合は「疎外された労働」論理を解明することが中心です。それで要約しますと「四つの疎外」になります。

①生産物からの疎外 ②労働からの疎外 ③類的本質からの疎外 ④人間からの疎外

①生産物からの疎外: 人間は労働によって自己を外化して生産物を生み出します。物の中に自己を対象化するわけです。それで出来上がった生産物は労働の成果ですから、労働した主体がその成果を享受できる筈なですね。ところが実際は疎外された労働なので、出来上がった生産物は労働主体から疎遠なものになり、自立して、かえって外的な力として労働主体に敵対し、労働主体を支配するように感じられます。これが生産物からの疎外です。つまり人間は自分が作ったものによって苦しめられる場合に生産物からの疎外、自分で自分を苦しめる自己疎外だということになります。
 生産物から支配されているのではなくて、生産物を独占する資本家によって支配され苦しめられているのではないかと疑問を持つ人もいると思いますが、資本家による支配は日々の労働によって再生産されるわけですから、労働者自身が資本家も同時にうみだしているわけです。言い換えれば資本家というのは労働者が生み出した富の人格化にすぎません。ですから資本家である以上、労働者を搾取し、富を独占して資本を増殖させざるを得ないわけです。だから資本家も本来の人間性を喪失した疎外された存在なのです。ですから労働者が自己を解放するということは、資本―賃労働関係をなくすことですから、資本家を疎外から解放することでもあるわけです。
 広い意味で人間が生み出したものが人間から自立して物になり、人間を敵対的に支配するような場合「生産物からの疎外」と言えます。文明などは人間が生み出したものですが、大いに恩恵をもたらす一方でそれに束縛され苦しめられることが大いにあるので、文明も生産物からの疎外に入ります。地球温暖化も産業の発達がもたらした気候変動ですので、「生産物からの疎外」に含まれます。

②労働からの疎外:どうして生産物からの疎外が起きるのか、それは労働自体が自分にとって疎遠な労働、強制された労働になっているからです。資本主義の賃労働は契約に基づきますから、強制労働ではありません。しかし労働者は生産手段を持っていないので、資本家と労働契約を結んで働かないと収入がなくなり、生きていけません。それで労働の内容にいちいち文句言えない立場です。そういう意味では労働は指示に従って行う強制労働です。それで生み出した物は資本家のものとなり、労働者は予め約束した賃金をもらえるだけです。四つの疎外は疎外された労働の四つの面ですから、互いに前提しあっています。生産物の疎外があるから、労働からの疎外になり、労働から疎外されているから生産物からの疎外になるわけです。

③類的本質(Gattungswesen)からの疎外:.類は「Gattung」で本質は「Wesen」です。「Wesen」は「存在」とも訳せますから「類的本質」と訳さないで「類的存在」とか「類的本質存在」と訳す人もいます。人類という種族の本質から疎外されるということです。例えば人間というのは言語を使うことが類的本質としたら、話せなくなった人は類的本質から疎外されているわけです。疎外された労働では人間の本質として労働があるわけです。労働というのは原材料に手を加えて予め予定していた製品に仕上げる働きです。

 労働者は職場で予定通りの品物をつくったり、サービスを行ったりできているのですから、その意味では自己実現できているのです。しかしマルクスは、自己実現が自己喪失として現れるとしています。ただマニュアル通り機械的に働いているだけだから、そこに自分が主体的に物を作ったり、サービスをしたりしている実感がないということです。労働時間は賃金と交換に雇用者に譲渡された時間であり、労働から解放されて初めて自分の時間に戻るという感覚です。

 もちろん物は考えようであり、捉え方次第ですから、たとえ労働契約に基づき使用者の言いなりに働いていても、いろいろ創意工夫を加えて充実した自己実現の時間にしようとする人もいますし、職場によっては労働者に働き甲斐のある環境を整えようとする職場もあります。だからマルクスが自己喪失だと書いているから資本主義の職場では自己実現しようということは無駄な努力だというわけではありませんよ。そうじゃなくて、労働力が商品化される雇用関係においては、労働が非主体的な機械的なものになりやすく、自己喪失に陥りやすいということです。

 こういう話をするとすぐブラック企業とか連想して、昔はブラック企業が多かったと受け止める人がいます。そういう傾向もあるでしようが、マルクスが言いたいのは、労働力が商品として扱われるという関係性から労働の疎外が生じ、類的本質からの疎外に陥るということです。資本主義である限り、だから大なり小なり自己喪失に陥るということですね。学校の教師でもそういうことはあります。公立学校教師は一応公務員で、俸給はもらっていますが、労働の対価ということではなく、生活給と捉えられます。だから疎外されないかというと、そうではなく、それぞれの学校の事情に合わせて、教師の裁量権は限られていますし、進学や就職に合わせた教え方をしないと生徒や父兄からもクレームが出ますね。やはりteaching machineに成ってしまうところがあり、自己喪失に陥り勝ちです。

 また類的本質あるいは類的存在という場合にフォイエルバッハの人間学からの影響で「包括的ヒューマニズム」的な人間観がうかがえます。つまり環境的自然や建物、田畑、道路、家屋、衣服、食物などの社会的諸事物を人間化された自然という意味で「人間的自然」と呼び、人間の「非有機的身体」と呼んでいます。「有機的」というのは「器官的」という意味で、身体の諸器官ではないというのが「非有機的」と表現されています。だから人間身体の器官を構成しているわけではないけれど実質的に人間の身体となっている諸事物だという意味です。

 ですからマルクスは生身の身体だけに人間の範囲をとどめずに、社会的諸事物や環境的自然を包括した人間を捉えていたわけですね。だから若きマルクスは、包括的ヒューマニズムの先駆です。それで「社会は、人間と自然との完成された本質的統一であり、自然の真の復活であり、人間の貫徹された自然主義であり、また自然の貫徹された人間主義である。」としています。

 つまりマルクスは疎外によって、人間と自然は分断され疎遠になっているけれど、自然は人間の身体であり、人間は自然の完成として自然の可能性が人間において解放され開花するという究極のロマンティズムを謳いあげていたのです。

④人間からの疎外: 人間からの疎外とは人間というのは類的存在ですから、一緒になって環境に働きかけ、自然の可能性を開花させる存在です。つまり諸個人はばらばらでは無力で生き残れないわけです。ですから人間は互いに身内として共同の体つまり共同体(コミュニティ)を形成して生きるわけです。ところが現実の市民社会ではどうでしょう。身内ではなくよそよそしい他人として相互支配に陥っています。それは社会が私有財産制(私的所有)に成っているからです。そこでは人間が生み出す財やサービスは私有されるので、必要な物資やサービスを受けようと思えば、自分も何か財を提供しなければなりません。つまり交換するわけです。

 つまり私有という形で人と物がいったん他者化し、所有される形になる以前は、物やサービスは人の非有機的身体だったわけです。それが私有財産となると生産物やサービスはその主体にとって他者となって譲渡される物とみなされています。そして交換を通して、今までは身内だった人と人の関係も他人同士の関係になるわけです。そうすると手間暇かけて身内のために物やサービスを作ることが喜びであったのが、他人のために時間をとられることを支配されていると感じ、より少ない時間で、少しでも多くの時間をかけて作り出されたものを手に入れようとして、駆け引きするようになり、これが商品交換の原型になります。つまり私有財産制における交換というのは相互支配であり、できるだけ支配されずにできるだけ多く支配しようとする駆け引きなのです。

 だから疎外はこの根底にある私有財産制度(私的所有)をなくさない限りなくならないということです。マルクスは従って、近代資本主義だけを克服しようというのではなく、未開社会の成熟によって始まった交換にまでさかのぼり私有財産制を止揚するような最も根底的な変革をしないと疎外はなくならないという考え方だったのです。だから当然、私有財産自体をなくすような共産主義に行きつかざるをえなかったということです。

 マルクスはフランスで社会主義者や共産主義者に会い、その主張が極めて粗野なのに閉口していたようです。要するに資本家や資産家の富を没収して労働者が管理運営するということですが、その中には女性の共有まで含まれていたりして、それではかえって私有財産をなくすどころか、財産の平等な分配や共有という形で財産に囚われているじゃないか、それでは本当に私的所有を克服したことにはならないと感じたのです。

 マルクスが最初にイメージしていた共産主義はそういう粗野な共産主義だったので、共産主義には共鳴できなかったのですが、疎外論を通して、結局人間疎外の元凶は私的所有(私有財産制)だと痛感したものですから、その克服は私有そのものの克服つまり共同体による生産・配分という共産主義は否定できないわけです。それで粗野な共産主義と環境的自然や社会的諸事物を非有機的身体として捉え返して、人類が互いに身内の共同的存在になる真の共産主義を区別して自ら真の共産主義を目指すようになったのです。

 しかし交換の発生や私有財産の成立というのは、未開社会に起源をもちますが、それによって事物を客観的に捉え、主語述語的に概念把握できるようになったきっかけでもあります。いわば人間が動物的な限界を突破して、本格的な言語や社会形成に踏み出したのも私有財産制によるのであり、したがってそれを根本的に克服するのは、人間がそれによって人間になった限界を突破することですから、極めて難しいことですね。それをマルクスはすぐにでも実現できるかのような幻想を抱いていたわけで、そこはマルクスのラディカリズム(急進主義)の限界です。

第五講 実践的唯物論から唯物史観へ